-other side-
ーOther sideー
いつしか…自分でも気づかないうちに、心は淡く薄く溶かされていた。
暗い、赤黒い復讐心に囚われて身動きの取れなくなっていた私の心は、少女に触れることで少しずつすくい上げられていく。
冬の朝日が、目覚めたばかりの眼に痛く入り込むような。薄藍色の空にかかった透けていきそうな夕日の色みたいに。したたかに優しく触れてくる。
けれどそれは、自分の心の醜さも同時に浮き彫りにしていた。
私は、少女からの気持ちに応えることはできない。罪深いこの心は愛されてはいけない。満たされてはいけない。犯した過ちは、どうにも償えないものだから。人を傷つけた穢れた身が、尊い愛など受けてはいけない。
少女は知らない。
私が、教授に取り入ったわけを。
あなたに、優しく接するわけを。
すべては憎しみが生んだ復讐であることを。
大事なものを奪われた復讐は、大事なものを奪うことで成し遂げられる。かつて研究のために私の妹を犠牲にした嘘つきの医者を、同じ目にあわせてやろうと思った。
嘘の診察をして、実験のために投与していた薬で苦しめながら妹を殺した、医者と呼ぶのもおぞましいあの男。それが少女の父親。教授と呼ぶのも弟子と名乗るのも反吐がでるほど嫌悪しているが、馬車で殺し損なった少女に近づくには手っ取り早い方法だった。
そう、あの日。ひどい雨、いや…雪の混じった氷雨だったかもしれない。視界の悪い冬の夜だった。荷台に何やらたくさん荷物を乗せて、石畳を急ぐ馬車。
ほんの出来心、なんて可愛いもんじゃない。明確な悪意を持って。それこそ、妹が犠牲にされたときに医者が持っていたような憎むべき悪意を持って、車輪の通り道に石を置いた。
目には目を、歯には歯を。たった1つの小さな小石が、面白いほど人の運命を狂わせた。
転がる車輪。横転した馬車。荷台からはプレゼントらしき箱が飛び出して、濡れた地面に黒く汚された。叩きつけられたそれらの中にはガラス製のものがあったのか、甲高く何かが割れて弾けた音が響いた。
クリスマスを過ぎた頃だ。きっと誰かへの遅れたプレゼントなんだろう。
下敷きになった細い白い腕を確認して、その場を去った。
それが少女のものだったのか、少女の母親のものだったのかはわからない。
けれど、一瞬だけ思ったことがあった。
もしもあの生々しい腕が少女のものだったなら。それがもう二度と動かないことまで確認していたら、今こんなにも苦しい思いはしていなかっただろうと。
私が少女に抱いた最初の印象は、わがままで自分勝手な子。お金持ちの医者の一人娘ともなれば容易に想像はつくが、妙に馴れ馴れしいし、なんでも思い通りになると思ってる。物分りがよく、年のわりには落ち着いていた妹とは全然違う。すぐに泣くし、あれしたいこれしたい、嫌なことはしたくない。優しく笑みを向ければ甘えたがって、ねだればなんでも許されると思ってる。
私は少女が嫌いだった。張り付いたような笑みを向けるのも面倒になりかけて、どんなふうに苦しめて奪ってやろうかを考え始めた頃だった。
『先生、また水の中に入ってたの?手が冷たいわ』
最初はなんのことを言っているのかわからなかった。戸惑いながら問うと、少女は笑って言った。
『冬の寒い真夜中に、橋の上で川を見下ろしていたでしょう?』
そう言われて、あの時自殺しようとしていた私に声をかけたのは目の前の少女だということを知った。
交わした会話を思い返せば、背筋が寒くなった。
『…あなたは、あそこでああしていた人にいつも声をかけていたのですか』
『まさか。先生が初めてよ。それまではなんだか不気味で怖かったけど、なんとなく、そう思わなくなってた』
薄暗いなにかが少女の後ろに揺らいで、微笑む姿が歪んで見えた。
『私、先生の声を聞いてすぐにあの夜の人だってわかったわ。とっても優しい声だったから、ずっと忘れられなかったの』
『…死のうとしていたところだったんですよ。いろんなことに絶望して』
なんのつもりでそういったのか、自分でも未だにわかってない。けどそのとき初めて、私は少女の前で優しい先生の仮面を外した。ほとんど無意識に。
『……そう』
そっと、少女に包まれていた手に力がこもった。とても温かい手だった。自分のより小さいのに、ちゃんと覆われていた。
手はとても温かいのに、心はどんどん冷え切っていく。これからこの温もりを奪おうとしているのだと、否が応でもわからせてくる。
震えが、止まらなくなった。
繋いでいた幼い妹の手。そこから温度が失われていく感覚が、まだ指先に残ってる。
『先生…?どうしたの?』
見上げる大きな瞳。あどけない輪郭を傾けて、健気に気遣う。やわらかな声音が耳の奥で響いていた。
自分の母親を事故に見せかけて殺した私の手を、そうとは知らずに温めようとする。自由を奪い、窓から外を見つめるだけの達観と諦観の果てに追いやったこの手に、そうとは知らずに縋ろうとする。
無垢な優しさが痛くて、哀れな幼さが痛くて、わずかに残っていた良心がゆるく引っ掻かれた。
『お嬢さん、リハビリを受けて見る気はないのですか』
治る見込みはない。そう言われていたお嬢さんの足。医者である教授の判断は前科があるから信じがたいとはいえ、医学を学んでいる自分が見ても動かすことはできそうになかった。
だからこの言葉は…明らかな悪意だったと言わざるを得ないだろう。
『え…?』
『完全に元通りになるのは難しいですが…車椅子を使わなくて済むようにはなるかもしれない』
ちゃんと笑えているのか不安だった。希望を与えるような声音で言えてるかどうか不安だった。何も答えずに、ただ自分を見つめてくるだけの瞳が怖かった。この心が持った悪意に気づかれてしまうのが怖かった。
『…そうね。先生がそういうなら頑張ってみてもいいかもしれないわ。そうしたら、お母さまのお墓まいりにいけるものね』
『……行って、ないんですか…』
『ええ』
『どうして…?教授はあなたを連れて行かないんですか?』
『ひとりがいいのよ。お父さまは、お母さまのことが本当に好きだったから』
胸が焼けるような痛みを感じた。少女が母親の墓まいりに行ってないこと、父親を気遣ってねだらずにいること、悲しげにすることもなく淡々とした声で言った事実に、なぜだかその時無性に、怒りにも似た感情が湧いた。
どうしてこういうときだけ物分りが良くなるのか。どうしてこういうときこそいつものわがままを言わないのか。それはわがままにすらならない持つべき望みなのに。悲しみを共有できるはずの唯一の父親とは、どうしてきちんと話をしないのか。
彼女から母親を奪っておきながら、悪意のある言葉をかけておきながら、こんな感情になるのは罪深いとさえ言える。それでも言わずにはいられなかった。
『だったら、私が連れて行きます。お嬢さんが歩けなくても、車椅子を押して…』
『だめ。先生とはいけないわ』
決して強い声ではなかったのに、私はそのとき言葉を失った。自分の声を遮ってまで返されたのは初めてだった。
なぜ、と聞くことはできなかった。
その日何度目かになる恐怖をまた感じた。
だって、お母さまを殺したのは先生でしょう
そんな言葉が返ってきたら。
微笑みながら、そんなことを言われたら。
知っているのかもしれない。彼女は、無邪気に振る舞う裏で本当は私を憎んでいるのかもしれない。私がそうであるように、彼女も。
怖い。何がと問われても答えはいくらでもあって、答えられない。
復讐のために近づいた存在にどう思われようとよかったはずだった。軽蔑されようが、憎まれようが、それは報いだと割り切れるはずだった。そうするべきなのに、そうできないのは、彼女はどこまでも白い人だったから。
私が本当に憎んで苦しめて殺したいのは教授で、彼女じゃない。
そして彼女は知っている。
自分が苦しんでも、死んでも、それは父親にとって傷にはならない。
そして私は、それを否定できなかった。
彼女を奪ったところで、あの男への復讐にはならない。足の不自由な娘を置いて医学のために各地へ渡る姿を見ればわかることだった。
そして私は…
彼女にとって大切な存在を奪った。彼女にしてみれば理不尽な暴力だった。なんのいわれもない不幸だった。
「ねえ先生。リハビリはやめちゃったけど、家の中なら自分でも車椅子を動かせるのよ」
散歩を終えて家に帰った。相変わらず暖炉も付いていない冷え切った室内。今日は教授はずっと部屋に篭りきりなのだろう。車椅子を部屋まで押していこうとしたとき、お嬢さんは得意げに言ってやってみせた。ゆっくり半歩分ずつ進んで行く車椅子を追いかけて、先のドアに手を伸ばした。けれどそれは小さな手に阻まれる。
「ドアも開けられるの。…ほら」
お嬢さんの頭ほどの高さにあった取っ手を掴んで開ける。見上げるように私を振り仰いで笑う顔に、微笑みを返した。
「立派ですね」
あの男はきっと知らない。お嬢さんがひとりでなんでもこなそうとしていること。私の言葉の裏を読んで、わがままを装って気遣ってくること。こどもっぽく振舞って、本当の寂しさを隠そうとしていること。
突然泣き出す時は母親の面影を探している時だってことも、外で遊ぶ子どもを黙って見つめている横顔がひどく苦しげに歪んでいることも、きっと知らない。
支えた肩があんなに薄いことも、その時指に絡まる髪が細く柔らかいことも、夢に魘されていることも。
それを与えたのが…お嬢さんに強いたのが私であることも…
いつの間にか、復讐の道具としか思っていなかった彼女を哀れんで、あの男に対する憎悪が増していた。でもそれはきっと御門違いもいいとこなのだろう。今の私のこの息苦しさは全て、自分が蒔いた種だ。
お嬢さんを大事に思ってしまった。そばで支えたいと思うようになってしまったから、とても苦しい。
彼女の自分を見る目がだんだんと熱を持っていくのがわかるから、首を絞められるようだった。いけないとわかっていても離れがたく、だからといって懺悔することもできなかった。
せめて、夢の中では。
幸せであたたかな夢を見られるように。そう願うことだけはどうか許してほしい。
「お嬢さん。これ…クリスマスのプレゼントです」
「わぁ!ほんとうに!?」
星を散らしたようにきらきらした瞳。今のこの笑顔は、そう振舞おうとしてる顔じゃない。だから安心した。素直に喜んでくれていることが、嬉しかった。
受け取った深緑の箱のリボンを外す。箱を開いて中のものをみたお嬢さんは、無邪気な笑顔から哀色の微笑に変わった。たまに見せる痛々しいほどに大人びた表情。
「…先生も、スノードームなのね」
私、も…?
不思議に思って首をかしげた。お嬢さんは箱からドームを出して手に乗せると、見つめたまま言った。
「お母さまは、クリスマスプレゼントにいつもスノードームをくれたの」
すっと心臓が冷える。彼女から母親の話を聞く時、恐怖を抱くのが癖のようになっていた。
彼女にそんな気が無くても、責められているように感じた。
「先生にもらうのはこれが2つ目だわ。お母さまのは14個だから、先生が追いつくのはまだ先ね」
15個目は割れた。あの事故の日、確かに聞いたガラスが割れる音。あれは、彼女へのプレゼントだったのか。
「……」
「冗談よ先生。そんなに真に受けないで」
黙ってしまった私に、お嬢さんは困ったように誤魔化した。これからも贈ると言えなかった。未来の約束は私にとって幸せなこと。それをしてしまえば、贖罪の機会は永遠に失われる気がした。
わかってる。お嬢さんが本当は私にどうしてほしいか。嘘でも望む言葉をあげるべきだったのかもしれない。
「私、先生になにもお返しできないのに、貰ってばかりなんてできないもの」
「そんなことないです。そんなこと、望んでない」
自分勝手なのは私の方だった。自分勝手な思いだけで、今もここに居座り続けている。
「ねえ覚えてる?先生がしてくれたスノードームの夢のお話」
「…はい」
「これはきっと誰かの夢だったのね。このオーナメントみたいに、綺麗なドレスを着て思う人と踊れたら、って」
綺麗な水色のドレスを着た少女が、金髪の少年と踊るオーナメント。
ああ…これもきっと悪意だと言わざるを得ない。そんな気つゆほどもなくても、あなたを思って贈りたくなった、その一心だと胸を張って言えない。
隣に立って歩きたかった。慕ってくれる眼差しを向けてくれる彼女に、なんの後ろめたさもなく堂々と向き合いたかった。
出会い方が違ったら、利用しようとなんかしなかったら…復讐心なんかで近づいたばかりに自分の首を絞めることになった滑稽で愚かなこの身をいっそ終わりにしてしまいたい。
「先生。あのね…」
まだドームを見つめたままで、お嬢さんはそう声を落とした。
ひとつ、ちいさな口から息を吐いて、そして言った。
「今日でさいごにしましょう」
よくある復讐のお話。
最初に考えていたストーリーと全然別方向に進行中で消える可能性あり…
馬車の事故覚えあると思ったら前作で書いてました