前編
冬月12月 夢喰いスノードーム
しんしんと雪が積もっていく窓の外を落ち着かない気持ちで眺めた。今日は約束の日。時間はとっくに過ぎてるのに、一向に玄関口に人が訪れる気配がない。
サイドテーブルに置かれたランプだけが、部屋を照らす唯一の灯り。ベッドの中でそわそわしながら、窓際に並べたスノードームのガラスを指先でなぞった。冷たくて滑らかな感触が温まった肌に心地よかった。
窓枠に肘をついて、じっと待つ。小さくなったり大きくなったり、揺れる炎でとろける蝋みたいにまぶたが微睡んでくる頃、耳の奥をくすぐる微かな鈴の音が聞こえてきた。
その音にはっと顔をあげて、ガラスに顔をくっつけて玄関口を見ると、辻馬車が停まっていた。イブニングコートにシルクハットをつけた背の高い影がこのお屋敷の扉をくぐるのを見て、萎みかけた気持ちがふわっと膨らんだ。
廊下に小さな話し声が響いている。ひとつは聞き慣れたお父さまのもの。低くて少し掠れた声。それからもう1つは、柔らかくて優しい若い声。どちらも大好きだけれど、私の耳はもう1つのほうを一生懸命聞いていた。
やがて話し声がこの部屋の前で止まる。寝静まっていると思っているからか、そっと音も立てずに扉が開けられた。
「おかえりなさい!」
影が見える前にそう声をたてる。
すぐに扉が大きく開いて、想像通りの2人が立っていた。お父さまは私が起きていることを知ると、眉を顰めてため息をついた。
「寝ていなさいといっただろう。何時だと思ってるんだ」
「まだ10時過ぎよ。イヴの夜は遅くまで起きていていいって、クラスの子が言ってたもの。それに今日は帰って来る約束だったでしょ?それも8時に」
ベッドに近寄ってくるお父さまにそう捲したてる。今日は特別な日。たとえ他の子がいい子に寝ていても、私は起きていたかった。毎日この時間にはもう夢の中だから、本当は少し眠かったけど、2人が帰ってきたからそんな眠さも吹き飛んだ。
お父さまは私の言葉にまた深く眉根を寄せる。聞き分けの無い子だと思ったって、そんなのはいつものこと。
そして私が今日をとても楽しみにしていたことを知っているからか、お父さまはため息をついただけで何も言わなかった。
代わりにそばにいた彼が口を開く。
「教授、お嬢さんが眠るまで私がそばにいます。長旅でしたし、お休みになってください」
「…まったく…。君には苦労をかけるな」
「いえ、そんなことありません。私もお嬢さんとお話できて嬉しいですから」
穏やかに笑う。淡い金髪がほのかなオレンジ色に照らされて輝いて見えた。
お父さまが後を任せて部屋を出て行くと、その人は持っていたコートと帽子をソファに適当にかけた。それからベッド脇に椅子を持ってくると、そこに座ってようやく私と目を合わせる。
「おかえりなさい」
静かになった部屋の中に自分の声が吸い込まれていった。ベッドの上で上体だけを起こした私と、椅子に座った彼。普通にしていたら首が痛くなるほど見上げなくちゃいけないけれど、こうして同じくらいの高さで視線を交わすこの瞬間が、照れくさくも嬉しかった。
それに、もう私は彼を見上げることはできない。
「はい。ただいま帰りました。足の具合はどうですか」
私の言葉に微笑んで答えてから、すぐに気遣う視線になって言った。
1年前、馬車での交通事故にあった。一緒に乗っていたお母さまはそのとき亡くなって、私は両脚不随で歩けなくなった。
「駄目みたい。リハビリ、結局やめちゃったの」
私が言うと、彼はとても辛そうに唇を引き結んだ。そういう顔をさせることはわかっていたけど、言わないわけにもいかない。
「…手紙で、随分悩んでいましたね。私からの返信は読んでいただけましたか」
「読んだわ。でも、やっぱりやろうとは思えなかったの。ごめんなさい」
「…謝ることはありません。決めるのはあなたですから」
寂しそうな顔。私は、いつもこの人を困らせる。意見を求めておきながら、助言を望んでいながら、この人の勧める通りにしたことはない。後ろめたく思わないわけではないし、疲れさせているとわかっている。
勝手だし、臆病で狡くてわがままだけど、漠然とした不安を解消したくて、どうしても彼に言を求めてしまうのをやめられなかった。
「ねえ先生。私、今日がとっても楽しみだったの。旅でのお話を聞かせて」
話題を変えたくてそういう。まだやるせなさそうな視線を向けていた先生は、泣き笑いして頷いた。
約1年前…真冬の寒い季節。先生に出会ったのは、事故にあってすぐだった。大好きなお母さまを亡くして、その上足が動かなくなった私は抜け殻のようにベッドに寝たきりになっていた。活発だった私は、外で遊べなくなってから眠れない日が続いていた。そんなある夜、窓枠に肘をついて、飾っていたスノードームを眺めていた時、ガラスの向こうに見つけたのが先生だった。
窓は開いていたけれど部屋の明かりをつけていなかったからか、私が起きて見ていることに気づいていないようだった。
すぐ近くの橋の上で川を見下ろしていた、その時の先生の背はやけに小さくて、月明かりに照らされた淡い金髪を今でも覚えている。冬の夜風に吹かれて飛んでいきそうなほど、儚く頼りない影を連れていた。
『星を見ているの?』
なんとなく気になってそう声をかけた。届くかどうか微妙な距離だったけど、静まり返った夜の中で私の声はやけに響いた。
その人は振り返って、声の主を探すように首を動かした。揺れた前髪の奥に見え隠れした瞳は穴があいたように真っ黒で、その目はやがて私を捉えた。
一瞬目があうと、心なしか開かれる。僅かな隙間から差し込んだ光が、暗闇を少しだけ照らした。
『…違います。川面に星は映らないでしょう』
耳に残る柔らかな声音。どこか非難めいた口調をされても、人柄を隠しきれていない。
『でも、キラキラしてない水の中に入りたい人なんていないでしょ?』
不思議な感じはしたけど、その人のことを怖いとは思わなかった。闇の中にぼんやり白く浮かび上がって、真っ黒な目をしていても、ほんの少し湿気を含んだ冷たい風が首元を撫ぜても、不気味な感じはしなかった。
『どうして…私が水の中に入ると思うのですか』
『だって、真夜中にそこにくる人は大抵そうしてるわ』
『……』
そういえば、声をかけたのはこの時が初めてだ。二、三度は目にしているけれど、なんだか不気味で怖かったから。
でも…どうしてか彼の時は違った。夜の中で光って見える淡い金髪のせいかもしれない。どことなく神聖な空気が警戒心を解いていた。
『あなたは違うの?』
『…はやくお休みなさい。私ももう帰ります』
『眠れないから、あなたが帰るのを見届けるわ』
きっとこの人も、水の中に飛び込もうとしていたのだと思った。その行為に対して何か特別に心が動かされたことはない。ただの事実、事象として無感動に受け止めていた。
だから、この時先生が死のうとしていたことに考えが至らなかった。
「今回の旅も、随分大変だったのね」
「それなりには。苦労もありましたけど、その分たくさん研究が進みましたし、教授はやっぱりすごい方です」
話を終えて、先生はとても生き生きとしていた。
私のお父さまはこの街では名の知れた医学者。先生はその助手。私と関わってから、お父さまが有名な教授であることを知って、自分から弟子にして欲しいと頼み 込んだらしい。
それ以来、家に住み込みで私の家庭教師と世話係を兼ね、勉強を重ねて数ヶ月もしないうちに研究のためにお父さまについて旅に出るようになった。
もともと大学で医学を専攻していたこともあって、要領もよかったからだとお父さまは言っていた。
「…眠くなりましたか?」
「…少しだけ。横になってもいい?」
「もちろんです。そういえばお嬢さん、明日は教授とどこかにお出かけされますか?」
先生の大きくてしっかりした手が、私がベッドに横たわるのを手伝ってくれた。自分で寝るくらいのことなんでもないのに、優しくて温かい感触に安心して遠慮できなかった。
「ううん。どうして?」
「明日はクリスマスですから…」
「…何も予定はないわ。お母さまの命日も近いし、お父さまも祝い事をする気分じゃないと思うの」
「…すみません」
どうして謝るの。そう聞こうとしてやめた。先生の優しさだから、聞いたら思い通りの答えが返ってくるだけ。申し訳なさから、ほんの少しの息を吐く。
「先生はお家に帰らないの?」
多分この先、この家にクリスマスを祝う明かりが灯ることはないだろう。こんな寒くて暗い場所に、先生までいることない。
精一杯の気遣いを、それでも先生は明るく拒んだ。
「はい。帰ってもひとりですから。お嬢さんさえよければ、明日もここにいさせてくれませんか」
そっと手を包む感覚がした。先生はいつもそういう言い方をする。あくまでも自分のためであるかのような。でも私の望みをわかっていて、それを求めやすくしようとする。
それに気づくようになってから、痛くて悲しくて、どうしようもなくなった。素直に喜べなかった。多分先生自身は、そんな自覚ないのかもしれないけど、彼の底なしの優しさが、時折私にとてつもない罪悪感と虚しさをもたらす。
「私が断ると思う?先生がいてくれるなら、車椅子に乗せてもらえるもの。一緒にお散歩したいわ」
部屋の仄暗さが救いだった。歪んだ微笑みに気付かれなくて済む。
「ええ、もちろん。どこにでも連れて行きます。とても楽しみです」
先生はそういって、嬉しそうに微笑んだ。
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