◆たったひとつの贈り物(前)
ハッピーエイプリルフール2024!
今年は投票していただいた結果、「エミーリアとのお話」ということになりました。
書けるかな…間に合うかな…とびくびくしながら駆け抜けたこの数日間。
蓋を開ければ2万字近い超ロングSS、もといLLとなりました(通常運転)。
無欲の読者さんなら慣れてますよね??
というわけで前後編にしか区切らず、長文つかまつります!!読んでください!!!
さて、今年で三度目となる還俗期間の、二日目。
孤児院に残ったレーナとブルーノは、金の精霊の目と繋がっている盥の前で座り込みつつ、窓から差し込んできた朝陽をぼんやりと見上げた。
「朝だわ……」
「朝だな」
「二日目がやって来たわ……」
「まだ二日目なんだな」
両者とも、声に疲労が滲み出ている。
それはそうだ、「あまりにレオが危なっかしいから、金の精霊の目を通じて監視しましょ」と提案したのはレーナだったが、レオときたら、本当に呼吸するように次から次へと事件を起こすのだから。
一日目にしてすでに、午前中に誘拐されて、からの相手を改心させ、夕方のパーティーでは酒に潰れてアルベルト皇子をギラつかせ、なんとか回避したもののモブ聖職者に言い寄られ、無意識にそれを躱したかと思いきや、盗み聞きしていた皇子の執着心を、かえって増強してしまった。
一年をかけて分散されるべき惨事が、たった一日で圧縮して起こっているように思えてならない。それを見守り続けたレーナたちの精神は、すっかり疲労困憊だ。
「あんの、レオ野郎……」
レオの姿になったレーナが、両手に顔をうずめて唸る。
「皇子の執着心をあんなに育ててどうすんのよ。皇帝即位確実って言われてる男よ? 遠くない未来、絶対あいつはこの国、いいえ、大陸中の最高権力者になる。そうなったら、精霊の愛し子だろうがなんだろうが、手籠めにされても誰も逆らえないのよ?」
とにかく彼女は、アルベルト皇子の執着が恐ろしくてならなかったのだ。
「私、絶対無理だからね。万が一そんな事態になったら、体だけレオに押し付けてばっくれてやるんだからね……っ」
金髪強引イケメン無理、金髪強引イケメン無理、と呪文のように呟くレーナの横で、ブルーノはただあぐらを掻いているだけだ。
慰めの言葉ひとつ寄越さない男を、レーナはぎろりと睨みつけた。
「ちょっと、何黙ってんのよ。善良でか弱い美少女が絶望してんのよ? 気の利いた言葉の一つ二つ吐いて、ちょっとは恐怖を和らげなさいよ」
「レオの姿でそんなこと言われてもな」
ブルーノはあっさりと塩対応を見せたが――この男は、基本的にレオの魂以外にはちらりとも優しさを見せない――、レーナが「そのレオの姿でしくしく泣いてやりましょうか!?」と脅しつけると、「ふむ」と顎を撫でた。
「ならば、そうだな。レーナ、べつに皇子のことでそこまで思い悩む必要はない」
「おっ?」
意外にもすんなりと慰めの態勢を見せはじめたブルーノに、レーナは目を瞬かせる。
この男にも、人を慰める機能や機微が搭載されていたとは。
「そう思う? そうかしら?」
「ああ。俺が思うに、目下最大の危機は、皇帝になっていない皇子の執着心ではなく、相応の権力を持つ侯爵夫妻の執着心だ」
「恐怖をべつの恐怖で対消滅させんじゃねえわ!」
が、ブルーノは宥めるどころか、新たな恐怖を突き付けただけだったので、レーナは金盥を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
「やめてよね、冗談でもそういうこと言うの! だいたいあの二人は、重度の孫馬鹿だけど、皇子と違って実害はないでしょうが!」
自分に言い聞かせる意味も込めて、叫ぶ。
そうとも、ハーケンベルグ侯爵クラウスと、侯爵夫人エミーリアは、「レオノーラ」のことをどろっどろに甘やかしてくる人物だが、少なくとも皇子と違って、「レオノーラ」を妊娠させる恐れはない。
それに、なにかと言えば「いっそ閉じ込めて僕だけのものに」という暗い視線を向けてくる金髪野郎とは異なり、監禁の可能性も低かった。なぜならあの二人は、どちらかと言えば最愛の孫を、皆に「見て見て見てうちの孫! 可愛いでしょ!!」と見せびらかしたいのだから。
「どうせ執着心を煽るなら、あの二人にしてくれたらまだよかったのよ。財力や権力で皇族に劣る彼らなら、どうせ『レオノーラ』に貢いだところで、影響もたかが知れているし」
例えば昨日、彼らが還俗日のためにしたことと言えば、高級なドレスを贈ったり、高価な食事を用意したりしたことだけだ。
それだけでも平民からすればぶっ飛ぶレベルのもてなしだが、皇帝の権力を継承する皇子と比べれば、やはり規模は小さい。
なにしろアルベルト皇子ときたら、「孤児院から王都への道がでこぼこしていては、還俗時の移動に時間が取られ、会う時間が短くなってしまうだろう?」という理由で道路整備を命じたり、「万が一レオノーラが病気にかかって、還俗がなくなっては困るだろう?」という理由で疫病対策を強めたり、「もし還俗期間中に戦争なんかが起こって遠征でもさせられたら、レオノーラに会えないだろう?」という理由で隣国との戦争の芽を徹底的に潰しているのだから。
いずれ「レオノーラのために」という理由で軽々国ひとつくらい滅ぼしそうで、レーナとしては恐ろしい。
ちなみにエミーリアは、アルベルト含む多くの人々の実績を、我が物顔で「功績」として光の精霊に披露することで、還俗日数を年々吊り上げていた。とんだ策士だ。
ところがそれを聞いたブルーノは、ふと溜め息を落とした。
「レーナ。おまえはレオの性格というものをまったく理解していない」
「はあ? 理解もなにも、レオといえばとにかく守銭奴。それに尽きるでしょ?」
「そう」
怪訝な顔になったレーナをよそに、ブルーノはふと、己の着ているセーターを見下ろした。
昨年、レオが仲間たちと一緒になって贈ってくれたものだ。
「あいつはドの付くケチだ。どんな小さな貸しだって絶対に見逃さない。だが同時に、どんな小さな借りだって絶対に忘れないんだ。ある意味で、この世の誰より義理堅い」
「言われてみれば……」
レーナもまた思い出した。
守銭奴レオといえば、「じゃがいもの芽が出てる部分は食えないだろ? なら食えない芽のぶん負けてくれよ!」と芽を数え上げてでも芋を値切る人間だ。
だが同時に、「あのおっちゃんはな、9ヶ月前に買い物したとき芽の数18個ぶん負けてくれた優しい人なんだぜ。悪口なんて言うもんじゃねえよ」と、些細なことを恩に数える人間でもあったのだ。
「つまり、侯爵夫妻がよくやる贈り物攻撃は、びっくりするくらいレオによく効く。『あの人には金貨〇枚ぶんの恩があるし』と簡単に絆されてしまうわけだ。言い換えれば、『恩』は金に換算しやすいものであればあるほど、レオに効く」
「なるほどね。引き換え皇子ほどの大がかりな『恩』になると、もはや規模が大きすぎて実態が掴めない、と」
「そう。規模が巨大すぎて公共性を帯びるようになると、レオの金換算能力は麻痺してしまうんだ」
レーナは大いに納得した。
自分に置き換えたって、「君のために金貨十枚分のネックレスを用意したよ」と言われたら価値がわかるけれど、「君のために土木事業を新設したよ」と言われても、いまいちピンと来ない。というか、信じられないものだ。
「じゃあ、レオの感謝の念は、侯爵夫妻に向けてばかり、蓄積されていくってこと?」
「そうだ。そして、貸し借りに敏感なレオが、借りばかり積み上げていくと、どうなると思う? やつは本能的に、『返さなきゃ』と考えはじめるだろう」
いよいよ話が読めた。
「もしそこに、孫を溺愛する夫妻が、『ずっとここにいて』と懇願でもしたら――」
「ああ。皇子が強引に監禁してもやつは逃げ出すだろうが、恩でがんじがらめにされて懇願されたら、むしろ自分からふらふら、夫妻へと寄っていくかもしれない」
「それはまずいわ」
レーナは眉間に皺を寄せたが、意外にもすぐに、ふっと笑みを浮かべた。
「でも大丈夫。理由は違うけど、贈り物攻撃については、予め対策を講じておいたから」
「対策?」
「そうよ。侯爵邸では贈り物を極力撥ねのけてきなさいって、一年かけてレオに刷り込んでおいたの」
そう。レーナは三度目となる還俗期間を迎えるにあたり、レオに「贈り物は絶対受け取らないで。受け取るにしても、遠慮だと誤解される隙もないくらいすっごく嫌な態度で受け取って」と、昨年から教え込んでいたのである。
「なぜまたそんなことを……」
「だって、あいつが私の美少女顔で、ぱぁっと目を輝かせたり、はにかんだり、涙目になったりして喜ぶからこそ、周りの好意は加速するんだもの」
難色を示したブルーノとは裏腹に、レーナは金盥の前に再び腰を落ち着け、得意げになって説明した。
「皆は、『レオノーラ』の喜ぶ顔が見たいのよ。好意は返されるからこそ強固になるの。あいつがムスッとして、贈り物をこき下ろしでもすれば、相手のほうから愛想を尽かすわ。嫌われ者の私が言うのよ、このメソッドに間違いはない」
「おまえ、その保証の仕方に虚しさはないのか……?」
ブルーノはぼそっと呟き、しばし策を吟味するように顎を撫でたが、やはり溜め息を吐いた。
「理論としてはわかるが、裏目に出る気がする。無料と贈り物に何より弱い男だぞ? そう簡単に撥ねのけられないだろう。目を金貨の形にしてハアハア言うのが関の山では?」
「私もちょっとは思ったわよ。でもね、なぜか今回は、レオも真剣に請け合ってくれたの」
「真剣に?」
声に驚きを滲ませたブルーノに、レーナは両手を広げながら頷いてみせた。
「そ。なんと金の精霊に懸けて誓ってくれたわ。絶対拒絶してみせるって」
「金の精霊にだと?」
「ええ。いつもみたいに、ノリで『よくわかんねえけどおっけー!』って指を立てたわけじゃない。絶対に破らない覚悟で臨むということよ」
正直なところを言えば、レーナとてレオの反応には驚いたものだ。
だが、レオはこちらの目をしっかり見て頷いてくれた。
ああ見えて、約束はきちんと守る男だ。
きっと、還俗期間を過ごすたびに大騒動を起こしていることについて、彼なりに思うところがあったのだろう。
「一日目の昨日は、侯爵夫妻も外出がメインで、あまり贈り物攻撃をしてこなかった。ということは、中日の今日、仕掛けてくるはずよ。不安はあるけど、レオのお手並み拝見ってところね」
「そんなにうまく行くといいがな」
と、ブルーノが肩を竦めたちょうどその時、金盥に張った水が淡く光を放って、像を結びはじめた。
どうやら「向こう」で事態が動き出し、光の精霊の「目」が開いたようである。
――おはよう、二人とも。よく眠れた?
同時に、金盥から柔らかな声が響く。
金の精霊・アルタのものだ。
――こちらでは、「レオノーラ」のためのモーニングパーティーを開こうとしているところよ。
「モーニングパーティー?」
――そう。昨夜のパーティーは、皇子はじめ、身分が高い人向けの内輪のもの。でも、ほかにも「一目『レオノーラ』に会いたい」という人が引きも切らないから、モーニングパーティーという形で、ささっと皆にお披露目を済ませてしまう意図のようよ。
精霊の解説を聞いて、レーナは夫人の采配に唸る。
還俗日延長のために多くの人々の力を借りた以上、彼らには報いなくてはならないし、自慢の孫娘を見せびらかしたい。けれど自分たちとの時間は奪われたくない。
だから、ほぼ一日を取られてしまうイブニングパーティーではなく、簡素でも許されるモーニングパーティーに、謁見を望む「その他大勢」をぶち込もう、というわけだ。
――ほら、見えるかしら。今、エミーリア夫人が手配した職人たちが、プレゼントを運び込んでいるわ。
カイを先頭に、様々な箱や物品を手にした職人が、誇らしげにプレゼントを広間に運び込む図を見て、レーナは顔を引き攣らせた。
「なにこの物量。去年の三倍以上に増えてない?」
「質もかなり上がっているようだぞ。これは……全部断るのも骨が折れそうだな」
ますますレオに不利と見える状況に、ブルーノも思案顔だ。
「というか、侯爵家の財力で賄える域を超した物量に見えるが」
――ああ、実際のところ、職人たちの多くは、無料で構わないからといって品物を提供しているらしいわ。
ブルーノが首を捻ると、アルタはあっさりと実情を教えてくれる。
――なにしろ、社交界の重鎮・エミーリア夫人が直々に目利きをするのだもの。「レオノーラ」還俗日に贈られた品物、というだけで、今や「皇室御用達」以上の価値があるそうよ。
「なにそれ」
――ちなみに、「レオノーラセレクション」と呼ばれているそうよ。
「なにそれ!?」
レーナが二連続で叫んだ。
なるほどこの場には、「あのレオノーラに捧げられた」という箔ほしさに、大陸最高水準のものが集められているというわけだ。
見れば、ひねくれ者のレーナでさえ目を剥くようなダイヤや、何百人がかりで仕上げたのだろう巨大な絨毯、どこの王国から略奪してきたんですかと尋ねたくなるような王冠や、図録で見たことがある気がする楽器、庶民ですら名を知っているシェフの掲げ持つ銀盆や、その他もろもろ、たしかに遠目でも唸るような代物が続いているのであった。
「こちらにまで金の匂いが漂ってきそうだな。さすがに、こんな超高級品を前に、難癖をつけるのはレオには不可能じゃ……」
「うるさいブルーノ! あいつは誓ったのよ。信じるしかないじゃない」
弱気なことを呟いたブルーノを、レーナは叱り飛ばす。
同時に、これはチャンスだと己に言い聞かせた。
(代物はどれも超高級品ばかりよ。ちょっとでも価値がわからない素振りを見せれば、十分侮辱に当たる。むしろ好感度を下げやすくなったようなものよ)
金貨十枚分の宝石にふさわしい褒め言葉など、一般庶民にひねり出せるわけがない。
贈り物の価値が高ければ高いほど、「レオノーラ」の見せる拒絶的な態度は、一層感じ悪く映るだろう。
(いけ! レオ! 庶民力をバリバリに発揮して、頓珍漢な褒め言葉を言うだけでも十分よ!)
レオに対する期待値を密かに下げ、レーナはまるで母親のような心境で、アルタの紡ぐ光景を見守った。
今、金盥の向こうでは、職人たちがぞろぞろと侯爵邸の広間へ入室を済ませ、跪いたところだ。
麗しの「レオノーラ」は、長蛇の列を成す職人たちに驚いたのか、紫水晶の瞳をまん丸に見開きながら、段上のテーブルセットに腰掛けていた。
どうやら、モーニング「パーティー」というのは名称だけで、実質的には、レオノーラが朝食をもぐもぐしながら、次々と差し出されるプレゼントを受け取るだけの会らしい。
構図だけ見れば、大使との謁見をする女王のようだった。
『さあさあ、レオノーラ! あなたのために、大陸中から素晴らしい贈り物を集めたのよ。聖堂へのお土産だと思って、受け取ってもらえないかしら?』
『えっ、こ、これ、全部、ですか!?』
司会進行役を務めるエミーリアがテーブルの向かいから微笑めば、美少女の皮を被った守銭奴も、さすがに動揺を隠せぬ様子で聞き返す。
『ええ、もちろん。念のため言うけれど、お金のことなんて気にしないでね。わたくしたちは、あなたに喜んでもらいたいだけだし……それに、実はちょっと、皆が値引きしてくださったの』
『ね、値引き!?』
扇の陰から、エミーリアがぱちんと目配せを寄越す。
もちろんそれは、夫人なりの冗談だったわけだが――なにしろ実態を表すなら「値引き」なんて範疇では済まない――、そのワードはレオの理性にクリティカルヒットし、あっさり箍を外された守銭奴は、興奮に顔を赤らめてしまった。
『あら。ちょっと低俗なジョークになってしまったかしら。もちろん、こちらから値切るなんて、はしたないことをしたわけではないわ』
孫娘を恥ずかしがらせてしまったと受け止めたエミーリアは、ちょっと照れたように付け足し、さあ、と、列に並ぶ一番目の職人に声を掛けた。
『最初は絨毯よ。祈りの際に長時間跪いたら、あなたの膝が痛んでしまうと思って依頼したの』
『は、初にお目もじつかまつります! おう、者ども、運べ!』
『はい、頭領!』
すると、十名近くの職人たちが、緊張した面持ちで巨大な絨毯を掲げ持ってくる。
すっかりギャラリーと化したほかの職人や、サロンの経営者などは、その巨大さにどよめいた。
『初手から絨毯ですって?』
『すごい大きさだ』
『でも、絨毯ってどうやって評価すればいいの?』
贈り物の規模が豪快すぎて、皆、どうやってそれを受け止めてよいのかわからずにいる。
宝石やドレスの評価は口にできても、絨毯の品評などしたこともなく、はたして受取手はどのような賛辞を述べるのかと、一同は興味深そうに少女を見つめた。
『エ、エミーリアよ。いくら聡明なレオノーラとはいえ、絨毯の善し悪しなどわからないのではないか?』
調度品に疎い筆頭のハーケンベルグ侯爵クラウスが、見かねて制止に入ると、夫人は確信に満ちた顔で「いいえ」と首を振る。
『慧眼を誇るわたくしの可愛いレオノーラなら、たとえ初めて見たものでも、その素晴らしさを正確に理解できるはずですわ』
金盥越しに発言を聞いていたブルーノは、呆れたように嘆息した。
「そんな馬鹿な。貴族だって違いがわからないものを、どうしてレオがわかると言うんだ」
「いいえ、これはチャンスよ」
だがレーナはぐっと拳を握る。
「頓珍漢な感想を述べて、夫人に呆れられてしまうといいわ」
だがそのとき、椅子に掛けていたはずの「レオノーラ」が、がたっと立ち上がった。
『こ、これは……!』
目は興奮に輝き、唇は衝撃にわなないている。
紫水晶のような瞳で、上から下までじっくり絨毯を見回すと、「彼女」は熱に浮かされたように呟きだした。
『通常は経糸に木綿を使用するところを、絹糸で……! しかも金糸と銀糸まで惜しみなく……! 配色、構図、ともに申し分ない、まさに万金の価値を誇る絨毯!』
「なんでプロの評論家みたいなことになってんのよおおおお!」
金盥のこちら側でレーナが絶叫する。
「なんであいつ、経糸の素材とかを瞬時に目利きできるの!?」
「ああ、そういえばやつは、一時期エランド絨毯の工房で短期奉公をしていたな」
「多彩な経歴……っ!」
両手を髪に突っ込んで懊悩するが、もう遅い。
職人たちは「そこまでわかっていただけるのか」と、歓喜のどよめきを上げた。
『レオノーラ様……! あなたのような、価値がわかる方にこの絨毯を納められること、誇りに思います!』
これまで見る目のない貴族に買い叩かれてきたのだろう、職人の頭領は感動の涙まで浮かべている。
「レオノーラセレクション」に認定された証として、記念品の紫の薔薇の旗を与えられると、彼らは歓声を上げてそれを振り出した。
夫人はますます鼻高々といった様子で微笑み、一方で広間の空気はますます熱気を帯びていく。
職人たちのやる気に火が付いたからだ。
このレオノーラセレクション、どうやらただの道楽ではない。
ここで本気を見せれば、必ずや栄光の道が拓ける――!
「ああもう! ああもう! あああ、もう!!!!」
一方でレーナは地団駄を踏んでいた。
どうしていつもこうなるのだ。
だが、我を忘れた守銭奴は、差し出されるプレゼントを前に次々と、「こっ、これは、最新の洗浄法を駆使した銀食器!」だとか、「なんと! これは通常品の五倍の強度を誇る櫛!」だとか、その後も四連続で、職人たちの誇りをくすぐる評を連発しているのだった。
暴言でないだけに、暴言封印の魔術がまったく機能してくれない。
――ごめんなさいね、私の愛し子が。金品を見る目があるばかりに……。
アルタは詫びるが、その声はどことなく嬉しそうだ。
「だから言っただろう」
ブルーノに至っては、呆れたように苦笑するだけだった。
――でもべつに、レオは夫人や職人の歓心を買おうとして、こうした発言をしているわけではないのよ。ただ、心から、金の匂いがする品々に興奮してしまっているだけで……あら?
擁護していたアルタが、ふと声を途切れさせる。
ついで、彼女の意思と同期して、金盥に移る「視界」が、ぐっとある人物に迫った。
列の五番目に並んだ、髭が立派な男性だ。菓子箱と思しき箱を恭しく掲げ持っている。
――彼……。
怪訝そうなアルタの呟きをよそに、順番が回ってきて、男性は夫人に呼ばれてしまった。
『お次は、お菓子よ。チョコレート工房、サロン・ド・スーゲの職人、ヤヴァン。こちらへ』
『はい!』
どうやら彼は、チョコレート職人であるらしい。
ヤヴァンは顔を伏せたまま粛々と歩み出ると、深々と夫人に一礼し、遠目にもわかるほど美しい菓子箱を、段上の少女へと差し出した。
『レオノーラ様はチョコレートがお好きで、お土産には毎年、大陸で最も優れたサロンのものが選ばれていると伺いました。三回目にして、有名な『サロン・ド・モブリス』のものではなく、当サロンの作品が選ばれたこと、誠に誇りに思います』
そうして、恭しい仕草で、宝石箱のように豪華な箱を開けてみせる。
『最高級チョコレートのアソートです。どうぞ、ご賞味を』
中身も実際宝石のようで、艶やかにコーティングされたチョコレートが5粒、整然と並んでいた。
「ああっ! あれ、聞いたことがあるわ。下町にすら名前が轟く、超有名工房の最新作じゃないの! たった五粒で銀貨五枚もするやつ!」
女子として相応にスイーツ情報にも詳しいレーナが、思わず金盥に身を乗り出す。
サロン・ド・モブンスも、サロン・ド・スーゲも、どちらも大変有名なチョコレート工房だ。
前回レオがモブンスのチョコレートを持ち帰ったとき、レーナは成金趣味の味だなと不満を吐きつつも、ぺろりとそれを食べきったものである。
ただし、サロン・ド・モブンスは、その後、原材料の値段をごまかしていたとかの噂が立ってしまったので、それで今年は他のサロンに白羽の矢が立ったのだろう。スーゲは、高価格ながらも、それに見合った製品をきちんと作っていると評判のサロンだった。
(そ、そんなものを、この場で食べようものなら……!)
その脳裏では、めまぐるしく未来予想図が駆け巡っていた。
たしかレオのやつも、チョコレートは好物だったはず。
しかも超がつく高級チョコだなんて、いよいよ我を忘れて褒めちぎるに違いない。
(ほっぺを押さえて金の芳香と甘さにときめくあいつの姿と、その愛らしさに悶える夫人たちの図しか浮かばない……っ)
「自重しなさいよ、レオ……!」
ぎりっと歯ぎしりし、金盥の向こうを睨みつけたその瞬間、しかし、予想を大きく裏切る事態が起こった。
『チョコレート……』
少女が、まるで十二時の鐘の音を聞いた姫のようにはっとし、ついで、険しい表情を浮かべたのである。
『いりません』
まるで、氷のように冷ややかな拒絶。
「え?」
『え?』
金盥のこちらとあちらで、ざわめきが同期する。
それまでの朗らかな熱気溢れる雰囲気から一転、突然冷然としだしたレオノーラに、周囲はしんと静まり返った。