◆ロープ一本の安全地帯(後)
「さあレオ、思いっきりイエスと言うのよ!」
そうしてその先に待つのは、「レオノーラ」伝説の崩壊と幻滅、破局だ!
レーナがにたにたと笑っていると、扉が開き、声が掛かった。
「にやにや笑ってどうした? ――ああ、レオのやつ、起きたのか」
食事から戻ったブルーノである。
彼は、にやつくレーナを怪訝そうに眺めてから、金の盥に視線を移し、それから、はっと表情を険しくした。
「おい、どういうことだ。『レオノーラ』が男に言い寄られていて、しかも扉の向こうに皇子がいるんだが。なぜ止めない?」
「馬鹿ね、わざとよ」
こちらを非難するブルーノに、レーナは片方の眉を引き上げて笑ってやった。
「レオったら、あの導師の告白を、ビジネスパートナーの誘いだと誤解して、乗ろうとしているの。これってチャンスだわ。ほいほいと他の男に擦り寄るところを見せつけて、皇子を幻滅させてやる――」
「馬鹿はどっちだ!」
だが、鋭い口調で遮られ、途中で口を噤んだ。
ブルーノは、やけに切迫した表情でこちらを見ていた。
「おまえ……あの手の男の執着心の強さを、かけらも理解していないのか?」
「え?」
その黒い瞳には、「信じられない」という嘆きが浮かんでいるかのようだった。
「俺も皇子も、似た性質だからよくわかる。なあ、レーナ。おまえ、人生で初めて心を震わせた女に、悪い虫が付こうとしたら、男はどんな行動に出ると思う?」
「え? そりゃ……状況によるんじゃない? 女が嫌がっているのに虫がたかるんなら、虫を潰せばいい。でも、女が自ら虫を引き寄せてるんなら、女ごと切り捨てるでしょ」
レーナは、自分と性別を置き換えながら持論を答えたが、ブルーノの答えは違った。
「いいや、違う。女にも、わからせる」
短く、低い声。
感情の籠もらぬ声が、かえって背筋を凍らせた。
「は……? わからせるって、つまり、その、そういう意味? な、なに言ってるの。皇子はずっと、『レオノーラ』への手出しを堪えてきたじゃない」
「彼女がずっと高嶺の花だったからだ。誰にも等しく手が届かないなら、まだ、自身の欲望で蹂躙することも我慢できる。だが、ひとたび虫に食われてしまうなら、話は別だ」
ブルーノの黒曜石のような瞳は、今、昏々とした闇を湛えていた。
「女は、誰のものなのか。誰のものであるべきなのか。不本意に寄ってくる虫にすら殺意が湧くのに、女が自ら虫を引き入れようなどと言う日には……理性をかなぐり捨てて、女を監禁し、孕ませてでも、よくよくその骨身に沁みるまで教え込まねば、と思うだろうな」
レーナの喉が、思わずひっと鳴った。
心なしか、アルタの「へ、へえ……」という声も引き攣っている。
(お、重……ッ!)
だがなぜだろう。
ブルーノの言う「執着心」が、けっして嘘ではない――脅しなどではないということだけは、肌でわかった。
(と、いうことは――)
レーナは、ぎ……と首を軋ませて、盥を振り返る。
盥の中で、「レオノーラ」はオットーに詰め寄られ、じっと相手を見つめ返しているところだった。
目の前でほかの男に擦り寄るところを皇子に見せつけて、未練を断ち切らせようとしたものだったが、そんなことをしようものなら――
(どうしよう! 「レオノーラ」がわからせられちゃう!)
さああああっと音を立てて血の気が引いていく。
客間に寝台があることがまた不吉に思えて仕方がない。
このままでは、金の盥がR18の中継アイテムになってしまう――!
「き、金の精霊! 止めて! 今すぐ皇子の入室を止めて! 光るとか爆発するとか……なんでもいいから、状況をごまかして!」
レーナはがっと金の盥を掴み、声の限りに叫んだが、返ってきたのはこんな答えだった。
――ご、ごめんなさい……。
珍しく、その声が怯えたように震えている。
――皇子の、魔力が、荒ぶっているみたいで……。今にも爆発しそうな感じで……わ、私もちょっと、怖い、かも……。
「いやあああああ!」
精霊をも怯えさせる魔力の昂ぶりとはなんなのだ。
そんなものをぶつけられた日には、いったい「レオノーラ」はどうなってしまうのか。
「ごめんごめんごめん! レオ! 私が悪かった! 私のミスだわ! 頼むから、イエスなんて言わないで!」
先ほどとは真逆の願いを口にして、がつがつと盥を揺さぶる。
ああ、だが想像が付く。
いつだって怒濤の勢いで、会心の空回りを決める彼のことだ。
こちらがどれだけ願っても、いや、願えば願うほど、彼は致命的な回答をするに違いない。
『――……お気持ち、すごく、嬉しいです』
だが、かなり長い沈黙の後、レオが告げたのは、こんな言葉だった。
『でも、ごめんなさい。あなたの手は、取れません』
レーナも、そしてアルタもブルーノも、大きく目を見開く。
商売大好き守銭奴レオが、まさかビジネスの誘いを断るだなんて。
三人は一斉に己の頬をつねったが、やはり、レオの返答は幻聴ではなかった。
彼は真剣な眼差しをオットーに向け、訥々と訴えた。
『実は……自分には、パートナーならば彼に、と、心に決めた人、いるのです』
『そ、それはもしや……アルベルト皇子殿下のことですか?』
オットーの追及に、盗み聞きをしている三人も思わず身を乗り出してしまう。
レオの答えに迷いはなかった。
『はい』
(えええええええ!?)
まさか、いつの間にかレオも皇子に惹かれていたというのか。
(あっ、違う。これ、普通にビジネスパートナーとしての話をしているんだわ)
レーナは一瞬混乱してしまったが、すぐに、認識を改める。
なるほどレオは、権力身分外交経験すべてを併せ持ったアルベルト皇子と、聖職者として堂々と聖堂に出入りできるオットー、どちらがビジネスパートナーに相応しいかを、じっくり天秤に掛けていたのだ。
そうして熟考の末、アルベルトに天秤を傾けたのだろう。
相変わらずレオは皇子が「レオノーラ」の命を狙っているのではないかと怯えているものの、それを差し引いてもやはり、彼の身分は、手を組むのに魅力的に見えるから。
だが、オットーには当然そんな思考回路など理解できるはずもなく、先ほどまで脈ありに見えた少女が、突然こちらを拒絶してきたことに、困惑を露わにした。
『そんな……なぜです? あなたはすでに、皇子殿下のことを諦めていたのかと思いました』
『正直に言えば、そうです。今だって、半分諦めているというか、実際、手を伸ばすのは、とても怖いです。でも……でもやっぱり、彼のことを、考えれば考えるほど、積み上げてきたことまで含めて、どうしても、彼しかいないと思ってしまうんです』
おそらくレオが言いたいのは、調子に乗って手を伸ばすと、キレた皇子にぶち殺されそうで怖い、ということだろう。
けれど、アルベルトの権力や身分、そして積み上げてきたエランドとの交流実績まで含めて、やはり彼以外に適任はいない、ということ。
たしかに、アルベルトが口利きをしてくれたなら、どんなビジネスだってうまくいくに決まっている。
(なんかすっごい、健気で切実な愛の告白に聞こえるけど……まあいいでしょう!)
レーナは口の端を引き攣らせたが、盥の片隅に見えるアルベルトが、はっと胸を衝かれたように動きを止めたのを見て、レオの発言を「よくやった」と認めることにした。
とりあえず、「レオノーラ」が襲われず、国家規模の大惨事とならないならそれでいい。
『ですが、皇族の彼では、あなたのいる聖堂に訪れることはできない。それでパートナーなどと呼べるのですか!?』
『そこは、自分も、悩みました。でも……きっと、解決する方法が、あると、信じています』
『聖堂には市民か、聖職者しか立ち入れないのですよ! あなたは、殿下があなたのために、皇子という身分を捨てられるとでも思っているのですか? そんなことは――』
激昂したオットーは声を荒らげて詰め寄ったが、それに対し、レオは驚いたように叫び返した。
『そんなまさか! 皇子に、身分を捨てろなんて、かけらも思っていません! 皇子は、皇子だからこそ、彼なのです!』
レオ本来の口調に直すなら「馬っ鹿野郎、皇子は皇子だからこそ利用価値があるんじゃねえか!」とでもなるだろう。
だが、この状況下、可憐な美少女が必死に叫んだのでは、「彼を彼たらしめている皇子の地位を捨ててほしいだなんて願えない!」と、自らの想いよりも相手の立場を優先する、健気な主張にしか聞こえなかった。
現に、扉の向こうのアルベルトは、片手で口元を押さえ、静かに息を呑んでいる。
皇子の座を剥奪されそうになったときは「ともに小麦を植えましょう」と微笑み、立派な皇子たらんと努力をしているときには「自分なんかのために地位を捨てないでほしい」と身を引く――。
そんな、どこまでも相手想いで、いじらしい少女に、アルベルトの胸は締め付けられずにはいられないのだ。
彼の宝石のような青い瞳には、強い愛情と、歓喜の念が滲み出していた。
(なんか一層執着が強まっている気もするけど……ま、まあ、いいでしょう!)
レーナは、冷や汗を大量に滲ませたが、なんとかこの現実を受け入れた。
とにかく、この場で手籠めにされるよりはマシ。
マシのはずなのだ。
『そういうわけなので……ごめんなさい、オットーさん。あなたの手は、取れません』
少女が、ビジネスライクに結論を告げると、オットーはくしゃっと顔を歪め、そうですか、と呟く。
やがて顔を覆うと、アルベルトがいるのとは反対側の扉に向かって、
『せいぜいそうやって、苦難の道を歩むことです!』
と言い捨てながら駆け去っていった。
女々しい――同時に、運のいい男である。
残されたレオは、オットーの叫びを「僕というパートナーがなくてはエランドビジネスに苦労するぜ」と解釈したらしく、
『それは、そうだけど……』
と、少々しょんぼりと口元を歪め、それから、意識を切り替えたように、軽く肩を竦めた。
『大丈夫。アル様のためなら、このくらい』
どんな困難があろうが、商売を成功させ、金の精霊アルタに一層喜んでもらうためならば、全然へっちゃらなのだ。
レオはへへっと――傍からは「ふふっ」と――胸元を漁ると、鎖に繋いだ金貨を取り出し、そこに口づけた。
『あなたのためなら、いくらでも頑張れます。アル様』
まるで、心に秘めた恋人に告げるように、守銭奴極まりないセリフをそっと囁く。
地獄耳でそれを聞き取ったらしいアルベルトは、口元を覆っていた片手でとうとう顔全体を覆い、息を詰めた。
『レオノーラ……』
あまりにも清廉な想い人。
焦がれる想い、奇跡を愛おしむ想いが強すぎて、だからこそ、アルベルトは今日もまた、少女を俗世に引きずり堕とすことよりも、清らかなまま距離を保つことを選ぶ。
(う……うん! 一層美化されてる気もするけれど、実害がないならそれでよし!)
レーナは冷や汗をもはや滝のように流しつつも、強引に己を納得させた。
とにかく、この場でアルベルト皇子に理性を捨てられたら一巻の終わりなのだ。
少女から愛されていると彼が誤解しようと、その誤解が地獄の勢いで深まろうと、それが彼のストッパーになるというのなら、もう構わなかった。
『……寝よう』
金貨に口づける習慣を経て安心したのか、再び眠気を催したらしいレオが、ごそごそと寝台に戻る。
程なくして穏やかな寝息が聞こえてきても、アルベルトはまだ、扉の前で動かずにいた。
「ねえ、金の精霊。お、皇子は、大丈夫よね?」
――ええ。荒ぶっていた魔力はすっかり収まっているわ。目の焦点も合っているし、理性のある表情をしている。ただ……。
「ただ?」
レーナが身を乗り出して問うと、声だけを飛ばしたアルタは、困惑気味に応じる。
――なんだかこう……すごく、覚悟を決めている感じがする……?
「え……?」
不穏な発言に、レーナが顔を強ばらせていると、その間に皇子の呟きを聞き取ったらしいブルーノが、珍しく引き攣ったような唸り声を上げた。
「うわ……」
「なによ、ブルーノ」
「今あの皇子、『君が望むなら、僕は大陸中の聖堂を破壊したっていい』って呟いたぞ」
密かに投下されていた宗教戦争宣言に、場の空気がしん……っ、と凍り付く。
「ひ、比喩よね? そのくらい深く相手を想っているという、単なる修辞よね?」
「……レオがうっかり『私を攫って』とでも言えば、あっさり現実になりそうだな」
「やめてえええ! わかった、今後あいつには一切皇子に誘いかけるような発言を封じるから! 魔術で!」
「だが、皇子を拒否しているとでも取られたら、それはそれで別のスイッチが起動しそうだ」
「なんなのその超絶難しい匙加減ーーー!」
好きと思われすぎてもだめで、嫌いと思われすぎてもだめ。
ロープ一本ほどしかない安全地帯を、手探りで進むような駆け引きに、目眩がしそうだ。
もっと恐ろしいのは、レオが無意識にその絶妙なライン上でタップダンスを踊ってみせている、ということなのだが。
「なんで……っ、なんであいつはこうなのよ……! なんであいつが還俗するたびに、こんなに翻弄されなきゃならないの!」
「まあ、なんていうか……いっそもう、成り行きに任せるってことでいいんじゃないか? 結果うまくいくさ。そう信じなきゃ、こっちの身が持たないだろう」
――驚くべきことに、今日ってまだ還俗一日目なのよね。
盥の回りで、レーナは髪を掻きむしりながら天を仰ぎ、ブルーノは生温かな視線を宙に向け、アルタも諦念を滲ませた声を飛ばす。
それから金の精霊は、フラグとしか言えないこんな言葉を付け足した。
――残りの二日、無事に過ごせるといいわねえ……。
少なくともこの日、世界はまだ平和だった。
今日も明日も頑張レーナ!
今年もお付き合いいただきありがとうございました。