08 遠い世界の暮らし
冒険日誌。
それは旅人の軌跡を記した分厚い本。
そこに書かれた内容は様々だ。
――長い旅路を見聞きし、不思議な大地や生き物たちを記録し続けた世界でひとつだけの図鑑。
――複雑に入り組んだ迷宮、生死を分けるのは武器と防具、そして紙とペンだった。
――世に知られる魔法はほんの一端。歴史から葬られた禁忌の法は数知れず。闇を求め、闇を暴くのもまた記録から。
――親から頼まれた食材は忘れずにメモをしよう。さあ、おつかいの冒険が始まるぞ!
冒険日誌は歴史だ。
旅人が紡いだ長い長い歴史の本である。
――そんな公式サイトの紹介文が目に浮かぶ。
荷物の中から見つけたのは『ダリオン』の特徴と言っていいアイテム、冒険日誌だった。
日誌という名の通り使い方はシンプルで単純明快。
ゲームを始めれば誰もが最初に手にすることになる重要アイテム。
何か特殊効果があるわけでも、初心者に役立つ物でもない。
外見はまさに古書のような重厚さ。
ただの本であると言うのに武器にも使えそうな見た目はその通りで、装備すれば攻撃力が『+5』される。
そして中身は全てが白紙。
PCの物理容量が許す限り書き込める白紙のページである。
そう、この本は自分で作り、自分で書き込み、自分自身の手で記録していくアイテムである。
VRという特色を生かし…………えーっと、話しが長くなりそうだから割愛しよう。
とにかくそんな本が今まさに手元にあるわけだ。
小さなテーブルの上で開かれた2冊の重厚な本。
不思議と自重でページが捲られたりしないのは、これがゲームの特徴をそのまま受け継いでいる証拠なのだろう。
挟んで対面にいるのはコスケさん。
気前のいいアレクシアさんは宣言通り親切にも部屋を貸してくれた。
工房のある4階建ての最上階、屋根裏部屋のような低い天井の部屋だった。
小さな木枠の窓ひとつに干し草ベッドが2つ。
綺麗なシーツが敷かれ家の中でありながら放牧的な空気が味わえる。
最後に僕たちが座るテーブルと椅子だけのシンプルな一室だった。
物置のように使われていたその部屋をわざわざ掃除し、泊まるに申し分ない状態にしてくれたのだ。
宿泊期間は祭りの間のみで食事付き。しかも無料ときた。
驚愕のお祭り値引きである。
しかし当然部屋を貸すのにも条件があった。
アレクシアさんの仕事を手伝ってほしいという。
いわゆるお遣いクエストと呼ばれるものだ。
だがアレクシアさんの仕事は人形作りだ。
あまりにも専門的技術が要求されそうな内容だが……。はたして僕たちに務まるのだろうか。
まあそんな心配は明日の自分に任せてしまおう。
今は今でやるべきことがある。
今後どう生活していくかの重要な話し合いだ。
さて、作戦会議のお時間がさっそく始まろうとしている。
今後の事についてあれこれ考えてはいるが、残念なことに僕の頭じゃなにも浮かんでこない。
上手くまとまらないと言った方が正確か。
だがそんな事実をひた隠しにしつつ、いかにも神妙な顔をしての睨み合い。
先に動いたのはオオカミ――いや、コスケさんはなぜか唐突に立ち上がった。
ドンと目の前に叩きつけられた一枚の手紙。
この世界に来るきっかけとなったあの手紙だ。
テーブルが軋むのも構わず目の前のオオカミが身を乗り出してくる。
「とにもかくにも、まずこれですよこれ!」
「はあ」
「そうなんです! 冷静に考えたら全ての始まりはこれなんですよ! 私たちがこんなんになったのもシカに襲われたのも全部これのせい! 確かにアバターの体は理想像ですけど理想像は理想であってですね、自分がそうなっちゃうのは、なんか……こう、違うじゃないですか!」
僕は神妙に頷く。
その意見には同意だ。
手紙のせいで全てが変わってしまった。
何もかも全部。
知らない場所に知らない世界。
ほんとどうしろと……。
それに体だってそうだ。
アレはいつでも脱げる着ぐるみ感覚だからこそお手軽で楽しさを感じるものだった。
化粧をしているような全く別の自分という体験。
しかしそれが現実になれば"そういうキャラ設定"ではなくなってしまう。
等身大の自分自身になってしまうのだ。
「言いたいことは分かるよ。ここに来てからコスケさんのイメージもだいぶ変わった気はする」
「それを言わないでください……」
「ごめんよ」
見た目通りの声になったとしても、肝心の中身がそのままというのはやはり気になってしまうのだろう。
オオカミの耳が垂れ下がってしまっていた。
「アーさんだって声も見た目もバリバリ女の子じゃないですか。私の中ではリアルのアーさんと今のアーさんが合体して大変なことになってるんですよ。……思い出すと笑いそうになって堪えるのたいへ――ブフッ」
「最後の最後で笑うなよ!」
「すみません」
この話題は今後の禁句にしよう。
お互い精神ダメージが大きすぎる。
特に僕のダメージが甚大だった。
プロゲーマーという肩書き下げて大会に出場していることもあって、リアルの顔を知っている人が多いのだ。
当然『ダリオン』で同じギルドだったコスケさんも知っていて当然だ。
もはやアバターがコレなので今さら恥という概念は消し飛んでいるが……。
やはり今の状況で知り合いには会いたくはないな……。
コスケさんは仕切り直すように「こほん」と咳払い。
僕も佇まいを直した。
「いいですか! 見ず知らずの土地に体だけゲームのスペックそのまま転移しても、そこが森の中じゃ生き残れません! 相手は間違いなく私たちの敵です! ヒドイじゃないですか、こんなか弱い森のオオカミさんを森の中へ放っておくなんて。私にサバイバル知識があるとでも言うんですか!? 見てくださいよこの中身を、頭に詰まってるのはゲームと漫画とラノベだけですからねッ!?」
言いたいことを全て吐き出し、肩で息をするほど熱が入っていたが……いったい何の演説なのだろか。
それで伝わってきたのは手紙の差出人の恨み言だけで、現状を改善するなにか具体的な策も方法もなさそうだ。
しかしそれは僕も同じだった。
元の世界へ帰る案などひとつも浮かばない。
せめてもう少しクッションを足せればテーブルの高さがちょうどいい塩梅になりそうなんだけど。
そんな小さな改善すらできないほど僕もまた今の状況の困惑が抜けていないようだ。
例えるならそう……。
大型アップデート直後の『ダリオン』のように検証情報が出回る前の手探り段階。
ゲームならそれこそ一番楽しい瞬間ではあるが、これが現実だとタスク過多で検証順を決めるだけでも時間がかかってしまいそうである。
そもそも不確定要素だって多くなりそうだ。
コスケさん大きく息を吐き席についた。
「でも、本当に、たまたま運よく親切な街でこうして部屋を借りることができたものの……、なんも準備もなく放り出されたら普通は死んでしまいますよ」
「確かにね。結局手紙の差出人は何が目的なのか……そこが見えてこないのがなぁ」
「ですねぇ……。"帰還"を人質に"邪悪なるもの"を倒せだなんて言われても……。そもそもこんなヘイトを買うようなことをして、恨まれるのも前提にしていた、とか……?」
ヒントも少ない現状、こうして時間をかけて悩んでも分からないし、向こうからのアプローチも無いときた。
考えるだけ無駄なようにも思えるし、素直に従って相手の動きを見てみるのも良いかもしれない。
「でも実際本当に困りますよ。家には帰れないし、見てくださいこの部屋だって……。私生活で苦労するのも目に見えてます」
そう言ってコスケさんは屋根裏部屋のような室内を示すが、何が不満なのだろうか。
寝床は用意してあるし食事だってくれるらしい。
むしろこれ以上ないくらいの待遇だとは思うけど。
「わざわざアレクシアさんが用意してくれたってのに不満なの?」
「ほ、本気で言ってます……? アーさん、私たちはここに観光しにきたわけじゃないんですってば。下手したらこの世界で暮らすことになるんですよ! 水道も無い、トイレも無い、ネットもスマホも電波も無い、交通はどう見ても不便、食料事情だって歴史の勉強して学んでますよね!? 地域や国によっては飢餓だって当たり前だったんですよ! 天候やら戦争やらで私たちは食糧難にあっさり巻き込まれてしまうんですよ!」
「――っ!」
――ハッとした。
コスケさんの言葉がまるで重機のようにガツンと圧し掛かる。
このまま潰れてしまうんじゃないかという衝撃だった。
完全に頭から抜け落ちてた。
……そっか。
……そうだった。
「その顔……マジで理解してなかったんですか……」
「トイレないんだ……」
「そこですかッ!? 大変なところたくさんあるでしょッ!?」
「いや重要だろ! どうすんのさ! どうやって用をたせばいいんだよ!」
「知りませんよそんなこと! 勝手にひとりで外行ってしてくればいいじゃないですか!」
「いや――」
「だから――!」
――
――――……
……こういうのを不毛な争いと言うのだろう。
トイレの件は胸の奥底へしまうことにした。
世の中には考えてはならない議題というのも存在するようだ。
ただそれでもコスケさんの言葉が重く圧し掛かってくる。
――下手したらこの世界で暮らすことになる。それも死ぬまでずっと――。
心の中ではいつか帰れて当然と軽く考えていたのは否定できない。
未知の現象にどことなく浮かれていたのもまた事実。
だがこうして言葉に出してみればその重さは計り知れないものだった。
今までの生活そのものを全否定するように……。
最悪じゃないか……。
しかし、まさかコスケさんからそれを指摘されるとは思ってもみなかった。
僕の方が年長者だから、僕の方がゲームが上手いから。
そんな小さく無意味なプライドとゲームに似たような世界、そういった感覚が抜けきれず、何が起きても絶対安心だと無根拠に思い込んでいたのだろう。
簡単に言ってしまえば慢心だ。
慢心が悪い意味で僕に安心を与えてしまっていた。
こうならないように気をつけていたつもりだったけど……。
事の深刻さを正確に受け止めていたのはコスケさんの方じゃないか。
僕がしっかりしないでどうするんだ。
「トイレの話はもういいですよね、アーさん」
「ごめん、さすがにちゃんと理解できたよ」
「それはそれはよろしいことで」
……帰れないというのはやはり大問題だ。
親とも離れ友人とも離れ、異世界へ連れてこられた。
もし子供が理由なく居なくなってしまったら……もし友人がある日行方不明になったら……。
心配されて当然だし不安にさせてしまうのも目に見えている。
あげくその体まで変えられていると知ったら……。
ゲームのステータスという、いかにも僕たちにメリットのありそうな力を与えられているが、その実やっていることは単純な誘拐と人体改造でしかない。
僕たちは今、見知らぬ相手に無理やり連れてこられた一般人に過ぎないのだ。
そこで生きようが死のうが無関心とばかりの手紙を一枚預け、後は勝手によろしくと放置される。
ひとりで投げ出されたら不安も大きかったかもしれない。
ここまで気を緩めることも無かったかもしれない。
家族との繋がりがほとんどなくなってしまった僕だからこそ慣れてはいるが、コスケさんがそうとは限らないじゃないか。
ゲームではたまに一緒に遊ぶような仲でしかなかったが……今は違う。
一緒に同じ状況に放り込まれた仲間だ。
大きな不安を抱いて当然のこの状況。
顔には出さずとも、表に出さずとも、しっかりと支え合うのが仲間というものだろう。
そういった精神面だって僕がある程度フォローすべきだったかもしれない。
完全に抜けていた。
早々に気づいてやれなかったのは僕自身のダメなところなのだろう。
コスケさんは頭を抱えて悩んでいた。
やはり表には出さないだけでその中身は疲弊していたのかもしれない。
だいぶ深刻なようだ。
「あぁーもぅー……。リアルで体だけ変化するならまだいいのに、ネットもスマホも無い世界でどうやって生きていけばいいのか分かんないですよ……」
「そっか……うん。今まで悪かったよ、僕がしっかりしなきゃね。もう大丈夫、安心して……ひとりってわけじゃないからさ」
「えっ……ええ。それは……わかってますけど」
「焦らずにゆっくり行こう、重要なのは早く帰ることじゃない。怪我なく無事にお互いに帰ることなんだ。生きてちゃんと元気な姿を見せよう」
「アーさん……? なんだか不気味なくらい優しさを感じるんですけど……」
「そんなことないよ。一緒にこの状況を乗り切っていこう」
「頼もしいですし、ありがたいですが……。ええ、はい、頑張りましょう……?」
よし、ならここで一丁かましてやるか!
僕は勢いよく立ち上がれば、コスケさんはそれを鼻先合わせて追ってくる。
気合を入れ直すように、これからの不安も全部吹き飛ばす勢いで両手の平をぶつければ、スカっと爽快ないい音が響いた。
「なら倒してやろうじゃないか! "邪悪なるもの"も、姿の見えない手紙野郎だって! そんで最後はぶっ倒す! どんな相手だろうと真正面からぶつかって来たんだからな!」
「ど、ど、どうしたんですか、急に!?」
「コスケさんアレやるぞ!」
「あ、あれって何……? なになになんなの……?」
アレはあれだ、掛け声だ。
こういうのは勢いが大切。
問答無用で拳を天に掲げ僕は叫ぶ。
「"邪悪なるもの"も手紙野郎もまとめて倒すぞー! おぉーッ!」
「お、おー?」
「もう一回、大きな声で! 倒すぞー!」
「おー!」
「倒すぞー!」
「おーッ!」
「倒してやんぞーッ!」
「オオォォォッ!」
「元の世界に帰るぞぉぉッッ!!」
「もうヤケクソダアアアアァァァァァァッッ!!」
まるで大会の掛け声を思い出す。
困ってようが緊張してようが不安だろうが、それも全部大きな声を出せばある程度は紛らわせられる。
全部なにもかも吹き飛ばせればいいんだけど……まあその場しのぎができれば充分だ。
暗い気持ちが少しでも明るくなれば新しい閃きだって生まれるはずだろう。
暖まる空気。
むず痒い気恥ずかしさ。
そんな中でコスケさんは耐えきれないように笑った。
「く、くはははは……! もう何なんですかいきなり……ハハハ!」
釣られるように僕もまたひとしきり笑った。
――こういうのも悪くはない。
しかし騒げば人が集まってくるのもまた道理。
室内のささやかな祭りに釣られるように、ゆっくり開かれるドア。
恐る恐る顔を覗かせたのはシンシアだ。
「えと、ごめんなさい、叫ぶなら外でやってほしいんだけど……」
あっ……。
申し訳ありません……。