前編
俺が性の奴隷と化したのは、小学校三年の冬。
東京なのに気温が一桁を記録する、寒い寒い夜のことだった。……
『あいつ』が俺の後ろに回り込む。ここまではいままで通り。俺は。海外のテレビドラマが大好きで、ベッドに寝そべりながらいつもいつも見ていた。……
手が、回される。排泄以外には、『その目的』にしか使わないそこを。
なんだか……だんだん、からだが熱くなって。
画面の世界から抜け出てしまう。
『あいつ』が、俺のズボンを下げた。そこを剥き出しにすると、激しくいじりだし……
『気持ちよく』なんかなかった。
意味が、分からなかった。
……それから『あいつ』は。
毎晩、それを俺に施すようになった。
一週間ほど経った頃であろうか。頃合いと見たのか、或いは物足りなくなったのか。
『あいつ』は、腰を振るようになった。
俺は、あかるい画面から目を離さず。
髪を振り乱す母親を、他人のようにただ、見ていた。……
意味を知るには俺は幼すぎた。スキンシップの一環なのか。親子として当たり前のことなのか。誰もそんなことなんか、教えてくれなかった。……
理解したのは。
小学校五年生のときの、保健体育の授業、でだった。
性行為がなんたるか。自分が――どうやって生まれてくるのか。
衝撃だった。
『あれ』は、そういう意味なのだと。だとしたら。親子なのにあんなことをしているのは……
間違っているのだと。
過った行為をされる以外は、俺たちは至ってノーマルな親子であった。他人から見ればな。『あいつ』は外で仕事をしており、一人っ子の俺は留守番をしていた。
『あいつ』が帰ってくると、真っ先に俺は尋ねた。――なあ、母さん。
「母さんが夜俺にするあれ、……なに?」
「自分のことを『俺』なんて言わないの」化粧のバッチリ整えられた顔を『あいつ』は歪める。「なにって、……普通の。親子のスキンシップよ」
俺の横を通り過ぎ、ショルダーバッグを寝室に仕舞いに行く『あいつ』に俺はついていく。――なら。
「父さんに、今度、教えてやろうか? ……毎晩毎晩」
母さんが、俺を、道具を使ってなにをしているのかを……。
俺は、薄笑いすら浮かべていたと思う。だが。
『あいつ』は。
俺の数段上を行く女であった。――あのねえ、りょうちゃん。
「――大学には行きたい?」
ウェーブがかった、長い髪をかきあげ。
背中で、おふくろが俺に語りかける。――りょうちゃん。
「世の中、そんなに、甘くは無いのよ……」
うふふ。とおふくろがスーツの肩を揺らして笑う。なにも面白いことなんか言っていないはずなのに。俺の背筋に――怖気が走る。
「片親の人間に向けられる眼差しは、存外、厳しいものよ?」勝者の余裕を保ち。会話の主導権を握るおふくろの声音。「あのねえ。もし、お父さんとお母さんが別れて。どちらかにりょうちゃんが引き取られるようになったら……」
どうなると思う?
俺に、考える余地を与え、またも喉を鳴らす。くふふと。「行けないわよねえ、大学なんか……。お父さん、お母さんもだけれど。生きていくだけで精一杯だもの。だからねえ」
『あのこと』は。
りょうちゃんと、お母さんだけの、ひーみつ。
振り返ったおふくろは、俺の鼻に指を添え、悪魔的な笑みを浮かべた。……だからねえ。りょうちゃん。
――今日もお母さんのこと、気持ちよくしてね、と。
* * *
「りょうちゃーん。どったの。元気ないねえ?」
元気が無いのは、いつものことだ。
それから、俺を、下の名で呼ぶな。おふくろが使うのと同じ呼称だ。胸焼けがする。
……ということを一切言えず。
頬杖をつく俺はただ、顔を廊下の方へと、傾ける。「あ。学祭。もーすぐだよねえ? 楽しみぃー」
張り紙を俺が見ているとでも思ったのか。――この女。
シカトされるほどに興奮するタチなのか、底抜けのお人好しなのか。
後者であることを願おう。興奮する女なんか、『あいつ』だけでたくさんだ。
中学生になっても、俺と『あいつ』との関係は続いている。俺が一人部屋に移動してもなお、だ。……おふくろは、親父の眠った頃を見計らって俺のベッドに潜り込んでくる。おぞましさで目覚めることの不快感といったら……。
いますぐ死にたい。
そう、思えるほどだ。俺の人生、いったいなんの意味があるのだろう……これ以上生きていたところで。
俺は虚ろな目をしているはずだが。りょうちゃん、とそれでもこの女は食いついてくる。――篠崎ひかり、という名のクラスメイト。面倒な女だ。俺は、『ぼっち』や『アウトロー』を気取って、好き好んでひとりで居るのだが。
こいつは、なにかと、俺に話しかけてくる。――
どうでも、いい。
関わるな俺なんかと。俺なんか――
生きている価値のない。
死ぬべき存在、なのだと。
俺の全細胞がそう叫ぶのだが、一方で。
この、純粋で無邪気な笑みを振り払えない俺自身を、俺は俺のなかに認める。
ひかり、と手を取ってみたらどんな顔をするだろう? ――俺は、俺の容姿が他人の目にどう映るかを知っている。きっとこの女は、顔を赤く染め、恥じらうことだろう。なんせ俺は。
友達なんかひとりもいないのに、下駄箱にラブレター。机のなかにもラブレター。呼び出されることは皆無、……なのだが。女からやたら好かれるのだ。
誰ともつるまない、クールな雰囲気が、少女漫画に出てくるヒーローみたいで女受けするのか。
まったくもって、……面倒臭い。
「りょうちゃんてば」ひかりが、俺の髪に手を伸ばす。「せっかくきれいな顔立ちしてるんだから、髪とか伸ばせばいいのに」
「冗談じゃねえよ」と俺は毒づく。髪の長いやつといえば、真っ先に『あいつ』が思い浮かぶ。「俺は、このくらいのが、一番合ってんの。手入れとか面倒くせえし」
「もったいないなあ。絶対似合うと思うのになあ、りょうちゃん長いの……」と頬を膨らますひかり。――こいつ。こいつもこれで、なかなかの美人さんなのだが。おかっぱ頭で爽やかな印象。男女問わず友達は多い。
学校のヒエラルキーのなかで、間違いなく上位に食い込んでいるこの女が――何故。俺なんかに構うのか。
決まっている。
底辺の俺を救うことで、自己満足に浸りたいからだ。――そう。
上から目線……。
『こいつら』が、『俺たち』と同じ目線に立つことは、無い。高い位置から見下ろし、運命に傅く俺たちをあざ笑うのだ。――負け犬が。
施しを与えてやるから、おいで……と。
「冗談じゃねえよ」と俺は二度言い、しっしとひかりを追い払った。「俺はひとりで居るのが合ってんの。だから放っておいて」
「えー」
これ以上は無用。俺はシカトを決め込む。……
学園祭ねえ。
と、俺は廊下から見える窓の外を見やる。学園祭。創作もので出てくると何故か毎回盛り上がる。ひとびとがそう、求めているのか……或いは、リアルな学園祭がよっぽどクソつまんないものなのか……両方だろう。
そう結論づけ。俺は今日も一人で、給食を食べ終えた。
* * *
中学最後の年の、学園祭。
みんなで囲む、キャンプファイヤー。……
感慨なんか、ちっとも、沸かない。三年間の思い出? ……美術部は、幽霊部員だった。移動教室もお昼もなにもかもぼっちで。
楽しげに笑う女子たちが――目に眩しかった。
グラウンドの中心でキャンプファイヤーを焚き。みんながフォークダンスで盛り上がるさなかを。
俺は輪に入れずただ、……校舎で待とうと。
そう、思い、生徒玄関に向かったときだった。……
げはは、と笑う男子の二人組。ぶつかりかけて俺は反射的に避けた。あれ絶対やばくね? 苅田だもんなあ。――篠崎ひかり。
「絶対、『持ってかれ』てるぜー」
その一言で、俺は、動いた。
「……なにを、言っている? お前ら……」
おい、離せよ、ともう片方に言われるが、知ったことではない。――なに考えてんだ。篠崎ひかりが。
どうなろうと、俺には関係ない。だが。もう一人の『俺』が叫ぶ。――違うだろ! あの子は。あの子は……
ぼっちでいる俺を、常に気にかけ――
あかるい笑顔を届けてくれた。
眩しすぎる存在だ。
俺は渾身の力を込めてそいつの首を締め上げた。するとすぐにそいつはギブアップ。……体育館だよ。
「第一体育館。
篠崎ひかりが、告ったのに振ったから、……あ、『遊んでやろう』ってそう、……」
苅田が、そう言っていたから……。
ほとんど半べそでそいつは語る。俺の目は、血走っているのが分かった。――苅田。素行の悪すぎる男子の名だ。
嫌な予感がする……。
俺はげほげほ咳き込むそいつに構わず、急いで、その場所へと向かった。
*