侵蝕
序幕
何もせず、ただ座っているだけで瞼が重くなってくる。
しかし、眠る事は許されない。
春の陽気に睡魔は容赦ない。
鉄格子の嵌まった窓の外には桜が見える。
会社の皆は今頃、花見を計画して楽しんでいるだろう。
今の自分には関係ない事だ。
週に一度、木曜日に貸し出される三冊の本も一日で読んでしまった。
92番_。
今、自分は、その番号で呼ばれている………
第一幕
それは私、二神麻衣子が三田製作所という金型制作加工の会社に入社して四年目を迎える年の出来事だった。
この四年目の年明け、宇野雅也が逮捕された。
逮捕容疑は暴行罪_。
宇野は、夜な夜な通行人の女性に露出した下半身を見せつけ、更に女性を押し倒し馬乗りになって性器を女性の顔や身体に押し付ける行為を繰り返していたらしい。
とんだ変態だ。
宇野逮捕の知らせを聞いた会社の人達は一様に、「まさか」「信じられない」という反応だったが、私は¨ほら、見た事か¨と思った。
宇野は、私と部署は違うが係長として若手の指導的立場にあった。
私も入社当時、仕事の流れや機械の基本操作、プログラミング方法など宇野の指導を受けた。
物腰も柔らかく、冗談も飛ばすフランクな宇野の第一印象は悪くなかった。
むしろ好印象だったと言える。
会社内は、経営陣は別として社員同士は先輩後輩の礼儀は当然だが、それほど上下関係に厳しくなく、上司相手でもフランクに付き合えた。
宇野と同じ部署の課長である濱中浩一が中心となり、十数人の若手グループがあり、季節毎に春はお花見、夏は海水浴やキャンプ、秋は紅葉狩り、冬はスキーやスノボなどが恒例行事で、その他、温泉や遊園地に出かける事もあった。
私も入社当初から誘われ参加していた。
当然、宇野もその中にいた。
宇野は、その行事のほとんどをプランし、そしてそれは外れ無しと言われていた。
実際、グループの行事は楽しく、私の楽しみでもあった。
しかし、グループで行動する事はあっても個人同士でプライベートな関係になる事はなかった。
私が宇野から個人的な誘いを受けたのは、二年目の秋の事だった。
その日、残業をしていた私のところに宇野がやって来て、
「麻衣ちゃん、今度の日曜、何か予定ある?」
と、聞いてきた。
特にないと答えると、映画に誘われた。
しばらく映画を見てなかった私は気軽にO.K.した。
日曜日、宇野は車で家まで迎えに来てくれた。
でも、向かった先は映画館ではなく、市民文化会館だった。
私が何故か聞くと、〇〇市芸術祭という、絵画展や書道展、舞台劇や演芸などの催しが毎年この時期に行われており、映画上映もその一つだと説明された。
〇〇市民でありながら、私はそんな行事が毎年行われている事を知らなかった。
そう言うと宇野は、
「知ってる人の方が少ないんじゃない。」
と、笑った。
見た映画はフランス映画で、14世紀だか15世紀だかのフランスの王妃と平民の男の恋物語で、身分違いの恋はハッピーエンドを迎える事はなく、男は斬首され、男の死を王妃が嘆き悲しむという結末だった。
王宮が舞台で華やかなシーンもあったが、全体的に暗いイメージで、見終わった後、精神的に重い気分になった。
人当たりの良い、普段の宇野の印象からは意外に感じた私は、何故この映画を選んだのか聞いた。
返事は、王妃を演じた主演女優のファンだからというものだった。
確かに綺麗だったし、演技も素晴らしく思えた。
この女優の他の作品も見てみたいと言うと、宇野は二つの作品を薦めた。
「アデルの恋の物語」と「ポゼッション」という作品だった。
レンタルビデオショップでDVDを借りて見た私は後悔した。
確かに女優の演技は壮絶なものを感じたし、内容も良かったのだが、宇野と見た映画以上に精神的な閉塞感を感じた。
この頃から、私の宇野に対する印象は変わり始めたのかも知れない。
宇野に交際を申し込まれたのは、その年の冬だった。
それは恒例行事のスキーに出かけた時の事で、普段は皆で会社に集まり、何台かの車に分乗して出かけるのだが、何故かその時は、宇野が家まで迎えに来てくれるという。
迎えに来た車に乗っていたのは宇野だけだった。
私は変だと思ったが、何の事はない、他の人達が宇野の為に私と二人っきりになる様に計画していたのだった。
知らなかったのは私だけで、ゲレンデでも他の人達は私達二人にあまり近寄って来なかった。
その帰り、家まで送ってくれた宇野に付き合って欲しいと言われた。
人から想われ、交際を申し込まれるのは決して嫌なものではない。
しかし、その時、私には好きな人がいた。
だから、その事を伝えて断ったのだ。
「そうかぁ…好きな人いるんだ。」
宇野は、がっかりした様子で言った。
「ごめんなさい。」
と、私が謝ると、
謝る必要はないと言った。
その感じは、いつもの宇野のものだった。
だから私は思わず軽い気持ちで言ってしまった。
「竹内さんの事は、どうなんですか?」
その瞬間、車内の空気が冷たくなった様な気がした。
「夏さんに聞いたの?」
宇野の声が感情のない平坦なものに感じた。
私が、そうだと答えると、
「アイツは関係ない。」
と、素っ気なく宇野は言った。
幕間
午前7時に起床の合図があり、直ちに洗顔、歯磨きをする。
粉歯磨きは慣れるまで大変だった。
点呼が行われ、大きな声で番号を答えなければ、何度でもやり直しさせられる。
朝食が配膳され、それを黙々と食べる。
クサい飯というのをよく聞くが、実際クサい。
初日の食事の時、吐きそうになった。
だか慣れとは恐ろしいもので、今は美味く感じる。
他に楽しみがないから、唯一の楽しみと言える。
食後は、運動の時間だ。
番号順に廊下に並ばされ、合図と共に行進を始める。
向かう先は運動場だ。
運動場と言っても拘置所は刑務所と違い他者との交流を無くす為、幅2メートル、長さ4メートル程のコンクリート塀に囲まれた空間が一人一人にあてがわれる。
その中で15分程度、身体を動かすのだ。
その後は、ひたすら座る。
明確な理由を以て横臥許可を取らない限り横になる事も許されない。
そして昼食。
昼食後、一時間だけ昼寝を許される。
その後、夕食までまた座る。
夕食後、点呼があり、午後7時から毛布を敷き横になる事を許される。
その7時から放送でAMラジオが流される。
女性ロック歌手の「かもしかクラブ」という番組だ。
何の気なしに聴いていたが案外面白い。
食事とラジオが自分の楽しみになった。
そして、午後9時に消灯。
この生活が裁判が結審するまで続く。
余談だが、「かもしかクラブ」のゲストとして女性シンガーソングライターが出演した。
名前は、maiko_。
何となく運命的に感じた。
第二幕
「宇野さんも、結構ストレス抱えてたのかなあ。」
と、呑気な口調で言ったのは藤谷夏生だった。
宇野が、夏さんと呼んでいたのは彼女の事だ。
夏さんは、私より。三つ歳上で会社では事務職をしている。
「ストレス?」
問い返したのは、後輩の小室奈未だった。
「ストレスだからって犯罪犯していいって事にはならないんじゃないですか?」
正論だ。
「まあね。でも、結構つらかったと思うよ。」
夏さんは、社内でも宇野に同情的な一人だ。
「竹内さんの事とか?」
私は恐る恐る聞いてみた。
「うん、それは大きいんじゃない?」
夏さんは、したり顔で言う。
竹内美弥_。
私が入社する前の年まで、夏さんと同じ事務職を勤めていた人だ。
美弥には、入社当時から付き合っている男がいたらしいが、この男はかなり束縛が強く、時には暴力を振るうDV男だった。
話しを聞いた夏さんは、そんな男とは早く別れるべきだと薦めたが、美弥と男の関係は、その後もズルズル続いたという。
そんな美弥と宇野が近づくきっかけになったのは、恒例行事の一つ、夏のキャンプの時だったらしい。
そのキャンプ場の脇に川が流れており、皆、水着に着替えて泳いだり、ゴムボートに乗って遊んでいた。
その中で美弥はまったく泳げないカナヅチだったので、水着は着ていたものの岩の上に座り、楽しそうな皆を見ていたという。
美弥が泳げない事を知った宇野の同僚である平田和也と山下紀和が飛び込めと、美弥を囃し立てたらしい。
美弥が意を決した様に飛び込むと、案の定、溺れかけたらしい。
その美弥を近くにいた宇野が飛び込んで助けたのだ。
その後、宇野は、しばらくの間「レスキュー宇野ちゃん」の異名を取ったのだと夏さんから聞いた。
それから、しばらくして工場内の事務所や駐車場の隅で、宇野と美弥が二人でいる姿が度々見かけられる様になったらしい。
夏さんは、このまま二人が結ばれる事を期待したという。
しかし、問題はDV男だ。
夏さんは、三角関係で拗れる事を心配した。
そして、その夏さんの心配は現実のものとなった。
あろう事か、このDV男が会社に乗り込んで来て、宇野を呼び出し殴りかかったのだ。
会社は騒然となり、一時は警察騒ぎになったが、宇野が大丈夫だと止め、警察沙汰にはならなかったらしい。
「その時、警察に訴えたら良かったのに」
奈未が言う。
「美弥ちゃんの事を考えたんだよ。訴えたって即刑務所って訳じゃないし、釈放された男の怒りの矛先が美弥ちゃんに向かうのを避けたかったんだよ。」
その後、美弥は実家に戻り、男との関係を断ったという。
いや、断った筈だった。
宇野と美弥の関係も小康状態だったらしい。
事態が動いたのは、翌年の夏だった。
「夏にさあ、〇〇川の花火あるじゃん?それに美弥ちゃんの方から宇野さんを誘ったんだよ。遂にその気になったかって思ったんだけどねぇ……」
夏さんが歯切れ悪く言う。
「何かあったんですか?」
奈未は、興味津々の様だ。
「ドタキャンよ、ドタキャン!自分から誘ったくせに花火大会の前日にドタキャン。」
「マジで?」
「私も流石に腹たってさ、美弥ちゃんを問い詰めた訳よ、したら何とDV男と切れてなかったのよ。」
「うわぁ……ひどい……」
奈未がしかめっ面をする。
その後、夏さんはグループの何人かと宇野を慰める会を開いたという。
「その時、私言ってやったのよ。もうやめたらって、女なんて他にもいるでしょってさ。そしたら宇野さん、何て言ったと思う?」
「何て言ったんですか?」
「いくら女がたくさんいても、結局は自分が惚れた女が世界一だって。」
「うわぁ…泥沼じゃないですか。」
「それだけじゃないのよ。」
夏さんによると、美弥は変な新興宗教に嵌まったらしい。
止せばいいのに宇野は美弥に請われて、その団体の支部に出かけたという。
「宇野さんって、ああ見えて結構、信心深いんだよ。」
「そうなんですか?」
「うん、ん…ちょっと違うかな?何だろう…宗教観?宗教哲学っていうのかな?何か宇野さんなりのコレは譲れないみたいなのがあった訳よ。その手の話しになると結構、熱く語ってたからね。神の存在意義がどうとか。私は子難しいのは苦手だから聞き流してたけどね。んで、その支部長だかの団体の説明とか教義とかを一通り聴いたらしいんだけど、その内容ってのが宇野さんからすると、かなりトンチンカンな話しだったらしいのよ。それで血が騒いだのか「それはおかしい」「何でそうなる」「それならこうあるべきだ」って散々突っ込んで結局、その支部長を論破しちゃった訳。」
「へぇ…」
「大変なのはその後、美弥ちゃん、きっとその支部長に何か言われたんだろうね。翌朝、出社して来るなり宇野さんに詰め寄って、「何であんな事を言うんだ。私の立場がないじゃない」って喚き散らしたのよ。」
「でも、それって八つ当たりじゃないですか?」
「完全な八つ当たりよ。自分が連れてったんだから。挙げ句に、もう知らないとか言っちゃって、そのまま会社も辞めちゃったの。ああ、終わったなって思ったわよ。」
「そんな終わり方だったんですか?」
「ところが終わらないんだな、これが。」
「まだ、続きがあるんですか?」
奈未が、驚いて言う。
どうやら、夏さんの話しは長く続きそうだ……
幕間
桜が散り始めている。
焦燥感というのだろうか?
何かモヤモヤしている。
今更、そんなに何を焦る必要があるだろう。
既に意味などない。
不安なのか?
自分の中にあるものの正体に対する不安感………
何に対して?
第三幕
「それから、どうなったんですか?」
奈未は完全に野次馬になっている。
「美弥ちゃんがウチの会社辞めて、う~ん……一年半くらいしてかなぁ……美弥ちゃんから宇野さんに連絡が来る様になったのよね。」
「自分から縁を切っといて?身勝手ですね。」
「DV男が死んじゃったんだよ。」
「死んだ‼何で?」
「交通事故。飲酒運転で電柱に突っ込んで即死。まあ、他人を巻き込まなかっただけマシだわね。」
「つまり、邪魔者がいなくなったからって事ですか?」
「まあ…そうなんだけどさぁ……間が悪いというか何というか……ねぇ。」
と、意味ありげに夏さんは私を見る。
話してもいいか、という事なのだろう。
そこまで話して今更ながらだが、私は仕方なく頷いた。
「その頃には麻衣子ちゃんがいたからね。」
「あっ!」
と、声を上げた奈未が私を見て、
「なるほど。」
と、言った。
納得されても仕方ないのだが。
「つまり、邪魔者がいなくなった代わりに自分が邪魔者になっちゃったって事ですか?」
「そういう事。だから相手にしなきゃいいんだけど、ほっとけないのが宇野さんなんだよね。」
「どうなったんですか?」
「宇野さんのお兄さんが〇〇生命の営業課長なんだけどさ。外交員の数が足りないとかで美弥ちゃんを紹介したらしいのよ。なのに、一月足らずで辞めちゃったんだよね。」
「ひどくないですか、それ?」
「宇野さん、お兄さんに散々、嫌味言われたみたい。それに、△△町に食品団地あるじゃん。今、美弥ちゃんそこのお豆腐屋さんで働いてるんだけどね。それ紹介したのも宇野さんなんだ。」
「あの~…何か宇野さんって、ただのお人好しですか?」
「ただならぬお人好しよ。くっつく気がないなら相手しなけりゃいいのよ。そうしてれば、あんなまさかの展開にはならなかったのに。」
「まさかの展開って何ですか?」
奈未に問われて、夏さんは再び私を見た。
だから、今更ですって夏さん。
確かに、あれは私にとってもまさかの出来事だった。
竹内美弥が、私と話しがしたいと夏さんに伴われて訪ねて来たのは、私が宇野との交際を断って一月くらいたった頃の事だった。
私と何を話したいのか不安もあったが、どんな人なのか興味があったので会う事にした。
場所は、私の家の近所のファミレスだ。
竹内美弥は、暗い目をした女だった。
第一印象は小さい人だと思った。
164㎝の私から見てもかなり小さい。
恐らく145.6㎝くらいしかないだろう。
180㎝近い宇野の身長を考えると、かなりのでこぼこカップルだ。
不倫相手を自宅に連れ込んだのがバレて、離婚、謹慎する事になった、元アイドルグループ出身の女性タレントと俳優のカップルを思い出す。
丸顔で童顔、ショートボブがよく似合う。
普通にしていれば可愛いと言われる部類だろう。
しかし、その暗い目が美弥の全ての印象を損なっていた。
席に着いても美弥は、俯きがちだった。
「あの……私に話しって何ですか?」
仕方なく私から問いかけた。
「……をしたの…」
小さく消え入りそうな声だった。
聞き取れなかった私は、
「えっ!?何ですか?」
と、問い返した。
次の瞬間、私の左頬がパンッ!と鳴った。
美弥に打たれたのだ。
唖然とする私に、美弥は更に、
「アンタ、何をしたの!宇野さんに何をしたのよ‼」
と、喚きながら掴みかかろうとした。
夏さんと駆けつけたウェイターにくみ止められ、事なきを得たが、一体、私が何をしたと言うのだ。
宇野との交際を断っただけではないか。
ごめん、ごめん、と平謝りする夏さんに伴われ美弥が去って行くのを呆然と見送ったが、やがてフツフツと怒りが湧き上がって来た。
怒りを抑え切れなかった私は翌日、宇野を見つけたとたんに詰め寄って文句を言ってしまった。
八つ当たりとわかっていても抑え切れなかった。
宇野は、訳が解らず唖然としていたが、夏さんから事情を聞いたのだろう、昼休みに私のところにやって来て謝罪した。
美弥にも謝罪させると言ったが、私は、
「結構です。あんな人と関わり合いたくないので。」
と、突っぱねた。
「ほんと、損な性格よね…」
ため息混じりで夏さんが言う。
「宇野さんがですか?」
「そう、人の事はソツなくこなすのに、自分の事になるとまるでダメ男なんだよね。」
「そう考えると、宇野さんも可哀想な人ですね。」
どうやら奈未は、すっかり宇野同情派に取り込まれた様だ。
しかし、私はそうはならない。
何と言っても私は、宇野からの実害に合った当人なのだから………
幕間
いよいよ、明日の裁判で判決が下される。
どんな結果も自分で犯した罪なのだから受け止めなければならない。
ただ、胸の内に巣食う焦燥とも不安とも解らぬものは相変わらず消えない。
拘置所に移される前、警察署の留置場にいる時に何人かの人が面会に訪れた。
家族の面会は、さすがに辛かった。
会社の人も何人かでやって来た。
それに混じって、彼女もいた。
みんなが自分に声をかける中、彼女は後ろで、ずっとこちらを睨み付けていた。
そして帰り際、みんなに気付かれない様にこちらを向き、扉が閉じる瞬間まで睨み続けていた。
第四幕
その電話が鳴ったのは、美弥の騒動があってから二月くらいしてからの頃だった。
その日、両親は親戚の家に出かけており、同居する1つ下の弟も友達と飲みに出かけ、家には私ひとりだった。
電話が鳴ったのは、午後8時過ぎ_。
私が出ると、
「二神さんのお宅ですか?」
と、妙に緊張した様な震える声で相手は言った。
私が、そうだと答えると、麻衣子さんは?と問う。
「私ですけど…」
と、答えた瞬間、
「お〇〇〇させろ‼」
と、言ってきた。
何を言われたのか解らず、
「えっ?えっ?」
と、オロオロしていると、
「△△△しゃぶれ‼」
と、卑猥な言葉を言われた。
イタズラ電話と思い即座に電話を切った。
その後、時間を置いて数回電話が鳴ったが、私は怖くて出る事が出来なかった。
ただ、最後の電話は弟からだった様で、タクシーで帰って来た弟は、せっかくタクシー代浮かそうと思ったのにとブツブツ言った。
私がイタズラ電話の件を話すと、
「何だソレ!?姉ちゃん何か恨みでも買ってんじゃねぇの?自分にそのつもりはなくても相手は違うかもだろ?大体、姉ちゃんはワキが甘いんだよ!」
と、言われた。
ワキが甘い……返す言葉もない。
その時、再び電話が鳴った。
「俺が出る。」
と、言って弟が電話に向かった。
弟が出た瞬間、相手は例の卑猥な言葉を言ったのだろう。
「お前、誰だよ‼何でウチの電話番号や姉ちゃんの事知ってんだ‼」
と、弟がまくし立てた。
相手は元々、気の小さいヤツだったのだろう。
弟の余りの剣幕に、蓮見公園の公衆トイレに落書きしてあったと素直に白状したらしい。
蓮見公園は、ウチのすぐ近所にある割りと大きめの公園だ。
私も愛犬カカの散歩でよく利用する。
弟は、自分の部屋からプラモデルの塗装に使うシンナー持ち出して来て、
「行くよ。」
と、言った。
私がどこへと聞くと、
「落書き消しに行くんだよ!ほっといたらさっきのヤツだけじゃなくって、他のヤツもかけて来るかも知んねぇじゃん。」
と、言われた。
確かに、その通りだ。
私は、弟と公園に向かいトイレを確認した。
確かに、落書きされていた。
私の名前と電話番号_。
それに続く卑猥な言葉の羅列、電話で男が言っていた卑猥な言葉は合言葉として、それを言うと私が応じる、という事が書かれていた。
そんな訳あるか‼
私は憤慨したが、それ以上に衝撃を受けたのは、その落書きの筆跡だった。
それは、社内の連絡メモでよく回ってくる宇野の筆跡によく似ていたのだ。
まさか、と思った。
それと同時に、宇野に対する疑惑の種が私の中に生まれた。
それから私は、宇野の事を注意深く観察する様になった。
すると、やたらと宇野と目線が合う事に気付く。
つまり、私が意識してない間、宇野は私をジロジロ見ていたのだ。
弟にワキが甘いと言われる訳だ。
ある昼休み。
皆で座って雑談をしていると、キラッとする光を感じた。
何気なく目をやると、宇野が腕時計をイジっていた。
気付かないフリをして伺っていると、何と宇野は腕時計に太陽光を反射させ、私のスカートの中に当ててきたのだ。
覗かれてる‼
私が足を閉じると、宇野は腕時計をイジるのを止め、何事もなかったかの様に隣の濱中と話しを始めた。
白々しい。
だが、確証がない。惚けられたらそれまでだ。
その後、家に無言電話が続いた時期もあった。
そして、その年の秋。
会社の慰安旅行で四国のK県に行った時の事だった。
二日目の夜、幕末の志士の銅像で有名なK浜近くのホテルに泊まった。
宴会の後、各々部屋で寛いでいると、珍しく酔っ払った宇野が上機嫌で戻って来た。
聞くと、部長と二人でホテルの前の中華料理屋に行ってきたと言う。
餃子がめちゃくちゃ旨かったと聞き、皆で食べに行こうという事になった。
確かに、餃子は美味しかった。
問題は、その後だ。
部屋に戻って荷物の整理をしていると、風呂上がりにビニールバッグに入れた筈のショーツが無くなっていた。
私達が戻るまで部屋にいたのは宇野1人だ。
私は確信した。
意を決して濱中を呼び出し相談した。
しかし、濱中は懐疑的だった。
「お前、確証があって言ってるのか?」
「だって部屋にいたのは宇野さんだけだし…」
濱中は、解ったと言って部屋に入って行った。
「おい!宇野。」
と、濱中が声をかけたが、まだ酔っ払っている様でむにゃむにゃ言っている。
濱中は、宇野の枕元にあるアディダスのバッグを掴むと、ファスナーを開け、中身をブチ撒けた。
「二神、お前言うものが有るか探してみろ。」
周りにいた人達が何事かと集まってくる。
宇野の荷物の中に、私のショーツは見当たらなかった。
私は、濱中にロビーに連れて行かれた。
「会社にはな、イヤな事も気に入らない人間もいるさ。でもな、みんなそれを踏まえた上で仕事してんだよ。みんなで協力し合わなきゃいけない。どうしても宇野を疑うなら確証を示せ。」
悔しかった。
しかし、濱中の言葉に言い返せなかった。
今更ながら宇野に対する信頼の深さに驚く。
その後、表立って言われる事はないが、裏では私には被害妄想の気があると噂される様になった。
決定的だったのは、その冬の出来事だった。
正月休みを利用してH海道へ行く事になったのだ。
私は遠慮したかったが、何を言われるかわからないので、仕方なく参加した。
その時は、皆でスノボをする事になったのだが、皆がリフト券を手に入れ続々と上に登って行く中、私と初参加の奈未は、スキーの経験はあったがスノボは全くの初心者だったので、例によって宇野のレクチャーを受ける事になった。
リフトに乗って上に行こうと言う宇野に、私と奈未が下の緩斜面で練習したいと言うと、初心者には緩斜面の方がかえって危ないと言う。
きつい斜面だと恐怖心の為、どうしても山側に体重を掛ける事になるので、かえって安全なのだそうだ。
緩斜面では、スノボ特有の逆エッジという現象が起こり、自分が意識しているのとは逆のエッジが効いてしまう事があるらしい。
特に後方に倒れた時が危険で、受け身も取れないまま瞬間的に倒れ、後頭部を強打する事もあると言う。
宇野もスノボを始めた時に経験しており、意識がはっきりしているのに、身体が痺れて、しばらく動けなかったと話した。
「怖いですね。」
と、奈未は率直な感想を言った。
宇野に言われるまま上に登ると、成る程、確かに山側に体重を掛けてしまう。
それ以前に谷側に体重を掛けようなどとは思わない。
周りでターンをしながら滑り降りて行く人達が信じられなかった。
その日はターンをせずに前後の足の過重を入れ替えながら、斜面をジグザグに滑り降りる方法を教えられた。
私は、それで十分だったが、運動神経が良く飲み込みの早い奈未はターンを教えて欲しいとせがんだ。
宇野は難色を示したが、奈未の熱意に押されて教える事になり、当然、私も付き合わされた。
奈未は、あれよあれよという内に上達し、皆と一緒という訳にはいかずとも、ある程度の滑りを覚えた様だ。
私は、何とか内ターンは出来る様になったが、外ターン、つまり背中を山側に向けるターンが、どうしても怖くて出来なかった。
そして、事件は二日目に起こった。
お昼前、斜面の上で休憩していた私達は、皆で下のレストハウスまで降りて昼食にしようという事になった。
各々がボードを装着する中、あれだけ注意されたにもかかわらず、私はお尻を谷側に向けてしまった。
左足を装着した時、バランスを崩してしまい斜面に尻餅を着いてしまったのだ。
そのまま私は斜面を滑り始めた。
手で止めようとしたが、意に反して加速が進む。
こんな時の対処も教わっていた。
斜面に背中をつけて大の字になって接地面積を広げ、足を上げて谷側に足をもっていくか、身体をひねって腹這いになり、爪先を雪面に押し付ける。
頭では理解していた。
しかし、私は恐怖の余り固まったままだった。
このまま滑って行けばコースを突っ切り、その向こうの雑木林の谷に落ちてしまう。
その内にも私の身体は加速して行く。
もうダメだと目をつぶった次の瞬間、ドンッという衝撃と共に私の身体は止まっていた。
恐る恐る目を開けると、私の身体を宇野が受け止めていた。
宇野の顔半分が赤く染まっている。
私のボードのエッジが当たり左の眉尻を切ってしまったらしい。
宇野は、濱中と濱中の奥さん、久美子さんに伴われてスキー場の医務室に向かった。
私達がレストハウスで待っていると、濱中だけが戻って来て、宇野は傷を縫う必要があるので久美子さんが付き添って病院に向かったと伝えた。
ケガをした宇野には悪いが、偶々あの場に宇野がいなければ病院に行く事になったのは私だっただろう。
濱中にそう言うと、
「偶々って、お前何言ってんだ‼滑り始めて止まれないお前を宇野が上から滑って行って受け止めたんだぞ‼あれだけの斜面を他にもスキーヤーやボーダーがいる中、ほとんど直滑降でな‼それが、どれだけ危険な事か解るか‼ヘタしたら宇野の方が死んでたかも知れないんだ‼宇野の何が気に入らないのか知らないが、いい加減にしとけよ‼」
慰安旅行の時とは違い、皆の前で罵倒された。
隣に座る夏さんも、
「偶々はマズいわ。」
と、呆れ顔で言った。
夕方、宇野は頭に包帯を巻いて帰って来た。
三針縫ったらしい。
「お前、あんまり無茶すんじゃねぇよ。」
と、濱中に嗜められた宇野が、
「まあ、そこはホラ、レスキュー宇野ちゃん復活という事でヨロシク!」
と、おどけて見せたので場が和んだ。
ただ、私に対する被害妄想女のレッテルは定着してしまった様だ。
しかし、私だけが知っている。
私の身体を受け止めた宇野の手が、私のお尻を鷲掴みにしていた事を……
そして、それから一月もしない内に宇野が逮捕され、皆、特に濱中はバツが悪そうだった。
その濱中から、宇野が懲役一年六ヶ月、執行猶予三年の刑を受けて釈放された事を聞いたのは、宇野が逮捕されてから三ヶ月後の事だった。
そして、恐怖の日々が始まった………
幕間
午前2時13分_。
アイツの家の前にいる。
今頃、アイツはのうのうと寝ているのだろう。
いい気なものだ。
用意してきたペール缶の蓋を開く。
たちまち悪臭が立ち込める。
臭いに気付いたアイツの飼い犬が唸る。
構わず、アイツの車のフロントガラスやボンネットに缶の中身をブチ撒けた。
さあ、復讐の始まりだ……
第五幕
その日の朝は、やたらとカカが吠えていた。
母が見て来てというので、外に出ようと玄関を開けたとたん異常に気付いた。
堪らない悪臭、糞尿の臭いだ。
見ると、私の車が汚物まみれになっていた。
両親と弟も出て来て唖然としている。
水道のホースを用意しようとする弟を父が止めた。
「イタズラにしても酷すぎる。警察に通報するからそのままにしておきなさい。麻衣子は、今日は母さんの車で行きなさい。」
自分の車をあのままにしておくのは心苦しかったが、父の言う通りにした。
そして、仕事を終えて帰宅すると、所轄のS警察署の刑事が二人、私に話しを聞きたいと待っていた。
被害に遭っているのは、私の車だけなので当然だろう。
二人は、須藤と片岡と名乗った。
胡麻塩頭の須藤が、誰かに恨まれる様な心当たりは無いか問うので、私は、恨まれる憶えも無いし確証も無い事を前置きした上で宇野の名前を告げた。
宇野との経緯を話すと、須藤は早速調べてみますと言ってくれた。
まずはひと安心だ。
しかし、その3日後、安心したのも束の間で次の事件が起こった。
私がリビングにいると電話が鳴った。
イタズラ電話や無言電話が続いたせいで、私は電話恐怖症気味だった。
その電話には母が出たが、母はあなたにと私に受話器を向けた。
誰か問うと、大沢さんという人だと言った。
大沢俊樹_。
その名前を聞いて、落ち込んでいた私は晴れやかな気分になった。
宇野との交際を断った時、好きな人がいると言ったのは彼の事だった。
学生時代から付き合っていて、些細な事で別れてしまったが、私の想いは変わらず、最近良く連絡を取り合っていて、何となくいい雰囲気だったりして元サヤかもと考えていたので嬉しかった。
しかし、その晴れやかさも電話に出るまでだった。
私が出たとたん、
「お前、何やってんだよ‼」
と、怒鳴られた。
「えっ!何?」
「何じゃねぇよ‼お前、何かヤバい事になってんじゃねぇのか‼」
「どういう事?」
「今朝、俺の車にイタズラ書きされてたんだよ‼もうメチャクチャだよ‼麻衣子は俺のモノだとか、お前に麻衣子は渡さないとか、お前と別れて何年経つと思ってんだよ‼冗談じゃねぇぞ‼面倒に巻き込まれるのはゴメンだからな‼もう電話かけてくんな‼」
と、一方的に切られてしまった。
何て事だ。
宇野は、私だけでなく大沢の事まで調べて卑劣な行為を行っているのだ。
私は、S警察署に連絡し、須藤に事の次第を伝えた。
須藤は、私の件と合わせて調査すると約束してくれた。
しかし、後日、須藤からもたらされた報告は、私の期待を大きく裏切るものだった。
犯行のあった日時の宇野のアリバイが証明されたと言う。
そんな馬鹿な………
「最近、奈未ちゃん付き合い悪いよね?」
夏さんが不満そうに言う。
「何がですか?」
奈未の方は惚けた様に言う。
「何がって、この前の温泉も来なかったしさ、今度のキャンプも来ないんでしょう?」
「へへへ……」
「何よ?」
「実は……彼氏が出来まして…」
と、照れくさそうに奈未が言う。
「なぬっ‼初耳だぞ、それは!どんな人よ?」
「秘密ですぅ。」
「何でよ?今度のキャンプに連れて来ればいいじゃん。」
「ヤですぅ。」
「だから、何で?」
「だって、絶対課長達にイジられるに決まってますもん。」
奈未が口を尖らせて言う。
「ああ……それは言えてる。確かにねぇ、私が栗本と付き合い始めた時もイジり倒されたからね。」
栗本というのは、濱中の部下で栗本貴教といい、今、夏さんが付き合っている人だ。
「今度、紹介しなさいよ。」
「その内、紹介しま~す。」
二人共、楽しそうだ。
本来なら私も奈未の恋バナを一緒に楽しんでいただろう。
しかし今は、とてもそんな気分にはなれない。
「麻衣子さん、元気ないっスね。どうしたんスか?」
と、声をかけてきたのは、工藤英介だった。
工藤は私の1年後輩で、いつも自慢のウルフヘアーをイジりながらヘラヘラしている、自他共に認めるチャラ男だ。
軽い男だが、その軽妙さの中に結構鋭い物言いをする時がある。
工藤がいる場所は、いつも和やかだ。
彼の存在は大きい。
暗い気持ちが一瞬でも忘れられる。
工藤がいなければ、とっくに会社を辞めていたかも知れない。
「工藤君、今日さ、仕事終わったら付き合ってよ。」
「何スか?メシ?奢りっスか?」
「まあ…ファミレスで良ければ。」
「アザーッス‼」
本当に軽い。
私は、つい吹き出してしまった。
「マジッスか‼ひでぇ‼」
工藤の声が響く。
周りの客の目が、一斉に私達に向けられた。
「ちょっと、工藤君!声大きいよ。」
「あ、すんません…けど、ひどいッス。」
工藤が声を潜めて言う。
「で、麻衣子さんは宇野さんが怪しいと?」
「怪しいというか……」
私は確信している。
「けどなぁ……宇野さんって今、執行猶予中ッスよね?何かやらかしたらマズいの解りそうッスけどねぇ。」
そんな事を気にするくらいなら最初から犯罪など犯さないだろう。
「俺、調べてみましょうか?」
「調べる…って、何を?」
「宇野さんに決まってるじゃないっスか。」
「出来るの?」
「俺、そういうの割りと得意ッス。」
「でも、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫、奢ってもらった分しか働きませんから俺。」
軽いなぁ、工藤を見ていると悩んでいる自分が馬鹿みたいに思えてくる。
「まあ、ファミレス奢るくらいならいいけど…」
「アザーッス‼」
役立たずの警察なんかより、工藤の方が余程、頼りになるではないか。
幕間
午前1時52分_。
アイツの家の前に立っている。
玄関に近づいて行くと、例によって唸り声が聞こえる。
そうだ。今日の目的は、お前だよバカ犬。
歯を剥き出して唸る憎たらしいヤツだ。
シーズーとかいう大嫌いな犬種だ。
毛がフサフサして、一見可愛いく思うが、その顔を良く見るといい。
不細工だ。
今みたいに歯を剥き出すと、更に不細工に見える。
首根っこを押さえつけ、用意して来たゲンノウを躊躇なく降り下ろす。
声を出す間もなくシーズーの頭が潰れる。
何度も降り下ろす。
死ね‼死ね‼死ね‼死ね‼死ね‼死ね‼死ね‼
すっかり頭がぺしゃんこになった。
用意して来たナイフを取り出し、腹を切り裂くと、ぶよぶよとした内臓が溢れ出す。
その内臓を掴み、ナイフで切り刻む。
切れない部分は引きちぎり、ところ構わず投げ捨てる。
これを見たアイツが、どうなるか楽しみだ。
だが、まだ終わりじゃない!
第六幕
それは、キャンプから帰った次の日、月曜日の事だった。
その朝、私は母の悲鳴で目が覚めた。
何事かと、階段を降りていくと、父と弟が立っており、玄関では母が尻餅を着いて震えている。
その向こう、玄関先は血にまみれていた。
母の悲鳴を聞きつけた近所の人達が集まり始め、家の前は騒然としている。
遠くサイレンが聞こえる。
誰かが警察に通報したのだろう。
血溜まりの中に塊が見え、その塊には見覚えのある首輪がくっついていた。
まさか……顔から血の気が引いた。
それは、カカの無惨な姿であった。
そして、私は気を失なった。
気がつくと、私はリビングのソファーに寝かされていた。
起き上がった私の前に、須藤と片岡の姿があった。
彼等の姿を認めたとたん、私の感情は堰を切った様に溢れ出し、アンタ達の責任だ‼さっさとあの男を捕まえないから、こんな事になるのだ‼と訴えた。
「二神さん、落ち着いて下さい。我々も素人じゃない、証言に基づいて捜査した結果、宇野さんのアリバイは証明されたんです。」
今後も捜査は続けますと言い残し、二人は帰って行った。
嘘だ‼宇野のアリバイなんて嘘に決まってる‼
何かあるはずだ。
あれだけ裏の顔を隠しつつ、周囲の信頼を得ていた、したたかな男だ。
何か…何かトリックがあるに違いない。
結局、その日、そして翌日も仕事を休んでしまった。
火曜日の夕方、仕事を終えた工藤が訪ねて来た。
私は、工藤を部屋に招き入れると、宇野のアリバイに対する自分の考えを伝えた。
「トリック?どうッスかねぇ……推理小説じゃないんスから…」
工藤は懐疑的な様だ。
「あ!そうだ‼宇野さん、引っ越しするみたいッスよ。」
何の話しだ?
「やっぱ、近所の目が気になるんスかね。」
そんな事か、そんな事を調べて欲しかった訳ではない。
所詮は素人という事か、多くを求めてはいけないのかも知れない。
「でも、アリバイの証明って、あれッスよね。家族以外の第三者の証言じゃないと採用されないはず…」
今、何と言った?第三者の証言?それだ‼
美弥だ、竹内美弥。
宇野のアリバイを証言しているのは美弥に違いない。
二人は共謀して嘘のアリバイを証言しているのだ。
私は、工藤を部屋に残しリビングに降りて須藤に連絡を取り、宇野のアリバイを証言しているのは誰なのか問うた。
返事は、守秘義務があるので証言者の素性は明かせない、というものだった。
しかし、私は須藤の対応に手応えを感じた。
間違いない、証言者は美弥だ。
私は、部屋にとって返すと、
「工藤君‼ちょっと付き合って‼」
と、工藤を引っ張りだし、△△町の食品団地に向かった。
時間的にどうかと思ったが、目的の豆腐屋には明かりが点いており、人もいた。
美弥について訊ねると、美弥は既に辞めていた。
工藤と別れて家に戻ると、夏さんに連絡を取り、美弥の事を訊ねてみた。
「美弥ちゃん?さあ、どうだろ、私も最近会ってないし、何か実家にも戻ってない様だし…」
家にも戻ってない?怪しい。
恐らく、私から追求されるのを恐れて雲隠れしているのに違いない。
しかし、そうなると素人の私に何が出来る?
そんな焦れったい気持ちとは裏腹に時間だけが過ぎていく。
夏が終わり、吹く風が涼しく感じられる様になった頃、奈未の両親が火事で亡くなった。
消防隊が駆けつけた時、奈未は煙を吸って意識を失い、玄関に倒れていたという。
幸い即、救急搬送され大事には至らなかったが、両親は還らぬ人となった。
失火の原因は、父親の寝タバコだったらしい。
私は、会社の人達と共に葬儀に参列した。
奈未は、一人っ子だ。
両親を一度に失い、家まで無くした奈未はどうなるのだろう。
大変である事は間違いない。
しかし、幸いにも親戚が経営するマンションの一室を格安で借りられる事になったから大丈夫だと、奈未は笑った。
気丈に振る舞う奈未に対し、私はといえば自分の事でいっぱいいっぱいで、お悔やみの言葉もまともに言えなかった。
どうすればいいのだろう?
どうすれば、この地獄の様な日々から抜け出せるのだろう………
幕間
午後8時17分_。
もうすぐアイツが、この公園に現れる。
この公園は、アイツが犬の散歩に利用していた場所だ。
バカ犬が死んで、その習慣はなくなるかと思ったが、散歩は続けている様だ。
家の近所だからという油断もあるのだろう。
来た‼アイツだ。
公衆トイレの影に身を潜める。
何も知らずアイツが近づいて来る。
ゲンノウを握る手に力が入る。
今、アイツが通り過ぎた。
そっと、後ろから近づい行くと、気配に気付いたのか振り返ろうとする。
その振り向きかけた頭部に思い切りゲンノウを叩きつけてやった。
ガツン、という手応えと共に、アイツの身体が崩れ落ちていく。
倒れたアイツの頭部にすかさず打撃を加える。
何度も、何度も、何度も、何度も。
喰らえ‼喰らえ‼喰らえ‼喰らえ‼喰らえ‼喰らえ‼
頭蓋が砕け、脳漿が飛び散る。鼻梁が陥没し、眼球が飛び出る。
飛び出した眼球も叩き潰す。
顎が砕けて、歯が飛び散る。
最後の一撃を加えようと降りかぶった瞬間、ゲンノウが手からすっぽ抜けた。
さあ、仕上げだ。
バカ犬の時に使ったナイフでは心もとなかったので、今回は出刃包丁を用意した。
アイツの着ているTシャツを目繰り上げて腹をさらけ出す。
うっすらと腹筋のラインが見てとれる。
結構、引き締まった身体だ。
その腹筋のラインに刃を宛がう。
「きゃあぁぁぁぁぁぁッ‼」
何だ‼
振り向くと、犬を連れた中年の女が立っていた。
クソッ‼
即座に逃走に移る。
クソッ‼もう少しだったのに………
まあいい、最低限の目的は果たせた。
これで終わりだ…………
第七幕
母に起こされた時、時計の針は午前6時を少し回ったところだった。
何事かと問うと、警察の人が来ていると言う。
ふん、ストーカー1人、まともに捕まえる事も出来ない役立たずの警察が今更何だ。
と、そう思いながらリビングに降りていくと、須藤と片岡、もう1人見知らぬ男がいた。
須藤より年配に見えるその男は、手帳を示しA県警の村瀬と名乗った。
「二神麻衣子さんですね?お伺いしたい事があります。所轄のS警察署まで、ご同行願えますか?」
村瀬がそう言うと、母がどういう事かと問うた。
「宇野雅也さん、ご存知ですよね?貴女の元同僚の男性です。昨夜の8時半過ぎに◎◎町の双葉公園で宇野さんの遺体が発見されました。それでですね、宇野さんの遺体の側に落ちていた凶器と見られるゲンノウから貴女の指紋が検出されました。貴女らしき女性を見たという目撃証言もあります。ご同行願えますね?」
村瀬の言葉に母は、どういう事ですか?と、ただただオロオロするばかりだった。
父と弟も茫然としていた。
私は、S署に連行され取調室に入れられた。
私の向かいに村瀬が座り、須藤は壁に凭れて腕組みをしている。
片岡が、隅っこの机で調書の作成準備をしている。
「二神さん、率直にお聞きしますが、貴女が宇野さんを殺害したんですね?」
そう問う村瀬を無視する。
「どうなんですか?」
重ねて問うてくる。
喋る気力もなく、考える事を放棄した私は、その後、2日間黙秘を続けた。
3日目_。
同じく、向かいには村瀬の姿があったが、須藤と片岡はいなかった。
代わりに隅の机には、婦人警官が座って調書の準備をしていた。
「二神さん、何か喋ってもらえませんか?このまま黙っていても埒が明かないんですよ。」
埒が明かない………
その村瀬の言葉に、私の中で何かが壊れた。
「アンタ達のせいだ‼」
「何です?」
「私は悪くない!アンタ達があの男を、さっさと捕まえてれば、こんな事にはならなかったのよ‼あれだけ言ったのにアンタ達が何もしないから‼」
私の豹変ぶりに、村瀬は面食らった様だったが、すぐ取り繕うと、落ち着いて下さいと言った。
「宇野さんを殺害した事を認めるんですね?」
私は、そっぽを向いた。
「確かに、貴女がストーカー被害に遭われていたのは、須藤刑事からの報告で私も認識しています。しかし、貴女は須藤刑事から宇野さんのアリバイが証明されたという報告を受けてますよね?」
「嘘よ‼そんなの嘘!アリバイなんてデタラメよ‼証言してるのは竹内美弥なんでしょう?アイツ等はグルなの‼二人で共謀して嘘のアリバイをでっち上げてるのよ‼何で、そんな簡単な事が解らないのよ‼」
激昂する私に村瀬は、再び落ち着いて下さいと言った。
「二神さん、貴女、大きな誤解をしてますよ。」
誤解?
何が誤解だ‼
「宜しいですか?貴女からの訴えによって須藤刑事が宇野さんの身辺調査を行った結果、貴女の言う竹内美弥という女性の名前が上がっているのは事実です。しかしですね、この竹内さんは、最初の事件、つまり貴女の車が被害に遭った件ですが。この事件が起こる1週間前から消息不明になっているんです。ご家族からも捜索願いが出ていますが、未だに消息は分かっていません。どういう事か解りますか?竹内さんは証言者ではないんです。つまり、貴女の言う様なアリバイの偽証なんて事実はないんですよ‼」
何を言っている?美弥が証言者じゃない?馬鹿な……そんな筈はない!
「二神さん、我々には守秘義務というものがあります。本来ならば証言者の素性を明かす事は出来ません。しかし、貴女の誤解を解く為に敢えて、私の責任に於てお教えします。宜しいですか?」
村瀬が上目遣いで私を覗き込みながら言う。
「まず第一に、貴女の車が被害に遭った件ですが、この件について宇野さんのアリバイを証言しているのは、松永秋彦さんという男性です。ご存知ないでしょうが、この方は水道工事会社の社長さんです。そして、この会社は宇野さんの再就職先です。松永さんは宇野さんの事情を知った上で、真面目に働くならと雇ったそうです。そして、問題の日は宇野さんの歓迎会という事で、他の社員の方々も交えて朝まで飲んでいたと証言されています。」
村瀬の目が、私をじっと見る。
「第二に、貴女の友人の車が被害に遭った件については、証言しているのはファン・ミヨンさんという韓国系の二世の女性です。この方はご存知ですよね?お宅の会社の若い方達が行き付けにしている、スナック《ネイル》のママです。ファンさんの証言では問題の日、宇野さんは開店時間の午後9時から閉店する午前5時まで店にいて、閉店後、ファンさんと共にラーメンを食べに行き、別れたのは午前6時半過ぎだったとの事です。」
村瀬が私の様子を窺う。
何だ?何がどうなってる?
「そして第三に、お宅の犬が殺された件についてですが、この件に関しては宇野さんはその日、このA県内にいなかった事が確認されています。姪っ子さんの引っ越しの手伝いの為にO府に滞在していた事が姪っ子さんの同級生の証言によって証明されたんです。これらの証言によって宇野さんのアリバイは成立しているんです。宇野さんが貴女をストーキングしていたという事実は認められません。」
何だ?宇野がストーカーじゃない?何を言ってる?そんな馬鹿な事……
「二神さん、質問があります。」
村瀬が首筋を揉みながら言う。
「先週、◎月△日と◇日の夜、どちらにお出掛けでしたか?貴女のお母さんの証言では友達の家に泊まると出掛けられたそうですが、どちらのお友達ですか?」
村瀬の視線が絡み付いてくる。
やめろ‼そんな目で私を見るな‼
「△日の夜には、宇野さんの車が汚物で汚される被害に遭っています。◇日の夜は、宇野さんの飼っていたシーズー犬が殺されています。どちらも宇野さんから被害届けが出されていますが、届けを受けた捜査員に宇野さんは言ったそうです。もし犯人が自分が起こした事件の被害者の関係者なら被害届けは取り下げると。解りますか?宇野さんは貴女に恨まれているなんてコレッぽっちも考えてなかったんです。当然です、恨まれる憶えがないんですからね。」
村瀬が勝ち誇ったかの様に言った。
その時、ノックも無しに扉が開き、須藤が入って来た。
「何だ?どうした!?」
問いかける村瀬を無視して、須藤は私に歩み寄ると言った。
「二神さん、たった今、片岡から報告がありましてね、貴女にストーカー行為を繰り返していた犯人が逮捕されましたよ。」
ストーカーが捕まった?ストーカーは宇野……
「工藤英介、ご存知ですよね?貴女と同じ会社の同じ部署の後輩です。工藤こそが貴女をストーキングしていた犯人なんです。」
工藤がストーカー?何だ?何を言ってる?この男は何を言ってるのだ‼
「貴女は勝手な思い込みで、とんでもない間違いを犯してしまった様ですね。」
村瀬の声が遠くに聞こえた…………
終幕
懲役9年の実刑_。
それが私に下された判決だった。
担当の弁護士は控訴する事を薦めたが、私は固辞した。
受けた判決を受け入れる。
最初から決めていた事だ。
弁護士の話しによると、逮捕された工藤は当初、麻衣子は俺のモノだとか、誰にも渡さないだとか喚き散らして精神耗弱を装おっていたらしい。
しかし、無駄と解ると、諦めた様子で素直に自供したと言う。
私のストーカーは工藤だった。
例の公衆トイレの落書きや無言電話も工藤だと言う。
盗まれたショーツに至っては、額装されて工藤の部屋に飾られていたらしい。
私達と餃子を食べに行く途中、忘れ物を装おって部屋に戻り、眠っている宇野に気付かれない様に盗み出したと言う。
その他の私が宇野に被害を受けていたというのは、全て思い込みだったのだろうか?
宇野の家族は恨んでいるだろう。
刑期を終えた後、宇野の墓前に立つ事を許してくれるだろうか?
許して貰おうなどと思ってはいけないのかも知れない。
まずは罪を償う事だ。
気になるmaikoのCDを手に入れるのは、まだ先の事になりそうだ。
私の名前は、二神麻衣子。
今日まで92番という番号で呼ばれていた…………
追加公演
懲役9年の実刑_。
それが、二神麻衣子に下された判決だった。
何年だろうと関係ない。
あの女が、再び世に出て生き永らえる事に変わりはないのだ。
私の大切な彼の命を奪ったというのに‼
彼との未来に障害となるであろう邪魔者を全て排除し、彼を迎え入れる環境を整えたというのに、あの思い込みの激しい自意識過剰のクソ女が台無しにしてしまった。
許せない‼許せる訳がない!
9年後、あの女に必ず復讐する。
私が、この手で必ず二神麻衣子を殺してやる‼
カーテンコール
懲役1年6ヶ月、執行猶予3年_。
それが、僕に下された判決だった。
裁判所から拘置所に戻った僕は、即日、釈放される事になった。
桜は、すっかり散ってしまい、木々は青々とし始めている。
家族の出迎えは断った。
母は、心配そうだったが必ず帰るからと約束した。
自分が失ったモノの大きさに改めて気付く。
まずは仕事を探さなければならない。
どんな仕事でもいい。
生きてさえいければ………
そんな事を考えながら拘置所の門を潜ると、そこに彼女が立っていた。
「何で、君が?」
困惑する僕の手を取り、
「大丈夫です。何があっても、どんな事が起こっても、誰が何と言っても私は宇野さんの味方です。」
そう言って、
彼女、小室奈未は微笑んだ…………
イヤ汁小説_。
この言葉を目にした時、僕は唸ってしまった。
ウマい事を言うなあと。
イヤ汁小説とは、読む人が胸くそ悪くなる、人間の裏の顔、異常性、グロさなどといったイヤな汁が、じくじくと膿の如く滲み出る様な小説を指して言うらしい。
ここ数年、この手の作品が流行っているという。
確かに書店でも、この手の本をよく見掛ける。
湊かなえさん、沼田まほかるさん、真梨幸子さん、タイトルはポップなのに中身はグログロの堀内公太郎さんなど、多数の作家さんが多くの作品を出版している。
まあ、僕も真梨さんにどっぷりハマってますけど。
そんな事で、自分なりのイヤ汁小説を書いてみたいという欲求に駆られ、今作に至った訳ですけれども、果たしてコレがイヤ汁小説になっているのかでうかは定かではない。
ただ、読んでくれた方の1人でも多くの人が胸くそ悪くなってくれたら幸いです。
最後に、こんなモノを書いてしまった者の責任として一言…
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等には一切関係ありません。
陵凌