合図
困った。
人生でこんなにも追いつめられることは、四十六年生きてきたが未だかつてなかったことだ。
はぁ
魂が口から零れるようなため息が零れた。
いつもならば職場のロッカーで制服に着替えると、身が引き締まるような気持ちになるというのに今はただただ憂鬱でたまらない。
紀伊山一郎はしごく追いつめられていた。それはもうびみょーで、繊細で、かつ逃げ場がないほどに。
二十八歳のときに憧れ続けてきたバスの運転手になった。
六歳のときには大きな乗り物が好きだと自覚した。軽四よりもワゴン。パトカーよりも救急車。そうして行きついたのはバス。
海を泳ぐ船や空を飛ぶ飛行機はだめだった。地面に足がついていないと不安になるのだ。
こんなに大きくて、いっぱい人を乗せられる乗り物が他にあるとは思えなかった。
いずれ自分がこの乗り物を操ってみたいと考えた。
大型免許をとるまでに車の免許をとって、ハンドルを握っていろんなところに行った。楽しい思い出だが、繰り返される景色が一番自分にはなじんだ。
難題と言われる大型免許をとるまで何度か試験に落ちては、自分には向いていないのではないのかと思った。バスの運転手にしても就職したいくても、狭き門で数年はバイトで食いつないだ。その頃は実家で生活していたので両親には白い目で見られた。
苦い経験を経てようやくついた職は天職だった。やはり自分にはバスしかないと思えた。
業務は大変だったが、事故はなく、毎日同じ景色を見ながら、人を乗せる。ときどき客間でのトラブルはあったが、それもこれも毎日をささやかに彩る出来事と思えば楽しめた。
職場の人間も自分以外はみな、年長者で、厳しくも優しく指導してくれた。
いいところだと思っていた。
あいつがくるまでは。
三日月碧人。
最少年で入社してきたイケメン。笑顔が優しく、運転技術も抜群にいい。礼儀正しく、分をわきまえてなにもかもパーフェント。
地味で目立たない自分にも、あれこれと気を遣ってくれる三日月のことは悪くはないと思っていた。
だから、まぁ、まさかだ
「俺、紀伊山さんのこと好きです」
職場の。しかも、ロッカーでの着替え中、いきなりそんなことを言われて驚いた。思わずズボンを脱いでいたのを忘れてひきあげてしまった。
しかも二人きり。
あ、貞操の危機かも。
地味な一郎には恋人はいない、まして妻なんてものは夢のまた夢。ただただバスが好きだと思い続けて、気がついたら四十六歳になっていた。
今時でいう草系男子。女の子と付き合ったのはずっと昔のことでもう記憶も朧げ。それでも一人で生きていく分の稼ぎはあるからいいかと後ろ向きの前向き思考でいたが
おかげさまで枯れている中年、後ろなんて未経験だ。
それが社内一のイケメンである三日月からのまさかの告白だ。思わずお尻を両手で押さえてしまったのは仕方がない。
「だめですか」
「だめというか、私はそういうことはわからなくて」
「自分のことでしょう」
「そ、そうだけど……君、なに、男が好きなのかい」
「はい!」
そんないい笑顔で断言しなくても。
逃げたい。ものすごくここから逃げたい。自分のために。
しかし、ここで逃げたところで同じ会社で働くのだからいやでも顔を合せることになる。シフトを見れば明日は互いに同じ時間帯の出勤。こんな状況で今日の明日で顔を合せるのはキツイ。
「俺、紀伊山さんの枯れてて、大人しいパンダみたいな雰囲気にやられちゃって」
「それ、褒めてないよ」
思わずため息が出た。
「そうですか? 俺、フケ専門だから余計に」
「ごめん、君の言ってることは理解できない。私にはそういう趣味は」
がしっと両手を握られて、ひぃいいと心の中で悲鳴をあげる。
「だめですか」
「だ、だめというか、私にはそういう理解が、その、だね」
「だったら今から目覚めてもいいじゃないですか」
なに、このいらん方向に前向きなひと。
膝から崩れ落ちそうになるのを必死に踏みとどまる。
「俺が教えますから」
「え、えー」
「だめですか? ほら、ものは試しって言いますし」
「う、うーん。ごめん、疲れてるから、そんなこといわれても」
「疲れてなきゃ考えてもらえますか?」
だから、その前向きさはどこから生まれてくるんだとつっこみたくなる。
両手を握られて壁まで追い詰められて、じぃいと見つめられては頷くしかない。本当の本当に貞操の危機だ。
ほっと三日月が微笑むのに紀伊山はどきりとした。イケメンの微笑みとはなかなか破壊力。とくに疲れ果てているとき、三日月の笑顔は心の隅をほっとさせる効果がある。
「だったら俺、明日、早出なんです。紀伊山さんもですよね?」
「うん」
「すれ違うときあるでしょう? あのとき、俺、合図します。それに応えてください。応えてくだされば、お試しをしてみる。しなければ今後、二度と言いません、こんなこと」
「はぁ。合図って、あれは禁止されて」
「けど、みんなときどきしているでしょう?」
それはそうだ。
バスの運転手同士がすれ違うとき、軽く頭に手をあてての敬礼ポーズの挨拶。それがどうしてかわからないが禁止になった。
禁止といっても処罰されるわけではない。だからみんなこっそりと知り合いに会うとしている。かくいう一郎も。
親しくしている相手にだけ合図をする。おつかれさま、がんばろう、と。
先輩方が一応レクチャーしていたが三日月はちょうど入社したときに禁止になったので、合図を送る相手はいない。送る様を見たことはない。
「だから、お願いします。一晩考えてください。即決なんて出来ないでしょう、紀伊山さんの性格上」
「う」
よくわかってらっしゃる。
「そういうところ、好きになったので」
それだけ言うと襲われることもなく、三日月は去って行った。
ほっとしたし、あっけにとられて唖然としてしまった。
おかげさまで寝不足だ。
疲れたまま自宅に戻り――バス会社に就職してから実家を出て、狭いアパート生活だ。
キッチンでインスタントラーメンを作ってすすったあと、居間にあるテーブルに突っ伏した。
一度考えると底に沈むようにぶくぶくしてしまう一郎は眠れもせずにうんうんと唸ってしまった。
欠伸混じりに出社すると、入れ違いで制服に着替えたばかりの三日月と顔を合せてしまった。
いつもより早いな、と声をかけようとして三日月が緊張した顔で頭をさげるのに一郎もぎくりとした。
眠れなかった原因が頭のなかで膨れ上がり、胸を突く。
だめだ。これじゃあ
運転は神経を使う。気を散らしていてはちゃんとできない。
気合いをいれて制服を着て大好きなバスのハンドルを握る。それだけで幸せだった。今だってそれだけで良かった。もうこの年齢で何かあるなんて思っていない。想像だってしてなかった。まさか、こんな事態になるとは。
小さなため息とともにアクセルを踏むと今朝見たばかりの三日月の顔が浮かんだ。
早朝にバスを使うのはもっぱら出勤する者、学生が多い。最近は小学校も遠くなったのか、ランドセルを背負った小学生もいるちらほらといる。
みな一同に眠たげで、どこかぼんやりとした空気が漂っている。まだまだ車が少ない路上を走っていると、目の前から知っている乗り物――一目で三日月が運転しているのだとわかる。
緊張に背筋が伸びた。
どうしようか。
もうすれ違うまで時間がない。
胸がどきどきする。
前だけを見ていると、運転席にいる三日月が頭に軽く手をあててきた。真剣な顔にどきりとした。
心臓がばくばくと逸るままに、そっと自分の頭に手をあてていた。深く考えたわけじゃない。ただ、してやりたいなっと思ったのだ。
とたんに三日月が顔を緩めて嬉しそうに笑うのが見えて、頬が熱くなった。
だめだ、事故する。
急いでハンドルを両手で握り、運転のことだけに集中する。
仕事が終わったら、どうなるだろうな。
そんなことをちらりと不埒にも考えてしまう。




