勇気
―― 三日目
朝、私は娘を背負い歩き出す。
今日は娘は起きてから一言も話さない。
◇◆◇◆◇
「ねぇ、……お父さん」
太陽が昇り終え始める頃に娘がやっと話し出す。
ようやく元気が出たかな?
「なんだい?」
「……天国ってどんなところかなぁ?」
私は一瞬悪寒が走った。
しかし、なんでもない話かもしれない。私は努めて焦った様子を見せずに答える。
「……どんなところだろうね。たぶん綺麗な花とかがいっぱい咲いてるんじゃないかな」
「……そっかぁ」
娘はまた少し黙りだす。
「……あたし死んじゃうのかなぁ」
「死なないよ」
ポツリと言う娘に私はすぐに否定する。
「でもあたし、毎日毎日どんどん体に力が入らなくなっていくよ……。こんなの絶対死ぬよ」
「大丈夫、死なないから」
「死ぬってっ!」
「死なないっ! お前を死なせなんかはしないっ! ……そのために今こうやって歩いているんだよ?」
娘が語気を強めて言うが、私はさらに上にかぶせる。
「……いいよお父さん。もういいよ、お父さんももう疲れたでしょ? もういいよっ」
「よくないっ! 疲れたりものかっ! お前のためなら足が砕けて引きちぎれようと私は歩くっ。お前がもういいと言ったって私は絶対に止まらない。止まらないんだっ」
娘は私のシャツを力ない手で握り締める。
「なん……でよぅ」
「世界で一番、大好きなものを見るためだ。父さんはな、お前のヒマワリのような元気いっぱいの笑顔が世界で一番好きだ。
一番だぞ?
母さん譲りのお前の笑顔は世界で一番輝いているよ。だから父さんは諦めないよ。
――決して」
「そっか、お父さんは絶対にあきらめないんだね。じゃあ、あたしがあきらめちゃダメかな」
「そうだ、諦めない。それに火の試練は生きてさえいればあとは意志の強さだ。だから諦めさえしなかったら大丈夫だよ」
「うん……、天国にお父さんはいないしね」
「はは、そうだな。まだちょっと逝く予定はないよ。父さんは出かけるときはスケジュールをきっちり決める派なんだ」
「そういやそうだねっ。じゃあ、私もしばらくいいやっ」
よかった。娘が前向きになってくれた。
もともと前向きで元気のいい子だ。この調子で火の試練を受けれたら絶対に助かるに違いない。
私は少しだけ流れそうになっていた涙を、娘に悟られないようにしながら前に進んだ。
◇◆◇◆◇
ハァ……ハァ……
日が黄昏るよりも少し前に私は娘の息が少し荒い事に気がついた。
「どうした? 苦しいのかい?」
「う、ううん。大丈夫……だよ?」
今までとは違う力のない話し方。これは絶対に大丈夫じゃない。
「……今日はここまでにしとこう」
私はそう言うといつもより早めに移動を切り上げる。
「そう……、でも早く行かなきゃなのにね……」
そう言う娘を下ろすと、しばらくして少し息が落ち着いた気がする。
やはり背負われていても体力がかなり削れていくようだ。
「着くまでにお前がどうにかなったらそれこそ大変だ。無理はせずに行こう。昨日と一昨日で結構進んでるから大丈夫だよ」
私はそう言うとはやる娘を宥める。
一日目と二日目でかなり移動していて良かった。
いや、悪かったのか? もっと早く休憩をするべきだったのか?
いやでも体力をある時に移動をするべきだったのだ。
そんな自問自答を繰り返すが、もう過ぎたことはしかたがないことだと切り替える。
前に進んでいるのは間違いないんだから。
それより娘の容体が気になる。
「大丈夫かい?」
「うん、……少し疲れただけじゃないかな」
慣れない旅で三日目だ、健康な時でも結構疲れてくるはずだ。
「ご飯は食べれそう?」
「うん」
よかった、食欲があればとりあえずは安心か。
私は野営の準備を進める。
◇◆◇◆◇
「はい、あーん」
「あーん」
私は娘を後ろから抱きながら食べさせる。
娘は私が野営の準備をしている間もあまり話すことはなかった。
いや、体力の温存を考えるとそれは望ましい事ではあるのだ。しかしながら、話好きの娘があまり話さないと不安になる。
今は、私が強くあるべきだと言うのに。
ただ、話はしないものの娘は朝よりは目の力が強い。その目を見て逆に私の不安が少しだけ和らぐ。
娘は生きようとしているんだから、きっと大丈夫なはず。
「……お父さん、少し寒いかな」
「ん、そうか。じゃあ火を強くしようか」
私は火に薪をくべる量を少しだけ増やす。
気温は昨日とあまり変わっていない気がするが、やはり体力が落ちているからかな?
「……あったかいね」
「そうだね。さっ、食べよう。あーん」
「あ、ごめん。もう、無理かな」
「そうか」
娘の食べた量は今朝よりもまた減っている。私は心配になったが、無理に食べさせることもできない。
食べられない以上体力の温存は睡眠に任せるしかない。
距離としては明日の昼過ぎには十分着く距離なのだから、今日さえ持ちこたえれば大丈夫……。
大丈夫なんだ。
「じゃあ、もう寝るか?」
娘は首を横に振る。
「もう少しだけ、こうしていたいかな。……いや、抱っこしてくれる?」
娘の要求にこたえて、私は娘の向きを変えて膝の上に乗せると抱きしめる。
娘も私の首に手を回す。やはりその力にほとんど力がない。
「お父さん、あたし。がんばるからね。頑張って生きるからね」
「あぁ、がんばろう」
「がんばるよ。……だからね、お父さん」
「うん?」
「――そんな不安そうな顔しなくてもいいよ」
「えっ?」
娘が優しく私に言う。私はいつも通り平静にしていたはずなのに。
「いや、そんなことはないよ。父さんは不安になんて思っちゃいないよ」
私は努めてそう言う。片親として、父として、娘に頼もしい存在でなければならないのだ。そんな私が不安に思っていることを娘に悟らされてしまうなどあってはならない。
それが娘が生命の危機に瀕している今なら尚更だ。
「それは嘘だよ。わかるよ。ずっと見てきたんだから。お父さんほんとは泣き虫だもん。
お母さんが死んだ時だって、私が寝てから毎晩泣いてたもんね。私の目の前では絶対に見せようとしないけど、知ってるんだよ?」
「っ! ……はは、バレてたんだね。かっこ悪いなぁ」
「ううん。でも、そんなお父さんだからかっこいいんだよ。本当は泣き虫なのに、私の前ではいつも強いお父さんを見せてくれたよね。だからかっこいいんだよっ」
「そうか……」
「大丈夫だよ、あたしは諦めないから。昼間はあんなこと言っちゃったけど、もう絶対に生きるよ。もし、あたしが死んだらお父さんかっこつけるところなくなっちゃうもんね」
「そうだね、本当にそうだ。かっこつけるところがなくなってしまうね」
「いつもいつも、お父さんはあたしに勇気をくれるんだ。だから、今日はちょっとだけ返すね」
そういうと、娘はわずかに私を抱く力を込める。
そうか、抱きしめられているのは私なのか……
「お父さん、……大好きだよ」
「う、……ぐっ」
言葉を返したかったが、口を開くと嗚咽が漏れそうだった私は娘を抱き寄せて声を殺して泣いた。せめて娘に泣き顔だけは見せたくなかった。
私もね、私もお前の事が大好きなんだよ。
―― 四日目
最悪の事態が起こった。
「ハァハァ……ハァハァ……」
娘の汗が止まらない。息は荒く熱もある。
昨日寒いと言ったのは風邪をひき始めていたのか……。
娘はとてつもなく苦しそうだ。体力が底を尽きかけている時だ、ただの風邪でも致命的だって言うのに。
とても動かせる状況には見えないがどうする……、このまま運ぶか? いや、今日中に着くとはいっても決して近い距離でもない。今この状況から動かすと着くころまでに持つかどうかも怪しい。
少しずつ、少しずつ運ぶか?
ありえない。いたずらに体力を消耗させてそれこそ娘を殺すようなものだ。
しかし、今日安静にさせてても持ちこたえれるのか?
そう考えをめぐらすもどれも不安が残る。
「ハァハァ……お父……さん……」
「どうした?」
娘がかすかな声で吐息を漏らしながら話すので私は娘の口に耳を寄せる。
「ごめん……ね……。今日は……ちょっと……きついかな……」
「……そうだね」
「でも……大丈夫だよ……。今日で……治すから……。明日に……なったら……いこ……」
「わかった」
私は頷く。
娘が頑張ると言っている。明日になったら治って無くても行こう。いずれにせよ、明日になればもうもたない……
それにしても汗がすごい。水を飲ませなくてはならないため抱き起こす。
水筒を口元にもっいってやるがうまく飲み込めずかなりの量を溢す。飲み込む力もかなり落ちている。私は水に浸した布で絶え間なく娘の唇を湿らせることにする。それは吹き出る汗の量から比べるとあまりに少ないがそれしかなかった。
◇◆◇◆◇
「う……、あ。あぁ……。ハァハァ……」
娘が呻きだす。相当苦しいのだろう。それでも私は汗を吹いて唇を湿らせてやるくらいしかできない。
「がんばれ……、がんばれ……」
私はもうそう言うしか出来なくなっていた。
歯痒い。自分の無力さに腹が立つ。
「お父……さん……」
「どうした?」
娘が目を開き腕をを空中に伸ばそうとする。
「……どこ?」
「っ! 父さんはここに居るよ」
私は直ぐさま娘の手を掴む。
しかし娘の質問はおかしい。私はずっとそばにいる。
「……いつの間にか、……夜に、……なってたんだね」
どういうことだ? まだ日の位置は低くもないというのに。
まさか、娘は目が見えていないのか? ここまで弱っているのか?
「……ああ、すっかり夜だよ」
私は嘘をついた。
嘘をついたからって娘はよくはならない。
ただ、娘に事実を突きつけたくなかった。
……違う。私がその事実を受け入れたくなかっただけだ。
「ふふ……お父さん、……ほんと、……泣き虫ね」
「えっ?」
娘に言われていつの間にか頬を濡らす自分に気がついた。頬を伝って落ちたものが娘の手のうえに落ちていたようだ。
「あたしが……、みてなきゃ……、ほんと……泣き虫なんだから」
苦しそうな吐息を吐きながら娘が微笑む。
「……泣かないで、……日の出までに、……治す……から」
それだけ言うと娘は焦点の合ってなかった目を閉じる。
なんて健気なんだろうか。
どうして、どうしてメルティルナの呪いにかかったのが娘なんだ。
私なら、私の命ならいくらでも差し出すと言うのに。
日に日に力が抜けていくことを娘がどれだけ怖かったか。
極限に削れた体力で風邪になってどれだけ苦しいことか。
私なら、私ならば喜んで妻の元へ逝ってやるのに……
私は自分が苦痛も何もないことを呪った。すると胸からなにか込み上げてきた。
「ゲホ、ゲボッ」
血? 吐血?
私自身も疲れていると言うことか?
「は、はは……、ははは……」
思わず乾いた笑いが溢れた。
今さら? 私が望んだから? だがこの程度で娘の苦しみが共有できると思うほど思い上がってはいない。
娘の苦しさはこの数百倍だろう。
私は血の味を噛み締めながら娘の看病を続けた。