↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

俺の生きる意味だった人気高校生アイドルが自殺してしまった。タイムリープしたので、彼女を救うことにしました

作者: ライト86
掲載日:2026/11/03

この物語は、最初と最後がつながっているため、どうか最初からちゃんと読んでもらえると嬉しいです。




『続いて、芸能のニュースです』


 テレビで流れていたことは、俺の見間違い、のはずはなかった。


『人気アイドルグループ【STELLA(ステラ)! 】の中心メンバーとして活動していた、楠木楓(くすのきかえで)(16)が今月十一月十日に亡くなったことが、本日、所属事務所から発表されました。楠木楓さんは幼少期から芸能活動を開始し、その後、数々の楽曲やテレビ番組への出演を通して人気を集め、現在では国内を代表するアイドル__』


 突然の彼女の訃報を見た時、俺は泣かなかった。いや、正確に言うと、どんな顔をすれば良いのかわからなかったのだ。


 もちろん彼女とは同い年というだけで、友達でもなければ、知り合いでもない。


 傍から見れば、ただのファンとアイドルという関係なのだろう。


 だけど、俺にとって楠木楓という少女は、俺が生きる意味そのものだった。



「ありがとう! また来てくださいね!」


 当時、まだ名前すら知られていなかった、小さなアイドル。

 

 そこは、小さな会場だった。

 観客も少ない。

 ステージに立っている彼女のことを知っている人間も、まだほとんどいなかった。


 そして当時まだ小学生だった俺も、何となく立ち寄っただけだった。


「また、来てね!」


 そんな彼女の一言が、妙に心に残った。


 早くに両親を亡くした俺にとって、彼女の存在そのものが、不可思議でならなかった。


 時には、観客が俺一人しかいないことさえあった。それでも彼女は、たった一人の観客を前にして、変わらぬ笑顔で舞台に立ち続けていた。


 何かを頑張ることすらできなかった当時の俺には、その姿がひどく眩しく見えた。

 

「月見さん、また来てくれたんですね!」


「月見さん、いつもありがとうございます!」


「月見さん、よかったら新曲の感想を聞かせてくれませんか?」


 次の日も、その次の日も、俺は彼女を応援するようになった。

 そして、それに応えるように、立った一人の観客である俺のために彼女は歌い続けた。

 陽だまりを溶かし込んだような綺麗な長髪を、絹糸のごとく揺らしながら。


「今日は、新曲を発表します!」


 日を重ねるごとに、観客は増えていった。

 以前なら、彼女の歌声だけが響いていた小さな会場に、今では歓声が上がるようになっていた。


「楠木ちゃん、頑張って!」


「応援してるよ!」


 彼女の名前を呼ぶ声が、あちらこちらから聞こえてくる。

 いつしか、観客が会場を埋め尽くすほどになっていった。


 あの日、誰にも知られていなかった少女は、確かに少しずつ、世界に光を放ち始めていたのだ。


 そして、彼女が前へ進み続ける姿は、いつしか俺にとっても、前を向くための光になっていた。



「……なのに、どうして」


 画面越しの彼女は、いつものように笑っていた。

 彼女は、この先日本武道館でのライブも控えていたはずだ。


 まだ、これからだった。

 

 先の見えない俺の未来と違って、彼女には、まだずっと先に明るい未来があったはずだった。


 そう思っていた。

 そう、願っていた。


 だからこそ、どうして彼女が死ななければならなかったのか、俺には理解できなかった。



♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢



「噂によると、楠木楓って相当ないじめにあってたらしいよ。しかも、ゴシップとかなんやらでさぁ、なんか大変だったらしいよ」


 翌日、ブラインドの隙間から差し込む光に目を細めながら【1112】と楠木楓の誕生日をスマホに打ち込むと開口一番、ご愁傷さまですと言わんばかりに恭しくお辞儀をする何ともゆるいタッチのクマのスタンプと共に友人からメッセージが届いていた。


 そうなんだ、と返事をし、習慣的にSNSを開いた。


 その世界はいつにもまして人の呼気で溢れ返っていた。


「楠木楓が死んだってま?」

「学校でいじめにあってたらしいよ」

「じゃあ、やっぱり精神的に追い詰められちゃったのか」


 あいかわらずのネットの異常なほどの情報通達の速さに感心すると共にいじめという言葉に目が留まった。


 楠木楓が学校でいじめ、どこか信じ難かった。

 

 そもそも、彼女はそんなことで死ぬような人間ではなかったはずだ。少なくとも、幼少期俺が見続けてきた彼女は、観客が俺一人だけという最悪な状況下でも、歌声を全く揺るがせずに歌い続ける、そんな人だった。

 そんな彼女が命を絶つくらいのいじめなんて、俺が推し量れるようなものではないのだろう。


「てか直哉(なおや)、学校は来いよな」


 ネットの書き込みを掻き消すように、友人から今度は、頬を赤く膨らませたクマスタンプが送られてきた。これが、現役バスケ部エースの愛用スタンプとは俄かに信じがたい。


「涼真(りょうま)、四葉が死んだらお前は耐えきれるか? それと同じで俺にとっての最愛の人は楠木楓なんだ。学校なんて行けたもんじゃない」


 四葉という人物は、友人の三人目の恋人である。学校内では学年一の美女とも言われている人だ。


「そういうもんか? まぁ、明日は金曜日だしちゃんと来いよ」


 友人からのメッセージはそれっきりで、ぷつりと途絶えた。


「明日か……」



♢♦♢


 翌日、俺は友人との約束を反故し、訳もなく十分くらいの道のりを歩いて松本駅へと向かった。

 

 あえて理由を挙げるなら、ただ、遠くへ行きたいと思ったからだ。


 目的地は、横浜。


 調べてみると、特急あずさで新宿まで向かい、そこから別の電車に乗り換えるのが、最も安く済むらしい。

 

 駅構内には、平日の午前らしい静けさが漂っていた。改札を行き交う人影はまばらで、遠くから電車の走行音とアナウンスが反響した。


 その普段とは見慣れない景色は、まるで別の世界に足を踏み入れてしまったかのような気にさせた。



 何度か乗り換えを間違えたせいで、思っていた以上に時間がかかってしまい、結局横浜についたのはもう日が沈みかけてた頃だった。


 元々、両親が生きていたころは横浜に住んでいたので、大体の地理は頭に入っていた。

 それに、楠木楓が育った地でもあり、彼女自身横浜でライブをするのは頻繁にあったから引っ越した後も、彼女のライブを見に、何回か来ていた。そして、俺が楠木楓を生で見た最後のライブも横浜だった。


「来たはいいものの……」


 数羽のカラスが頭上で羽ばたき、嗄れたような鳴き声を静寂の世界に轟かせた。


 別に、観光をしに来たわけではない。

 

 生憎、持ち合わせたお金は帰りの交通費に充てられる分しかなく、どこも行くお金がない。

 

 そういえば、昼食も何も考えずに来てしまったせいで、弁当も何も持ってきていなかった。詰め込むだけ詰め込んだリュックサックの中には、普段学校で使う教科書類や、ノート、折り畳み傘、筆箱、そんなものしか入っていなかった。


 だけど、どのみち家に帰ったとしても、俺を出迎えてくれる人は誰もいない。だから、もう俺に居場所なんてない。そう考えると、焦りはどこかへ消えてしまった。

 

 生きる意味も、もうない。

 いっそ、もうここで死のうかな。


「直哉、お前学校来いって。推しが死んだくらいで自分も死のうとか思ってないだろうな」

 

 直後、自分の心の中が見透かされているように、友人からメッセージが届いた。

 おまけに、薬缶に入れられた水がふつふつと吹き溢れるように描かれたクマさんスタンプ付きだ。これは、相当怒っている。


 そんなわけないだろ、と反駁しようと思ったけど、この時、俺は気づいたら何も返事をせず、そのままスマホを閉じていた。本当に、無意識のうちに。


 

 そして数時間かけて、俺はあの日、彼女と最初に出会った小さなライブハウスへと向かった。

 

 しかし、十年以上経っていたせいか、もうあの頃の面影はなく建物は完全に錆びきっていた。

 ここを管理する人がいないのか、ドアは半開きになっていたため、ちょっとだけ中の雰囲気を見てみようと足を踏み入れた。


 不法侵入とかになったりするのか少し不安になったけれど、する後悔よりしない後悔ともいうし。


「こんなところに、何十人もいたのか……」


 中は、思っていた以上にあの頃のままであって、思いのほか綺麗だった。


 流石に、電気までは通っていなかったのか照明はつかなかったけれど。


「こんなに、小さかったんだ……」


 ステージと客席の隔たりは、ほとんどない。

 多分、広さでいったら、自分が通っている高校の教室と結構いい勝負をするかもしれない。


 そんな彼女が、まさか日本武道館でのライブを控えていたなんて……。


 改めて、彼女はとびっきり大きな花を咲かせたんだなとまるで彼女の親にでもなったかのような心持ちで感慨に耽った。


 そんな気持ちに浸りながら、俺はそっとステージの前に立った。

 

 不思議なことに、記憶の片隅に埋もれて、とうに忘れ去ったはずのあの頃の彼女の曲が、頭の中で鳴り響いた。


 無理をして、懸命に大きな声を出そうとする彼女の、懐かしいメロディーだ。



『楠木さんは、どうして僕しかいないのにそんなに頑張って歌えれるの?』

 

 そんな無理をする彼女に、いつかの俺はそんなことを聞いていた。

 

『それがね、私の生きる意味だから』


 彼女は、確かそう答えてた気がする。

 生きる意味、それは彼女が夢見たアイドルとして人を喜ばせたいということなのだろうか。彼女の真意はわからないけど、多分そういう意味なのだろう。



「ん? なんだこれ……」


 ふと、視線を落とした先に、見慣れないものがあった。


 ステージの裏手に置かれた一枚の紙。よく見ると、そこには鉛筆で丁寧に描かれた穏やかな海が広がっていた


 その絵は、どこか懐かしく、以前にも同じ景色を目にしたことがあるような気がした。


 それに筆圧が強く、まるで俺自身が描いたかのような筆致だった。


 分からない、全く思い出せない。


「誰かが、置き忘れたのか……」


 気味が悪くなった俺は、その絵を元にあった場所に戻した。

 

 ふと風の音が気になり、ライブハウスの外に出た。

 まだ、十一月の中旬に差し掛かったばかりにも関わらずもう小雪がちらつき始めていた。


「あぁ、帰るの余計めんどくさくなったなぁ……」


 俺にとっての生きる意味は、彼女、楠木楓を幸せにするということだった。あの時、あの瞬間俺は、彼女に救われたから、そう決めたんだ。

 

 だから俺は、彼女の笑顔がもう一度見たい。

 あと一度だけでも笑顔にしてやりたい。

 彼女の歌声をもう一度だけ聞きたい。

 あと一度だけでも歌わせてあげたい。


 __あと一度だけ。


「あと一度だけ、今度は、俺が彼女を救わせてくれ……」


 

 見上げた空はどこまでも雲に覆われていて、微かに濁って見えた。



♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎♢



「なおや、今日から学校やろ? いつまでも寝とらんと、はよ起きなさいな」


 聞き馴染みのあるしわがれた声で、俺は目を覚ました。


 真っ白な天井。

 印のついたカレンダー。

 ふかふかのベッド。

 どことなく見慣れない部屋……。


 目元に垂れかかっていた癖のない前髪をかき上げ部屋を見渡す。

、

「どこだ、ここ……」


 誰がどう見ても、そこは昨日まで過ごしていた自分の部屋とは似ても似つかない、見知らぬ部屋だった。

 昨日、ライブハウスを訪れたところまでは覚えている。ただ、それから先の記憶が、まるでぽっかりと抜け落ちてしまったかのように、何一つ残っていなかった。


「なおや、ご飯できたさかい、はよ食べにおいで」


 ドアの向こう側から、お祖母さんの急かす声がはっきりと聞こえた。

 

 どうやら、誘拐とかではないらしい。


 ちょうど腹も減ってきたし、とりあえず部屋を出て声の元へと向かうことに決め、扉を開けた。


 目の前に広がっていたのは、こぢんまりとしたマンションの一室だった。

 廊下の先にはリビングがあり、その奥には大きな窓が設けられている。


 だけど、俺が住んでいた家は二階建ての一軒家だったはずだ。


「お祖母さん、ここ、どこ?」


「何を寝ぼけたこと言うてるん」


「なおやがどうしても横浜の高校に通いたい言うもんやから、わざわざ高いマンションまで借りて、こっちに引っ越してきたんやないか」


 お祖母さんは眉をひそめ、呆れたように俺の顔を見つめた。


「えっ……」


 何が何だか分からず、ただ狼狽するばかりだった。


 横浜の高校に転校?

 俺は、そんなこと言ったことも無かったし、思ったことも一度もなかった。

 

「まあ、ええから、とりあえず食べなさいな」


 お祖母さんは、ジャムがたっぷりと塗られた食パンを皿にのせて俺に急かすように渡してきた。

 

 勢いのままに流され、俺は近くにあったテーブルに皿を置き、椅子を引いて腰を下ろした。



『__さて、続いてのスペシャルゲストをご紹介しましょう! 今、若者を中心に絶大な人気を集めているアイドル、楠木楓さんです!』


「えっ……」


 その名前を耳にした瞬間、まるで時が止まったかのように、俺の思考は完全に停止した。 


 その声は、目の前に置かれた大型テレビから流れる、朝のニュース番組のものだった。

  

 司会者に招かれ、会場に姿を現した一人の凛とした少女。その姿を、俺は紛れもなく知っていた。


『皆さん、おはようございます! アイドルグループ【STELLA!】所属の楠木楓です! 本日は、ゲストとしてお招きいただき、ありがとうございます!』 


 画面越しの彼女は、笑っていた。


 心臓がうるさいほどに脈打ち、今にも胸を突き破ってしまいそうだった。

 だって、彼女は死んだはずだったのだから。

 

「お祖母さん、今日何月何日?」

 

 突然の俺の質問に、困惑しながらもお祖母さんは淡々と答えた。


「何をおかしなこと聞くんや。今日は八月二十日やないの」


 漸く、わかってきた気がする。


 こんな非科学的な話、普通なら簡単に受け入れられるはずがない。だけど、なぜかこの時の俺は不思議と納得できた。

多分、俺は三か月前の過去へとタイムリープしてしまったのだ。

 

 神様は、どうやらずっと傍にいたみたいだ。



♢♦♢



 お祖母さんに色々と聞いてみたところ、分かったことがあった。


 まず、俺の転校先は横浜秀英高校といって、普通科と芸能科の二つの学科を併設する横浜で唯一の高校だ。

 そして、この高校こそが、楠木楓の通う学校である。


 これは、まさに僥倖だ。

 

 そこで、俺が今度こそ、彼女の死を未然に防ぎ幸せにさせる、それが神様が俺に与えた使命なのだろう。


 ちなみに、お祖母さんは融通が利く人で、ありがたいことに、高校から徒歩圏内にあるマンションを選んでくれたらしい。普段は電車で通学していた俺にとって、歩いて通えるというのは、この上なく好都合だ。


 慣れない制服に袖を通し、鏡を見る。

 覚悟を決める。

 俺の生きる意味は、今度こそ彼女を幸せにすることだ。 


「行ってきます……」


 玄関の先には、両手では収まりきれないほどの青空が広がっていた。



♢♦♢


「えっと、月見直哉君で間違いないよね?」

 

 スマホの地図を頼りに歩くこと十五分。やがて、学校の正門らしきものが視界に入った。


 正門をくぐると、流石都会の私立高校と言わざるを得ない巨大な校舎がそびえ立っていた。

 しかも、全面ガラス張りでいかにも近代的って感じがする。


 中に入り、来校者用に用意されたスリッパに履き替えて校舎の中に入ると一人の先生らしき人がすでに待ち構えていた。


「はい、間違いないです」


「私は、月見君の担任になる大林って言います。早速でごめんだけど、クラスを案内するね」


 教師らしい、穏やかな眼差しを向け初対面の俺を気遣うように話した。

 

 そして、長い迷路のような廊下を案内されるがままに歩いた。

 

 時々、すれ違う何人かの生徒がこの大林という先生に挨拶をしていたから、多分生徒の間でも慕われている先生なのだろう。


「君は、確か普通科としてこの学校に編入することになっているよね。聞いているとは思うんだけど、この学校って特殊でさ、普通科と芸能科の生徒が同じクラスに編成されてるんだよ。最初から仲良くなるのは難しいかもだけど、みんな優しいからきっとうまくできると思うよ」


 頭を、ぽりぽりと搔き回しながら心配そうに言った。


「頑張ってみます」


 なら、それはそれで俺にとっては好都合だ。

 もし、彼女と同じクラスになったのなら接する機会が大幅に増える。


 なぜだか分からないけれど、俺は彼女と同じクラスになるような気がした。


「ここが今日から君のクラスだよ、緊張してる?」


 大林先生が指を差したのは、一年五組と書かれた教室だった。


 緊張、俺は別に昔からそういうのには緊張しないタイプの人間だった。


 それに、俺はただ楠木楓を救うためにここへ来たのだ。今更、こんなところで緊張しているわけにはいかない。


「大丈夫です」


 教室のドアを開けると、なぜかぱちぱちと暖かい拍手で歓迎された。

 多分、大林先生の仕込みなのだろう。


 やはりとは思ったが、教室のどこを見渡しても美男美女ばかりだった。

 

 というか、前の席にいるあの美少女はファッションモデルの雑誌の表紙によく載ってる人だし隣は名ドラマの子役で一躍を買った有名人じゃないか。


 多分、うちの高校の四葉でさえ、五本の指に入るはおろか、中の中とかそういうレベルだぞ。

 

 流石は、横浜で唯一の芸能科のある高校だ。恐れ戦く……。


「つきみ、なおやと言います。これから、よろしくお願いします」


 黒板に、自分の名前を書きながら横目で周りを見渡した。

 しかし、いくら見渡しても、肝心の楠木楓の姿が見えなかった。

 

「本当は、もっと歓迎会をしてあげたいんだけど時間の都合が合わなくて、本当にごめんね。直哉君は、あそこの席に座ってくれるかな」


 先生は申し訳なさそうに眉を下げながら、窓際の一番後ろの席を指差した。

 しかし、その隣の席にも誰も座っていなかった。


「もう少ししたら彼女も来るとは思うんだけど__」



「あ、すいません、仕事の関係で遅れました」


 教室の扉が開き、一人の少女がゆっくりと教室に入ってきた。

 彼女の凛とした佇まいに、場の和やかな雰囲気が一変した。

 

 艶やかな黒髪が腰の辺りで揺れ、透き通るような白い肌が窓から差し込む光に映える。

 すっと通った鼻筋に、綺麗な二重瞼の下で輝く大きな瞳。

 その立ち姿には一切の無駄がなく、自然と周囲の視線を集めてしまう不思議な存在感があった。


 

 __やっと、彼女に会えた。



「紹介するよ。今日からこの学校に転校してきた月見直哉君だよ。君とは隣の席だから仲良くしてやってくれ」

 

 先生はそう言いながら、俺の肩をばしばしと叩いた。


 彼女は視線を伏せたまま、俺や先生とも目を合わせることなく、ただ、小さな声でぼそりとよろしくと呟き、早々に彼女の席へと向かった。

 

 その姿は、俺にはまるで、彼女がとてつもない重荷を背負って苦しそうにしているように見えた。


 まるで十年前の彼女とは、別人に見えた。



♢♦♢



「ねね、月見君ってどこから来たの?」


 休み時間になると、俺の机の周りに何人かの人が集まった。

 やはり顔のレベルが高すぎるので、目を合わせられずに、質問に答えていった。


「私は、高橋理沙(たかはしりさ)って言います! これからよろしくね!」

「よ、よろしく……」

 

 美少女が、綺麗な茶色の長髪を揺らしながら近寄ってきた。

 高橋理沙って、確かアイドルにいたよな。


「俺は、直哉と同じ普通科で入学してるからさ、仲良くしようぜ!」


 一ノ瀬斗真(いちのせとうま)という男は、普通科と自称していたが、多分前の高校だったらこの人は絶対に一軍入りはするだろう。

 というか、初対面にもかかわらず、いきなり名前で呼んでくるあたり、所謂陽キャに違いない。


 その後も、何人もの人が転校生の俺を珍しがって、自己紹介や質問をしに押し寄せた。

 その都度、俺は軽く返事をする。


 勿論、彼らとは仲良くなりたいし、有名人と友達になれるなんて嬉しい限りだ。

 

 ただ、俺の目的は__。


「楠木楓さんだよね。これから隣の席になるけど、よろしく」


 休み時間、彼女は隣の喧騒を気にもせず、ずっと一人で黙々と分厚い本みたいものを読んでいた。


 彼女が死ぬまで、もう三か月を切っている。

 俺は、彼女を救うためにも、なるべく早い段階で彼女とはある程度の関係になった方がいい。


「あっそ……」


 しかし意外にも返ってきたのは、しらけた返事だった。

 その際も彼女は本に集中し、俺とは目を合わせようともしなかった。


「もう、楓ちゃん? 月見君に対して失礼だよ」


「あなたには、関係ないでしょ」


 高橋理沙という美少女が彼女の態度を咎めたものの、楓は取り合う素振りすら見せなかった。むしろ、その言葉を鬱陶しがるように眉をひそめ、再び本のページをめくった。  

 

 周囲は、その様子を苦笑しながら見つめた。また、始まったよと言わんばかりに。


 俺は、この時、彼女に綻びのようなものを感じた。


 今、楠木楓と俺には、何かとてつもなく大きな壁で隔てられているように思えた。


 

♢♦♢



 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、昼休憩となった。


 俺は、弁当を用意していなかったので、購買に買いに行くことに決めた。


 クラスの人に昼ご飯を一緒に食べようと誘われたけれど、俺はあまり人と食べるのが苦手だから断った。


 一応、先生には校舎の大体の構造を教えてもらったが、やはり廊下は迷路のようで忽ち道に迷ってしまった。


 すると廊下で、二人の女子とすれ違った。

 

「楠木楓って、ほんと猫かぶりもいいとこよねぇ」


「そうそう、テレビでは良い子ぶってるけど、学校では得意げに近寄らないでオーラ出してくるのほんと腹立つわ」


「ほんと、お嬢様気取りでまじキモイ」


 そんな陰口とは思えない大きな声を漏らしながら、二人は俺の横を通り過ぎていった。

 

 一瞬、ぶん殴ってやろうと思った。

 

 楠木楓がどれだけの苦労してここまで這い上がってきたのか、彼女らは知らないのだろう。


 雨の中のビラ配り、がら空きの会場で歌い続ける根性、何度もオーディションに落ち、それでも諦めずに挑戦し続けた結果、ようやく掴み取った【STELLA! 】というアイドルとしての地位。

 

 俺は、知っている。


 どれだけの思いで彼女がここまで頑張って来たのか。


 だからこそ、そんな彼女を見て、俺は負けじと頑張って生きていこうと思えたのだ。


 でも、確かに今の彼女はちょっと冷たい気もする。


 幼少期の楠木楓は、なんていうか、もっと穏やかでいつも笑顔で優しかった。

 少なくとも、あんなしらけた返事をするような人ではなかった。

 

 なんというか、今の彼女は本当に別人のようだ。


「どうすれば仲良くなれるんだ……」


 彼女がどこで死ぬのかもわからないし、明確な時間帯も知らない。


 だから、せめて彼女が普段どこにいるのかは、知っておいた方が無難だろう。


 なら、なおさら彼女とある程度の関係になっておくことがやはり、一番手っ取り早い。



 次の日。


「楠木さん、おはよう!」


「は?」

 

 俺が楠木楓に話しかけていると、周囲の生徒たちは驚いたようにこちらを見つめていた。

 

 時間がないため、俺は考えるより先に、行動に出ることにしたのだ。


 憎悪の念を抱いたような鋭い眼差しで俺を睨みつけながら、楠木楓は口を開く。


「話しかけてこないで……」


 いや、俺、別に彼女が嫌がるようなことはしてないと思うんだけど……。


 だけど、彼女を救うためだ。むしろ、それすらも彼女がまだ懸命に生きようとする証なのだと、俺は思うようにした。



「教科書まだ届いてなくて、だから一緒に見せてくれない?」

「勝手に見れば……」



「一緒に、昼ご飯食べない?」

「用事あるから」



「この後暇なら、ご飯食べていかない?」

「嫌……」


 

 何度も、振られた気持ちになる。


 でも、俺は毎日毎日、積極的に話しかけるのをやめなかった。


 ネットの情報や友人の話が本当なら、三か月後の未来で彼女はいじめやゴシップに耐え切れず、自殺をする。

 そうだとしたら、一人でも彼女のことを思える味方がいた方がいいだろう。


 それに心のどこかで、いつかは楠木楓自身が俺に心を開いてくれるかもしれないと期待していた。



♢♦♢



 八月二十八日。


 タイムリープしてから約一週間が経過した。

 

 昼休憩の時間、いつものように、楠木楓に話しかけようとしたその時だった。


「おい、直哉。ちょっといいか?」


 突然、一ノ瀬斗真が俺に声を掛けてきたのだ。

 その目は、彼らしくなく妙に真剣で、冗談を言いに来たわけではないとすぐに分かった。


 俺は斗真に促されるままに、廊下へと出た。


 意を決したように口を開く。


「悪いことは言わない。もう、楠木楓に話しかけるのはやめろ」


「えっ……」

 

 俺は、間の抜けた声を漏らした。


 彼が、何を言っているかよくわからなかった。


「転校生のお前はまだ知らないと思うけど、楠木楓は……いじめられてるんだよ」


 斗真は、気まずそうに目を俺から遠ざけた。


「だから、あいつと関わるのはやめておけ。お前まで、いじめの標的にされるぞ」


 いじめ、俺はその言葉をこれまでに何度も聞いてきた。

 

 ネットの書き込み、友人のメッセージを反芻する。


『やっぱり、精神的に追い詰められちゃったのか』


『噂によると、楠木楓って相当ないじめにあってたらしいよ。しかも、ゴシップとかなんやらでさぁ、なんか大変だったらしいよ』


 断片的な情報が、今になって一つにつながっていく。


 あの噂はやはり、ただの憶測ではなかったということだ。


「止めようとは思わないんですか」


「いいか、この学校は普通じゃない。芸能科の人たちのほとんどが、完璧すぎる彼女を嫉んでいるんだ。下手にあいつを庇ってみろ。今度はお前が根も葉もない噂を流されて、悪者に仕立て上げられるかもしれないんだぞ。それどころか、マスコミに目をつけられることだってあるんだぞ」


「だから、お前のためでもあって、彼女のためでもあるんだ」


 相変わらず、斗真は真剣な表情を崩さなかった。


 俺は思う。

 つくづく、こいつらは馬鹿だな、と。 


「それは、彼女が死んでしまったとしても言えますか?」


「は? 何言ってんだ急に」


 楠木楓のためだなんて、よくもそんなことが言えたものだ。彼女がどんな思いで今を生きているのかも知らずに、勝手に距離を置くことが彼女のためになると、本気で信じているのだから。


「いいですか。俺は、別に彼女のことが好きで、仲良くなりたいから話しかけているわけじゃないです」


「もし、それが彼女のためになるとでも思っているのなら、それは大間違いです。現に、俺は彼女を救うためにここに来たのですから」


「だからさっきから何言ってるかわかんないって」


「たとえ、俺がいじめの標的になったとしても、彼女が生きていてくれるのなら、それだけで万々歳です。それが、俺の生きる意味だから……」


 俺の真剣な言葉に、斗真は一瞬たじろいだ。


「……お前、マジで言ってんのか?」


 先ほどまで呆れたような表情を浮かべていた斗真が、困惑した面持ちで俺を見つめる。


「冗談でこんなこと言いませんよ」


「いや、でも……。お前、楠木楓とは先週会ったばっかりだろ? それなのに、なんでそこまで肩入れできるんだよ」


 当然の疑問だろう。

 どうして俺がそこまで彼女を助けようとするのか、斗真には知る由もない。


 だけど、俺は知っている。


 笑顔で歌い続けていた彼女を。

 決して夢を諦めなかった彼女を。

 もう一度俺に生きようと思わせてくれた彼女を。


「ただ、一人の推しとして、救いたいだけです」



 次の授業を知らせるチャイムの音が鳴った。


 次の授業は、確か地理だったはずだ。


 斗真とはそれから何も話さずにただ、わだかまりを残したまま静かに教室へと向かった。


 

 授業の始まりを告げる号令が響き渡る。

 だけど、さっきまで隣の席で本を読んでいたはずの楠木楓の姿は、そこにはなかった。



♢♦♢



「あいつ、どこ行ったんだ……」


 俺は授業が始まってすぐに、「少し体調が悪いので、保健室に行ってきます」と地理担当の教師に告げ、返事を待たずに教室を飛び出した。

 廊下に出て、楠木楓の姿を必死に探した。

 まだ慣れない廊下を右往左往しながら、辺りを見渡す。


 __嫌な予感が、一瞬にして脳裏を駆け巡った。


 そんなはずはないと思いながらも、つい想像してしまう。


 本来なら彼女が死ぬまで、まだ時間の余裕がある。

 

 だけど、俺という未来から来た存在が過去に干渉したことで、既に何らかの影響が生じてしまっている可能性がある。

 その結果、本来よりも早く彼女の死へと収束してしまう可能性も否めない。


「早く、彼女を……」


 窓の外には、朝から絶え間なく濁った雨が降り続いていて、中はまるで水族館にいる時のような、生臭く湿った空気に包められている。


 ひたすら、階段を上った。

 

 どの階も授業中だったため、誰にも見つからないよう、足音を忍ばせて小走りで駆け上がる。


 階段を上りきると、目の前には屋上へと続く扉があった。


「開いている……」


 転入初日、確か大林先生は、事故防止のために屋上は、普段は施錠されていると言っていた。

 だけど、既に鍵は解錠されていた。 


 ごくりと息を呑む。

 

 楠木楓は、きっとここにいる。


 どうか無事でいてくれと願いながら、ゆっくりと扉を開けた。


 すると、スカートをずぶ濡れにした一人の少女が、雨の降りしきる屋上にぽつんと佇んでいた。

 

 その背中はひどく小さく見えた。


「月見くん……?」


 そして彼女の手には、雨に濡れた一冊の本があった。

 いや、違う。


 あれは本というか、台本だ。


 楠木楓は掠れた声で、どこか不思議そうに俺の名前を口にした。


「なんで、屋上なんかにいるんだよ?」


「あなたには関係ないでしょ」


「いや、関係ある」


 弱っている姿を人に見られたくないのか、彼女は俺から目を逸らし、濡れた台本を胸元に抱え込んだ。


 さすがはアイドルというべきか、こんな状況でさえ、彼女の姿は美しく絵になっていた。 


「あのさ、あなたって本当に何がしたいの? 一ノ瀬君からどうせ聞いたんでしょ、私がいじめられてるって。あなたは、そんなにアイドルの私に取り入りたいの? てか、ここに転入したのも有名人に会えるとか思ったからでしょ」


 その言葉は、いつもよりも重く、俺を突き放すような口調だった。


 取り乱している彼女に反して、俺は冷静に答える。


「君には笑ってほしいんだ」


「は? ほんと意味わかんない……」


「君には、救われたから」


 俺の真剣な表情を見て、楠木楓は困惑した表情を見せた。

 彼女は、忘れているのだろうか、あの日、たった一人の観客の俺のために歌を歌ってくれたことを。


「なら、それはあなたの思い込み。勘違いよ。それは、本当の私じゃない。あなたが都合のいいように思い描いただけのあなたの妄想よ。……本当の私は、こんな腐った人間よ」


「君は腐ってなんかないよ。悪いのはいじめてくる奴らだろ」


 俺はそう言いながら、彼女の手元の、雨に打たれ見る影もなくボロボロになった台本に視線を向けた。


「だから、死のうだなんて、思わないでくれよ」


「別に、死のうとなんか……」


 楠木楓は言いかけて、口を閉ざした。

 その声には、先ほどまでの勢いがなかった。

 

 図星だったのだろう。 


「あなたに、いったい私の何がわかるの? 一生懸命頑張ってるのに認めてもらえない、毎日知らない人に叩かれる、挙句の果てにクラスメイトから妬まれる、そのつらさはあなたにはわからないでしょ」


「そ、それは……」


 返す言葉が見つからなかった。


 彼女の言う通りだ。俺は、楠木楓がこれまでどれほどの苦しみを味わってきたのか、そのすべてを知っているわけじゃない。


 もしかしたら、彼女は入学した最初はこんな性格じゃなかったのかもしれない。

 

 むしろ、彼らと仲良くなろうと、自分から話しかけたのかもしれない。

 

 それでも、結局彼らに馴染めず、疎まれ、虐げられ……。


 その苦しさを、俺が簡単に理解できてはいけない気がする。


「言っておくけど、今更教室なんて行かないから。別に死ぬつもりもないし、安心して。だから、もう放っておいて、帰ってくれない?」

 

 屋上に降り注ぐ雨が、俺の肩を容赦なく濡らしていく。

 既に靴の中にまで雨水が染み込み、足元には不快な感触が広がっていた。


 あぁ、冷たい。


 そんな雨の冷たさに追い打ちをかけるように、彼女の冷たい言葉が俺の胸に突き刺さった。


「わかったよ。これ以上、俺も君に言うつもりはない」


「ならさっさと__」


 俺は、小さく頷いた。


「じゃあさ、海に行かない?」


「は?」


「えっ……」

 

 ……いやいや、俺は何を言っているんだ。


 自分でも、思いもよらない言葉が口から出てしまった。

 

 つい先ほどまで帰ってくれと言われていたのに、よりにもよって海に誘うなんて。まじで、俺は何を考えてるんだ……。

 

「いや、そ、それはその……」

 

 慌てて弁解しようとする。

 けれど、咄嗟のことだったせいで、弁解の言葉がまるで出てこない。


「……ふっ」


 小さな笑い声が聞こえた。

 

 いつの間にか雨は止んでいた。

 空を覆い尽くしていた雲がゆっくりとほどけ、その隙間から差し込む光が、濡れた屋上を淡く照らしていた。 

 

 その光の先に、あの日と何一つ変わらない笑顔を見せる彼女がいた。

 彼女を濡らした雨粒さえも、まるで彼女を引き立てるためにあるかのように、宝石のような輝きを放っているように、俺には見えた。


「ほんと、あなたって何なのよ、急に笑わせないでよ」 


「ご、ごめん。口走っちゃったというか……」


 楠木楓は、小さな肩をゆっくりと揺らした。

 

 彼女の警戒心がとけたのか、さっきまでの張り詰めていた表情が和らぎ、ようやく俺の目を見てくれるようになった。


「私に関わったら、あなたまで標的にされるかもしれないのよ」


「とっくに忘れてるかもしれないけど、小学生の頃、俺は楠木さんに救われたんだ。だから、楠木さんが生きてくれるのなら、俺は何でも受け入れるよ」


 彼女のためなら、死でも受け入れる。


 神様が、もう一度彼女を救う機会を与えてくれた時から、ずっと覚悟してきたことだ。


 俺は、真剣な表情で彼女を見た。


「ほんっと、ばっかみたい。あーあ……あなたのせいで、怒るのが馬鹿らしくなってきたじゃない……」


 眉にかかる整えられた前髪を、指先にくるくると巻きつけながら言った。


 彼女の頬は、どこか照れくさそうにほんのりと赤く染まっていた。


「……それで、海って?」


「え?」


「だから、さっき言ってたじゃない。海に行かないかって」


 楠木楓は前髪から指を離し、少しだけ首を傾げた。

 

 その仕草は、どこか子動物のように愛らしかった。

 流石は、国民的アイドルだ。

 何気ない仕草ひとつでさえ、見る者を惹きつけてしまう。

 

「行ってくれるんですか!?」


「ま、嫌だけど……」


「な、何なんですか」


 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


 やっぱり、彼女は昔から何一つ変わってはいなかったのかもしれない。


 変わったと思い込んでいただけで、彼女はただ、周囲からの重圧に耐えきれず、心の奥底に本来の自分を閉じ込めていただけなのだ。


これが、彼女の本来の素顔なのだ。


「じゃあ、あなたが全部奢ってくれるんだったら、行ってあげてもいいわ」


「いいんですか?」


「今更教室戻る気もないし、今日は仕事の予定も入ってないから。なんなら、ちょうどいいでしょ」


 彼女は、そっと空に向かって両腕を伸ばした。


 俺にとっては、二周目の今日。


 彼女が傍にいて、笑ってくれるだけで、こんなにも何気ない一日というものがかけがえのないように思える。

 それだけ、彼女には人を幸せにする魅力があるんだ。


 やはり、彼女を救いたい。


 彼女には、幸せになってほしい。


「交通費でもなんでも払うよ。だから行こう、海に」


 彼女と過ごせる日常は、いつまでも続くわけじゃない。


 だからこそ、今の俺にできることをしよう。



♢♦♢


 改札口をぬけた。

 かつて一人で駅を訪れたあの日と同じように、人の気配がほとんどなかった。

 

 遠くから聞こえる電車の走行音と、改札機の電子音だけが、この静寂の世界に鳴り響く。


 そんな中、隣には、あの人気アイドルの楠木楓がいる。

 

 不思議な感覚だった。


 やがて、線路の向こうから電車の姿が見えた。


 徐々に大きくなる走行音とともに、車体がホームへと滑り込んでくる。停車すると同時に扉が開き、俺たちは空いている車内へと足を踏み入れた。


 座席にはいくつもの空席が目立っていたけれど、俺たちは向かい合わせの座席に腰を下ろした。


 ほどなくして発車を告げるアナウンスが鳴り、電車はゆっくりと動き始めた。


「あぁ、こんなにがら空きだったらマスクする必要なかったじゃん。マスクって息がこもって嫌いなのよね……」

 

 額にうっすらと汗を浮かべた彼女は変装用のマスクを取り、鬱陶しがるように手で顔のあたりを仰いだ。


「で、今からどこの海に行くの?」


「え? まさか、知らないでここまでついてきたんですか」


「だって、海に行くって最初に言い出したのはそっちじゃん」


「まぁ、そうですけど……」


 楠木楓は呆れたように肩をすくめると、窓の外へと視線を移した。

 

 彼女は、車窓に広がる都会の景色をぼんやりと眺めていた。


「由比ヶ浜(ゆいがはま)です。ここから、一番近いですし、確か今は無料開放されているはずなので……」


「不思議ね。あそこでは、きっといつものように沢山の人が他愛もない話していて、誰も私のことなんか気にしていない。まるで、さっきまでとは別の世界に来たようだわ」


「は、はぁ……」


 いや、俺の話を聞いていたのかと聞き返そうとしたけれど、窓の外に目を向けたまま、静かに微笑んでいる彼女の姿を見て、口をつぐんだ。


 彼女にとって、誰にも気にされないという時間は何にも代えがたいものなのかもしれない。

 

「そろそろ、海が見えると思いますよ」


 そう言い終わる頃には、すでに電車は真っ暗なトンネルへと入っていった。


 長いトンネルを抜け、車窓に広がっていたのは、夕日に照らされてきらきらと輝く水平線まで続く青い海の景色だった。


 その景色は、本当に、今でも忘れらないくらい淡く綺麗なものだった。


「わぁ、海だ……」


 肩を小さく揺らす。

 

 それを見た彼女は、まるで小さい子供のように無邪気にはしゃいだ。


 その姿は、愛おしく思えた。


「由比ヶ浜って、こんなにすごく綺麗なんだ」


「俺も、ここまで綺麗だとは思わなかった」


 沈みかけた太陽が僕らを覗き込む。


「ていうか、スマホ学校に忘れてきちゃった」


 写真を撮ろうと鞄の中を探っていた彼女は、結局スマホが見当たらなかったのか、慌てふためいた様子で言った。


「えっ、今気づいたんですか?」


「だって、私それどころじゃなかったもん……」 


 そう、しょんぼりとする彼女。


 いや、俺にどうしろと?


 少し悩み考えた末、俺は鉛筆と一枚のルーズリーフを鞄の中から取り出した。


「あなたって、絵描けたの?」


「こう見えても、自分中学では美術部に入っていましたから。まぁ、幽霊部員でしたけど……」


 膝に教科書を置き、その上にルーズリーフを置いた。


 海に焦点を合わせ、ひたすら鉛筆を走らせる。

 炭素粒子が、紙の繊維に吸着する。


 描線が重なり、白かったはずの紙が段々と黒くなっていく。

 それでも、強い筆圧を緩めることなく描き続けた。


 彼女にとって、これは大きな思い出になるはずだ。だからこそ、少しでも綺麗に残しておきたかった。


 彼女がいつかこの絵を見返したとき、今日のことを思い出せるように。


「はい、これ」


「あ、ありがと……」

 

 彼女は差し出されたルーズリーフを両手で受け取ると、そこに描かれた海をじっと見つめた。


 穏やかな海と、水平線の向こうへ沈みかけた夕日。

 我ながら、悪くない出来栄えだ。


「その絵の裏にさ、一言でもいいから自分へのメッセージを書いてよ」


「えぇ、なんで?」


「死のうとした罰」 


「なにそれ……。そんな罰、聞いたことないんだけど」


 彼女は、険しい表情を浮かべて、言った。

 

 いや、そんなに嫌になるか? 

 ただ一言だけ書くだけなのに。


「まぁ、海に行った後でいいからさ」


「はいはい、わかりましたよ」

 

 そう面倒くそうに適当な返事をして、彼女は、その紙を鞄に入れた。

 

 その返事が本当に約束を守るつもりなのかは、いささか疑わしかったが、今はそれ以上追及しないことにした。


 やがて、電車がゆっくりと速度を落とし始めた。


 ようやく、着いた。



♢♦♢



「ほんと、広いわね……」


 駅から数十分ほど歩き、ようやく海岸へとたどり着いた。

 靴の中に砂が入らないように、気を付けて歩く。


 周りには、全く人がいなく、いるのは俺と楠木楓の二人だけだった。


 近くにあった、石段に腰を掛けて目の前の海を眺めた。

 

 潮の香りを含んだ風が、静かに頬を撫でていく。


「普通に学校行ってたらこんなものなかなか見れなかったわ」


「あぁ、その通りだ」


 俺は相槌を打ちながら、目の前に広がる海へと視線を戻した。


 夕日が水平線へと沈みかけ、海面には橙色の光がゆらゆらと揺れている。


 波が寄せては返すたびに、静かな波音が耳に届いた。


「なんだか、時間が止まってるみたい」


 彼女は膝を寄せ、スカートの裾をそっと押さえながら、海を見つめていた。


 そっと吹いたそよ風に長い髪が乱れるのをもう一方の手で抑えながら、楽し気に目を細めた。


「こういう時間も、たまには悪くないですね」


「うん。……こういうの、ずっと憧れてたのかも」


 彼女の言葉に、俺は少しだけ視線を向けた。


「憧れてた?」


「だって、私って普段は仕事ばっかりでしょ? 学校でも周りの目が気になるし。こうして誰にも邪魔されずに、ただ海を眺めるなんて、なかなかできないもの」


 そう言って、彼女は小さく笑った。


 その笑顔は、テレビの向こうで見る作られたようなものとは違って、飾られてなく、それでも俺はテレビで見る姿よりも美しく思えた。

 

「そうだ、あそこのカフェとか今からだと、ちょうどいいじゃない?」


「えっ」


 彼女が指さしたのは、海岸沿いに建つ、いかにもお洒落なカフェだった。


 勿論、俺は金持ちじゃないから、そんなところ行ったことも無い。

 

 それを「ちょうどいい」の一言で済ませてしまうあたり、いったいどれほど裕福なお嬢様なのだろうか。

 考えただけで、震えが止まらない。


「すまん、そんなお金ないです」


「は? どのくらいお金持ってきたの?」


「多分、交通費に充てたらちょうどかなと……」


「はぁ、ほんとあなたって使えないわね」


 そう言った彼女は、鞄を置き、石段から立ち上がると、スカートの裾を軽く押さえながら、海のほうへと歩き出した。

 靴の先を濡らす。

 

 それでも、躊躇うことなく波打ち際へと近づいていった。


「楠木さん?」


「ねぇ、ちょっとこっち来てよ」


 彼女は海のほうを向いたまま、こちらに向かって手招きをした。


「何です__って、冷たっ!」


 不意に、彼女が足元の海水を蹴り上げた

 飛び散った水しぶきが、俺の制服のワイシャツに容赦なく降りかかった。


「ふふっ、お金持ってきて来なかった罰よ」 


 彼女は悪戯っぽく笑いながら、何度も海水を俺にかけてきた。

 

 その笑顔は、夕日のように眩しかった。


「やりましたね」


「きゃっ! ちょっと、何するのよ!」


「お返しです」


 両手いっぱいに海水を掬(すく)い、彼女めがけて一気に放った。 


「もう、制服が濡れちゃうじゃない!」


 そう言いながらも、彼女の顔には笑みが浮かんでいた。


 波音に混じって、彼女の楽しそうな声が響く。


 それから、日が沈むまで、俺たちは時間を忘れて海辺ではしゃいでいた。 



「あぁ、着替え何も持ってきてないんですけど」


「それは、俺もです」


 ふと腕時計に目をやると、針はすでに八時を指していた。


 気づけば何時間もこの海辺で過ごしていたことに、今さらながら驚いた。


「でも、カフェ行けなかったのは残念ね」


「まだそのこと言ってるんですか」


 彼女は、どこか、虚ろな目をしていた。 

 

 俺は、それを見て不思議そうに答える。


「いつかまた行けばいいじゃないですか。今度はお金をちゃんと持ってきて」


「いつか……」


 彼女は、きょとんと何度かまばたきをして、顔をほころばせた。


 俺には、その時、彼女がなぜそんな顔をしたのか分からなかった。


「とりあえず、今日は帰りましょう」



 帰りの電車も、やはり車内にはほとんど人の姿がなかった。


「ねぇ、私何書くか思いついたわ」


 相変わらず、車窓のほうを向きながら彼女は言った。


「何を?」


「だから、メッセージよ。あなたが言ったんじゃない」


 そう言って、彼女は鞄の中から俺が渡したルーズリーフを取り出した。

 それからシャーペンを手に取り、紙の上に何かを書き始めた。


「何を書いたの?」


「秘密よ。まぁ、いつか教えてあげる」


「いつかって……」


「あ、あとさ。もしよかったらなんだけど、明日屋上で一緒に昼ごはん食べない?」


  いつになくかしこまった口調だった。


 まさか、彼女のほうから誘ってくるとは夢にも思わなかった。


「お、俺でよければ……」


 俺は、彼女の味方でいられたのだろうか。

 

 彼女に生きようって思わせてられたのだろうか。


 正直、分からない。

 でも、不思議と今の彼女ならこれから先も笑っていてくれるような気がした。


 この時は、まだ。


「いいの? やったっ」


 頬をほんのりと赤く染めて、嬉しそうに声を弾ませる。


 その様子に、俺も自然と頬を緩めた。



♢♦♢


 

 九月十八日。


 それからというもの、俺は基本毎日昼休憩になると、楠木楓のいる屋上へと行っている。

 たまに、授業をさぼって彼女と屋上で過ごすことさえあった。


「ねぇ、この猫可愛くない?」


「ん? ああ、確かに可愛いですね」


「でしょ! この丸っこい顔がたまらないのよ」


 他愛もない話を繰り返す。


 あの人気アイドルとって思うと時々不思議な気持ちになる。



 九月二十八日。


「あなたって、運動もできたのね」


 今日は、体育の時間にバスケットボールをした。

 

 普通科の男子たちは特に、芸能科女子たちにいいところを見せようと躍起になっていた。 

 

 先生の方針上、必ず全員コートに立たなければならなかったため、俺も参加さぜるをえなかった。


「それは、楠木さんもだろ」


「私は、アイドル活動で培った体力には自信があるもの」


 彼女は、得意げに話した。



 十月十二日。


 月日が流れて、未来で彼女が死ぬまで一か月を切った。


 この時、俺は初めて彼女の連絡先を教えてもらった。


「何かあったら、念のため……」


 相変わらず、彼女は素直じゃなかった。


 でも、それも彼女の良いところだ。


 授業に戻っても、俺らは一番後ろの席だから、ずっとメールでやり取りを繰り返した。


 そして、今度の日曜日。

 俺は、彼女と初めてのデートをすることになった。



♢♦♢


 

 十月十八日。

 

 彼女が、デート場所に選んだのは意外なものだった。

 もともと人があまり訪れない場所だとは聞いていたけれど、まさかそこを選ぶとは思わなかった。


「私、よくここに来るのよね」


 そこは、君と初めて出会った小さなライブハウスだった。


 相変わらず、外壁は錆び切っていた。

 

「よく覚えてないんだけど、なんか懐かしくて。だから、学校帰りによって掃除したりしてるの」


 そう言って、彼女は掃除用具入れを開けて、ほうきを取り出した。

 慌てて、俺もそこに入っていたモップを手に取った。


 あの時、ここを訪れた時、中が綺麗だったのは彼女が毎日のように掃除をしてくれていたからなのかもしれない。


 俺は、思い切って彼女に聞く。


「小さいころ、ここで楠木さんに会ったんです。本当に、覚えてないんですか?」


 彼女は、怪訝そうな顔でこちらを見る。


「覚えてないわね。そもそも、ここに来たことさえ、よく覚えてないもの。ということは、あなたもここを知っているのね」  


「そ、そうですか……」


 また、振られた気持ちになる。


 やはり、彼女はもう忘れているのだろうか。

 

 それほどまでに、あの頃の思い出は彼女にとって取るに足らないものだったのだろうか。

 そう考えると、胸の奥がジーンと痛んだ。


「ここで、私は歌を歌っていたの? 不思議な感覚ね。今の私なら、想像もつかないわ」


 彼女は、そっとステージに立った。


 ステージにおいてあったマイクを取り、歌を歌って見せた。



『ねぇ、今の私はちゃんとアイドルに見える?』


「どう、今の私はアイドルに見えてる?」


 声が自然と、あの時の彼女と重なる。


 あの日、俺はこう答えていたはずだ。


「うん、見えてるよ……」


「え? ち、ちょっと? あなたもしかして泣いてる?」


 彼女は、きょとんとした目でこちらを見た。


 あぁ、やっぱりあのとき振り返った少女は、紛れもなく君だったんだ。


「君は、やっぱり最高のアイドルだ……」


「き、急にどうしたの?」


 頬を赤く染めて、照れくさそうに笑った。


「ふん、私の推しになれるなんて、これ以上ない光栄なことよ」


 無理に気取って、茶化すように言った。


「これからも、楠木さんさえよければ、放課後に一緒にここへ来てもいいかな?」


「ま、まぁいいけど……」


 相変わらず、彼女の頬は赤かった。


「あなたって、本当に変わってるわね……」


 不思議そうに、こちらを覗いていた。


 その後、カフェや水族館には行かずに、俺たちは日が暮れるまでライブハウスにいた。


 時々、彼女はステージに立ち、あの時と同じように歌を歌った。


 俺は客席に腰を下ろし、その歌声に静かに耳を傾ける。


 楽しそうに歌う彼女の姿を見ていると、この先もずっと、こうして笑っていてくれるような気がした。


 この時は、まだ。



♢♦♢


 

 十月二十七日。

 

 それは、突然起こった。


「な、なんだこれ……」


 朝、ようやく慣れてきた廊下を歩き、教室に入る。

  

 いつにもまして、教室はクラスメイトの喧騒に包まれていた。


 そして、異変に気付いた。


 彼女の席に目を向けると、机の表面には目を疑うような言葉がいくつも書き殴られていた。


 死ねとか、きもいとか。


 楠木楓の姿はなかった。


「誰だろー、こんなことしたの」


 教室にいた、芸能科の女子たちがどこか面白がるように笑っていた。


 なんで、笑っていられるんだ。


「ははっ、いい気味ね」


「あ、これはこれは。かえでちゃんの彼氏君ではありませんか」


「は?」


 怒る、憤り、悲しむ、今の気持ちは単なる一過性の感情では言い表せない。

 __感情? 彼女らに対するものは、そんな生半可なものではない。


「どういうことだ?」


「え、知らないの? 楠木さん、最近ゴシップ記事に載ってたじゃん」


「そうそう。なんか、彼氏らしき人とデートしてるところを撮られたらしいよ」


 まるで、他人事のように笑っていた。


 彼女らに見せられた写真は、間違いなくあの日デートに行った時のものだった。


 俺のせいで__。


「てか、あのビッチとは関わらない方がいいよ。どうせ、人気アイドルになったのにも何か裏があるんじゃない」


「わかる。あんなに清純ぶってるけど、実際はどうだかね」


 好き勝手に言葉を並べて、彼女らはずっと笑っていた。


 その様子をクラスの人たちは黙って見つめていた。

 一ノ瀬斗真も、高橋理沙も。

 だから言ったろと言わんばかりに、こちらを見るだけだった。

 

 なんだよ、それ。


「彼女は、絶対にそんなことしない。努力の結果だ。それに、彼女とは付き合ってもいない。くだらない嫉妬で彼女を傷つけるなよ」


「は? こいつ何言ってんの?」


 彼女らは、鋭い目つきでこちらを見た。

 それに、答えるように俺もそれ以上に鋭い目で彼女らのほうを睨んだ。


 おそらく、一ノ瀬斗真が言っていたいじめの主犯格はこいつらなのだろう。

 どうせ、こんなしょうもない落書きをしたのもこいつらだ。


「転校生の分際で何しゃあしゃあと言ってんの? むかつくんですけど」


「そんなに、楠木楓のことが好きなの?」


 もう、駄目だ。

 こいつらは、ゴミ以下の人間だ。

 

 何度も話しても、自分たちの正当性を疑わない彼女たちに、何を言っても無駄なのかもしれない。


 こいつらのせいで、楠木楓は死ぬことを選んだんだ。


 俺は、気づけば激情に駆られて、拳を振り上げていた。


 その後、騒ぎに駆け付けた先生たちが俺を止めに入った。

 

 そのまま校長室へと連れて行かれ、事情を聞かれた末、俺は二週間の自宅謹慎処分が言い渡された。


 俺は、先生に楠木楓のいじめについて話した。

 だけど、まるで、最初からそんな問題など存在しなかったかのように、学校側は何の対応も示さなかった。



♢♦♢


 

 十一月十日。

 丁度、あれから二週間が過ぎた。


 楠木楓が、死ぬはずの日。


 家にいる間、俺は何度も彼女に向けてメールを打った。

 

 たった一つの既読。

 それだけが、今の俺にとって彼女の無事を確かめる唯一の手段だった。


 けれど、返事はない。


 どれだけ言葉を送っても、彼女からの反応はなかった。



「頼むから、無事でいてくれ……」


 二週間ぶりの制服に腕を通し、急いで学校に向かった。

 

 その日は、雨だった。


 歩くたびに、靴の中で靴下がじっとりと濡れた感触が伝わってくる。

 それでも、足元の水たまりなど気にも留めず、俺はただひたすらに走った。


 教室についた。

 

 当然、彼女の姿はいなかった。


 廊下を、階段を全力で駆け上がる。

 その都度、先生に注意されたけれど、俺は無視して走り続けた。

 

 あの日のように、濁った雨のせいで中は水族館のようで、あの生臭さと湿り気包まれている。


 __目の前には屋上へと続く扉があった。


 扉は、あの時のように開いていた。


「待って、楠木さん!」


 扉を開くと、手すりにまたがるびしょびしょに濡れた楠木楓の姿があった。


「あなたには、関係ないでしょ」


 慎重に歩み寄ると、返ってきたのは、転入してきた当初のような、どこかそっけない返事だった。


「関係ある」


「あなたは、何でいつもそうなの。私のせいで、あなたまで……こんな目に遭っているのに」


 彼女の目から、一粒の涙がこぼれた。

 また一粒、一粒と雨粒と一緒に彼女の頬を濡らした。


「本当は、もっと早く死ぬつもりだった。海に行くのもこれが最後だと思ってた。だけど、あなたが『また次来たらいい』って、何気なく言うせいで、死ぬのが怖くなった……」


「あなたのせいよ……」


「なら、生きてよ」


 俺は、精いっぱいの声量で言った。


「あなたに、何がわかるのよ。アイドルとして人を喜ばせる、それが私の夢であり、生きる意味だった。でも、それがこのざまよ。もう私に、生きる資格なんてない……」


 そう言って、彼女は俺から顔を背けた。


「楠木さん!」


 その声に、彼女の肩がわずかに震える。


 その瞬間、彼女の姿が視界から消えかけた。


「なんで、死なせてくれないのよ……」


 間一髪で、俺は彼女の手を握った。


「わかるよ。両親をなくした俺は、生きる意味を見失って死のうとさえ思った。でも、あの時、あのライブハウスに迷い込んだら、君がいた。俺は、君に救われた。だから、今も生きている。俺にとっての生きる意味は、君を幸せにすることだ。もう、二度も君を失いたくない……」


「あなた、さっきから何を言って……」


 雨のせいで、手が何度も滑って、はなしてしまいそうになる。


 それでも、俺は手を離さなかった。


「て、はなしてよ。このままじゃ、あなたも落ちるわよ。もう、私には生きる意味が__」


「なら、君の生きる意味を俺にくれ」


「えっ、何を言って__」


「俺を笑顔にさせてくれ。誰かを笑顔にするアイドルを目指しているのなら、まずは俺一人でもいいから、笑顔にさせてくれよ。それが君の生きる意味なんじゃないか……」


「……っ」


 その言葉に、彼女の瞳がわずかに揺れた。


 だけど、その瞬間俺らは、屋上から落ちた。


 その時間は嘘のように長く、どこか心地よかった。


 俺は、落ちていく中、彼女をぎゅっと抱きしめた。

 

「あなたって、ほんとにバカすぎるのよ……」


 落ちていく中、涙を流しながら、彼女が言う。


「これは、罰だよ。死のうとした……」


 あぁ、冷たい。


 雨は、容赦なく俺らを濡らした。


 でも、嬉しかった。


 腕の中にいる彼女の温もりだけは、確かに伝わっていたから。



♢♦♢



 目が覚めると、私は布団に横たわっていた。


 親に『いい加減、起きなさい』と言われて、起き上がる。


 ……あれ?


 妙に若々しい声だったような……。


 目にかかった前髪を指先で払い、ぼんやりと辺りを見回した。


 そこは、古びたアパートの一室だった。

 壁紙はところどころ剥がれ、年季の入った家具が並んでいる。


 どこか、懐かしいなと思うのは当然のことだった。


 ここは、かつて、小学生の頃の私が暮らしていた場所なのだから。


 お母さんに急かされるがままに、苺ジャムが塗られた食パンを口に運ぶ。


 ついさっきまで、私は雨の中にいたはずだ。

 冷たい雨に打たれながら、あの人の腕の中で――。


 そうだ。

 私は、死のうとしていた。


 あのときのことを思い出すと、胸の奥がまたジーンと痛くなる。


 どうして、私はここにいるのだろう。


 見覚えのある部屋。

 若々しい母の声。

 そして、幼い頃の自分に戻ったかのような身体。


 まさか……。


 つまり、私は過去に戻ってしまったということなのだろうか。


 確かめるように、自分の手を見つめた。


 小さくなった手。

 昔の自分に戻っているのだと、嫌でも理解させられる。


 そのとき、ふと机の上に置かれた一枚の紙が目に留まった。


「……これって」


 手に取ってみると、それはライブハウスの貸切ステージ利用者募集というチラシだった。


 今なら、もしかしたら、ここで……。


 私は、迷うことなくお母さんに声を掛けた。



♢♦♢


 

 そこに行くと、あの錆び切っていたライブハウスだとは思えないほど、外壁は綺麗で真新しい看板がその横に取り付けられていた。


 車でここまで連れてきてくれたお母さんに感謝して、私はライブハウスの中へと入った。


 中は、あの時とさほど変わってはいなかった。

 

 あの時と同じように、客の姿はひとりもなく、静寂だけが広い空間を満たしている。


 ある一人の少年を必死に探す。


 彼、月見君の言っていることが本当なら、もしかしたらここに今日、迷い込んでくるかもしれない。


 誰もいない空間で、私は歌を歌い続けた。

 

 朝だったのに、気づけば日が沈みかけていた。


「やっぱり、来ないよね……」


 諦めたその時、ドアのほうからチリンと、鈴の音が鳴った。

 

 一人の少年が入ってきた。


 泣いていたのか、目元は赤く腫れ、頬には乾ききらない涙の跡が残っていた。俯いたまま、『失礼します』と憔悴とした様子で私に挨拶した。


 私は、その少年が月見直哉君だとすぐに分かった。


 __ねえ、そんなに泣かないで。お願いだから、そんな悲しそうな顔をしないでよ……。


 私は、歌を歌った。


 過去の自分なら、もっと大きな声で、力強く歌えていたはずだ。

 けれど、今の私の声は幼く、どこか頼りない。


 それでも、精いっぱいの想いを込めて歌い続けた。 

  

 多分、月見君だって同じことをしたはずだ。


 そんな私の歌声を聞いて、彼は不思議そうにこちらを見つめた。


「きみのなまえは?」


「くすのきかえでって言います」


 そして、彼は聞く。


「くすのきさんは、どうしてぼくしかいないのにそんなにがんばって歌えれるの?」


 彼は、私を不思議そうに見つめたまま、そう言った。

 

 私は、その答えをもう知っている。

 

 あなたが、私を救ってくれたように、私があなたの生きる意味だったように。


 彼ならきっとこういう。

 

 死のうとした罰だって。


 だから、私は言う。


「それがね、私の生きる意味だから」


 今度は、私があなたを救う。



♢♦♢



「楠木楓が活動中止を発表したからって、死ぬんじゃねえぞ」


 ブラインドの隙間から差し込む光に目を細めながら【1112】と楠木楓の誕生日をスマホに打ち込むと開口一番、ご愁傷さまですと言わんばかりに恭しくお辞儀をする何ともゆるいタッチのクマのスタンプと共に友人からメッセージが届いていた。


 『分かってるよ』と返信を打つ。


 昨夜は、本当に衝撃的だった。

 

 長い夢から覚めると、開口一番楠木楓の活動休止という突然の知らせがテレビの朝のニュース番組から流れてきたのだ。


 その時は、もう号泣した。


 ネットだって大騒ぎだ。


「楠木楓が活動休止!?」


 とか、


「楠木楓、引退の予兆か!?」


 とか。


 そんな話題に持ちきりで、とにかく人の呼気で溢れ返っていた。


「てか直哉なおや、学校は来いよな」


 ネットの書き込みを掻き消すように、友人から今度は、頬を赤く膨らませたクマスタンプが送られてきた。


 これが、現役バスケ部エースの愛用スタンプとは俄かに信じがたい。


「涼真、四葉が不登校になったらお前は耐えきれるか? それと同じで俺にとっての最愛の人は楠木楓なんだ。学校なんて行けたもんじゃない」


「そういうもんか? まぁ、明日は金曜日だしちゃんと来いよ」


 友人からのメッセージはそれっきりで、ぷつりと途絶えた。


「明日か……」



♢♦♢



 翌日、俺は友人との約束を反故し、訳もなく十分くらいの道のりを歩いて松本駅へと向かった。

 

 あえて理由を挙げるなら、ただ、遠くへ行きたいと思ったからだ。


 目的地は、横浜。


 調べてみると、特急あずさで新宿まで向かい、そこから別の電車に乗り換えるのが、最も安く済むらしい。

 

 駅構内には、平日の午前らしい静けさが漂っていた。改札を行き交う人影はまばらで、遠くから電車の走行音とアナウンスが反響した。


 その普段とは見慣れない景色は、まるで別の世界に足を踏み入れてしまったかのような気にさせた。



 何度か乗り換えを間違えたせいで、思っていた以上に時間がかかってしまい、結局横浜についたのはもう日が沈みかけてた頃だった。


「はぁ、何してんだか」


 ここ、横浜に来たのはこれが初めてではない。

 

 もともと、両親が死ぬまでは横浜に住んでいた。

 

 だけど、八年の時が過ぎたからか、見慣れない建物ばかりだった。


 __まだ、あの建物は残っているのだろうか。


 数時間かけて、俺はあの日、彼女と最初に出会った小さなライブハウスへと向かった。


 しかし、十年以上経っていたせいか、もうあの頃の面影はなく建物は完全に錆びきっていた。


 ここを管理する人がいないのか、ドアは半開きになっていたため、ちょっとだけ中の雰囲気を見てみようと足を踏み入れた。


 不法侵入とかになったりするのか少し不安になったけれど、する後悔よりしない後悔ともいうし。


「こんなところに、何十人もいたのか……」


 中は、思っていた以上にあの頃のままであって、思いのほか綺麗だった。


 流石に、電気までは通っていなかったのか照明はつかなかったけれど。


「こんなに、小さかったんだ……」


 ステージと客席の隔たりは、ほとんどない。


 多分、広さでいったら、自分が通っている高校の教室と結構いい勝負をするかもしれない。


 そんな彼女が、まさか日本武道館でのライブを控えていたなんて……。


 改めて、彼女はとびっきり大きな花を咲かせたんだなとまるで彼女の親にでもなったかのような心持ちで感慨に耽った。

 

 そんな気持ちに浸りながら、俺はそっとステージの前に立った。


 不思議なことに、記憶の片隅に埋もれて、とうに忘れ去ったはずのあの頃の彼女の曲が、頭の中で鳴り響いた。


 無理をして、懸命に大きな声を出そうとする彼女の、懐かしいメロディーだ。


『楠木さんは、どうして僕しかいないのにそんなに頑張って歌えれるの?』


 そんな無理をする彼女に、いつかの俺はそんなことを聞いていた。


『それがね、私の生きる意味だから』


 彼女は、確かそう答えてた気がする。


 生きる意味、それは彼女が夢見たアイドルとして人を喜ばせたいということなのだろうか。彼女の真意はわからないけど、多分そういう意味なのだろう。


「ん? なんだこれ……」


 ふと、視線を落とした先に、見慣れないものがあった。


 ステージの裏手に置かれた一枚の紙。よく見ると、そこには鉛筆で丁寧に描かれた穏やかな海が広がっていた。


 その絵は、どこか懐かしく、以前にも同じ景色を目にしたことがあるような気がした。

 

 それに筆圧が強く、まるで俺自身が描いたかのような筆致だった。


 かつて、俺はこの絵を前にして、何か強い気持ちで、何かを守ると決意した気がする。


 何か……。


 わからない、思い出せない。


「誰かが、置き忘れたのか……」


 気味悪く、元の場所に戻そうとしたその時だった。


 窓の隙間から吹き込んだ風に、手元の紙がひらりと舞った。


 絵の裏に、文字が書かれていた。


 それは、十文字にも満たないたった一言だった。


『十一月十三日、あの場所で』


 そして、その言葉を見た直後だった。

 

 まるで、失われた何かを呼び戻すかのように、

 

 ドアの鈴が、あの日と変わらぬ音色で鳴り響いた。


 

 

これから、連載版や長編版も出そうかなと思っています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。