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7話 薄明かりと影

 クリスはレモン水を口に含むと、そっとマーヤの唇に自分の唇を重ねた。

 

「っ……ん、んく」


 抵抗らしい抵抗もせず、マーヤはそれを飲み込む。

 レモン水が喉を通り抜けると、体がそれを求めていたのがわかる。

 もっと、とマーヤはせがんだ。


「ゆっくり、少しずつだよ」


 クリスは口移しで、何度もレモン水を与える。

 ピッチャーをほぼ空にしたあたりで、ようやくマーヤの酔いがさめてきた。

 同時に、今の今までクリスとしていた行為の、名前を思い出す。


(口と口がくっついて……これって、キスだよね!?)


 職業訓練校に通っていた頃、マーヤより年下のサンドラが、何人もの男の子たちと、キスをしたと自慢していた。

 いよいよマーヤも、大人の階段を昇ってしまったのだ。

 それも恋心を抱き始めたばかりの、クリスと――。


(シスター! やった、やったよ! あたしも、普通の女の子みたいにできた!)


 感動で全身が打ち震える。


「クリスさん……ありがとうございます!」

「こうなった原因は、私にある。お酒だと告げずに、ゴブレットを渡してしまったのだから」

 

 後悔をにじませるクリスの表情に、なぜかあの銀髪の少年の顔が重なる。

 マーヤは目をごしごしと擦った。

 その様子をクリスが誤解する。


「まだ眠たい?」

「い、いいえ……」

「無理はしないでね。家の場所を教えてくれたら、寝ている間に送るから」


 クリスはそう言うなり、マーヤを膝の上に乗せ、背中をとんとんと叩きだす。

 まるで恋人みたいなしぐさに、嬉しさが爆発しそうだが、このままでは寝かしつけられ、マーヤは帰らされてしまう。


(もっとクリスさんと、一緒にいたい!)


 せっかくの甘い時間だ。

 なんとか長引かせられないか。

 フードを脱いでいたクリスの、シャツを握りしめる。

 そしてマーヤは、必死に頼み込んだ。


「クリスさんのこと、教えてくれませんか?」

「私のこと?」

「たとえば……どうしてそんなに、目の下にクマがあるのか……とか?」


 突発的に、いい質問なんて浮かばない。

 こういうときに、機転が利かないのがマーヤだ。

 尋ねられたクリスも、予想外だったのか目を丸くしていた。


(そこも気になるけど、もっと何かあったでしょ!?)


 マーヤは情けなくて、頭をぽかぽか叩く。

 だけどその頭上から、ふっ、とクリスが噴き出す声がした。


「一番聞きたいのは、それなの?」


 肩を震わせて笑っている。

 案外、悪い質問でもなかったのか、とマーヤはおそるおそる顔をあげた。

 そのマーヤの額に、クリスがこつんと額を合わせる。

 近くで青い瞳がまたたいた。


「不眠症なんだ。……ずっと前からね」

 

 クリスの声は、諦めに満ちている。


「薬はもちろん、民間療法も試してみたけど、効果がなかった」


 うとうとするだけで、寝た気がしない。

 医者には、仕事を休めと言われた。

 24時間、何かしらを考えているから、脳がオーバーヒートを起こしている。

 せめて一か月、冷却期間を設ければ、眠れるようになるかもしれない。

 だが、クリスの仕事を肩代わりできる者がいなかった。

 

「ずっと私が、担ってきた仕事なんだ。今さら放り出すなんて、無責任なまねはできない」


 クリスの苦悩は、家族にも理解されなかった。

 体を壊してまで無理をするな、と呆れられた。

 仕事に穴を開けたくない心情と、いつか倒れるかもしれない不安。

 その葛藤すらもストレスとなって、クリスを蝕んでいた。


「大事な仕事を、任されているんですね」

 

 しかし、マーヤは深く共感した。

 マーヤもささやき様の唯一の声担当だ。

 世代交代を言い渡されるまで、職務を全うすると決意している。


(でも、ちょっと待って……。あたしには、反対の悩みがあったよね?)


 どうしたら寝ないでくれるのか。

 礼拝のたびに、ぐっすり眠る信者を前に、日々がっかりしていた。


(クリスさんも、ささやき様の礼拝にきたら、寝ちゃうんじゃない?)


 それは嬉しいような、悲しいような、複雑な境地ではある。

 でも、クリスの健康が、なにより大切だ。


「あの……信じられないかもしれないんですが」


 マーヤは自分が教会の関係者であることを伏せて、ささやき様の礼拝中における、信者の熟睡率の高さについて熱弁した。


「駄目で元々、クリスさんも試してみるのは、どうでしょうか?」

「今の教会って、そんな面白いことを……いや、革新的な試みをしているんだね」


 囁くささやき様に、興味をもってもらえた。

 恥をかき捨てて、よかった。


(あたしが、クリスさんの助けになれるかも!)


 マーヤの黒目が喜びにキラキラと輝く。

 クリスが愛おしそうに、マーヤの茶色の髪を撫でた。


「すっかり目が覚めたみたいだね」

「はい!」


 クリスに寝かしつけられ、帰らされるのは回避した。

 だからといって先ほどみたいに、クリスを質問攻めにするわけにもいかない。


(ここは正直に、言うしかないよね!)

 

 マーヤは勇気をふりしぼり、一歩踏み出した。

 

「もっとクリスさんと、一緒にいたいです」

「っ……!」


 クリスの頬が、一気に赤くなる。

 これはいい反応だと思う。

 さらにマーヤは、畳み掛けた。


「クリスさん、あたしと一夜を、過ごしてもらえませんか?」

「い、一夜!?」


 奥手なマーヤの限られた情報源は、あのサンドラだ。

 祭りのパートナーとの最終形態は、一夜をともに過ごすことらしい。


(そこで互いが納得したら、お付き合いが始まるって聞いた)


 恋に奔放なサンドラのやり方は、決して一般的ではないのだが、マーヤはそれを知らない。


「お願いします!」


 頭を下げるマーヤに、クリスはうろたえる。


「順番が、おかしいんじゃ……? いや、私が知らないだけなのか? これが最近の、傾向……?」


 クリスもマーヤ同様、恋愛事には疎いようだ。

 なんだかこのまま、押し通せそうな雰囲気を感じる。

 マーヤはもっと、具体的に聞いてみた。


「あたしが相手では、嫌ですか?」

「とんでもない! 嬉しいよ!」

「だったら、夜が明けるまで……」


 こうしていましょ、とマーヤはクリスの首にすがりつく。

 自分より大きな体は、温かく、安心感があった。

 すり、とマーヤの頬が、クリスの鎖骨をこすった瞬間、クリスの体が、びくりと跳ねた。


(いっぱいレモン水を飲んだから、酔いはさめたと思ったけど……まだ頭の奥がじんわりと熱い)


 その熱が、マーヤをより大胆にさせる。

 素面だったら、こんなことは思いつきもしないだろう。

 

「クリスさん、あたし、クリスさんのこと……」


 マーヤが潤んだ黒目でクリスを見上げる。

 それにともなって、クリスは己の判断能力が、著しく低下したのを察して焦る。


(駄目だ、酔ったマーヤさんに、流されてはいけない!)

 

 クリスは必死に頭を振って、マーヤを説得しようと試みる。


「マーヤさん、落ち着いて。こういうことは、もっと段階を踏んでから――」


 否定の言葉が紡ぎ出される前に、マーヤはクリスの口を強引に塞いだ。


「っ……!?」

 

 続けて柔らかい唇で、クリスの唇をはむはむと貪る。

 マーヤのつたない誘惑は、風前の灯だったクリスの理性を、吹き消してしまった。


「この責任はとるよ」


 クリスはマーヤをベッドへ横たえると、体重がかからないように覆いかぶさった。


「嬉しい、クリスさん」

 

 薄明かりがクリスの体で遮られ、マーヤは影の中に入る。

 クリスに護られているような安堵を感じ、マーヤは目を閉じた。

 その両瞼にかわるがわる、クリスが優しくキスを落とす。

 

(まさか、あの日の君に、再会できるとは思っていなかった。君は私を、もう覚えていないかも、しれないけれど――)


 職業訓練校で会ったマーヤと、クリスは約束をした。


『こんな不幸は、二度と繰り返さないよ』


 それを実現するために、今日まで努力してきた。

 目の下のクマも、こけた頬も、気にならなかった。

 

(すべては君を、幸せにしたくて、やったことだから)


 クリスは幼少期から聡い子だった。

 体を鍛えるのが好きな王太子と違って、早くから執政に興味を持ち、宰相や大臣たちを喜ばせたものだ。

 だが所詮は、すべてを持つ王族の、机上論に過ぎなかった。


(君に会って、私は初めて実感した。自分たちの決定した政策の結果が、民の人生を左右するのだと)


 やり直しがきく、盤上のゲームではない。

 ごめんなさいと謝っても、失われた命は返ってこない。

 マーヤが孤児になったのは、クリスのせいだった。


「幸せにするよ、必ず」


 クリスは両腕の中のマーヤを、しっかりと抱き締めた。

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