6話 左手と右手
クリスの言葉を、マーヤは理解しかねた。
「???」
90度くらい首をかしげているマーヤの前で、フードを取ったクリスが跪く。
そして恭しい所作で、マーヤへと左手を伸ばした。
「どうか私に、今夜マーヤさんをエスコートする、栄誉をあたえてください」
「っ……!?」
「了承してもらえるなら、右手を――」
そこに重ねろと言うのか。
マーヤは差し出された、大きな左手を注視する。
サンドラは、くたびれた風貌のクリスを、下級役人だと断じた。
(でも、違うんじゃない?)
スマートな動きに、育ちのよさが感じられる。
そんなクリスと、孤児のマーヤが、ダンスを踊ってもいいものか。
『普通の女の子らしく、遊んでらっしゃい』
ためらうマーヤの脳裏に、バーバラの声が再生される。
(そうよ! 今日だけは! 祭りを楽しむと、決めたじゃない!)
出会った男性が、クリスでよかった。
目の下に真っ黒なクマがあろうと、頬がこけて顔色が悪かろうと。
クリスはマーヤに対して、最初から丁重に接してくれた。
(それに……今もあたしを、お姫様みたいに扱ってくれる)
嬉しかった。
「クリスさん、どうか立ってください」
マーヤはクリスの左手を取る。
その瞬間、クリスの頬に朱がさした。
「っ……! マーヤさん、ありがとう」
クリスは立ち上がる前に、マーヤの手の甲にキスをする。
唇が触れない程度の、礼儀正しいものだったが、マーヤはクリスの吐息を感じてしまい、口から心臓が飛び出しそうになった。
(な、なにこれ!? 年頃の男女って、こういうことしてるの!?)
興味はあれど、同年代の友達がいないマーヤは、かなりの奥手だ。
「マーヤさんが気になる屋台はある?」
歩き出したクリスは、さり気なくマーヤの手を、自らの腕に絡ませた。
リードするクリスには余裕がうかがえるが、一方のマーヤにはない。
ドッドッドッとうるさい脈動に、全身の体温が急上昇していく。
(シスター! あたしには、まだ早かったかも!)
◇◆◇◆
「マーヤさん、熱いから気をつけて」
大広場のベンチに座って待っているマーヤに、クリスが湯気を上げる木の椀を手渡す。
「わあ、いい香り!」
透き通ったスープの中には、骨付きの鶏肉と根菜、そこにハーブと輪切りのレモンが乗っている。
それは王妃によって、新たに公開されたレシピのひとつ、レモン鍋だった。
「鶏肉をヨーグルトに漬け込んであるから、柔らかくて骨離れがいいんだよ」
「クリスさん、詳しいですね」
「一時期、母がレモン鍋ばかり、作っていたからね」
説明しながら、クリスはフォークとスプーンをうまく使い、マーヤのために肉をひと口大に取り分ける。
先程からクリスはこの調子で、マーヤのためにせっせと世話を焼いていた。
(恥ずかしいけど……嫌じゃない)
じわじわと胸の奥が熱くなる。
これは、温かいレモン鍋のせいではない。
(こんなことしてくれるのは、お母さんくらいだと思ってた)
マーヤを大切にしてくれる。
そんなクリスに、次第に心が引き寄せられていった。
◇◆◇◆
陽が傾きだすと、大広場に男女が集い始める。
老いも若きも、それぞれパートナーと手をつなぎ、軽快な音楽に身を任せていた。
見ていると、特に決まった振り付けはなく、思い思いに動いているようだ。
これならマーヤにも、踊れそうだ。
(あたしが誰かのパートナーになるなんて、想像もしてなかった)
マーヤがちらりとクリスをうかがうと、いつからマーヤを見ていたのか、クリスの青い瞳と視線がぶつかる。
(きれいな青……店長さんがおすすめしてくれた、祭り期間限定のキャンディみたい)
吸い寄せられるように、マーヤの体がクリスへと傾く。
それを合図に、クリスはマーヤの背に腕を回した。
細身に思えたが、その腕にはしっかりと、男性らしい筋肉がある。
マーヤを支える腕とは別の手で、クリスがマーヤをダンスへと誘う。
「私たちも、そろそろ踊ろう」
「は、はい!」
これは夢じゃない。
中央で燃え盛る焚火が、マーヤとクリスを照らす。
握られた手にかく汗も、もつれそうになる脚も、まぎれもない現実だ。
クリスのリードがあるおかげで、かろうじてマーヤは転ばずにいる。
どたばたと音がしそうな足さばきは、どんくさタヌキと言われても否定できない。
そんなマーヤの正面で――。
「楽しいね」
クリスが微笑む。
(あたしが下手なのを、笑ったんじゃない。クリスさんは、本心からそう思ってるんだ)
そうでなければ、こんなに美しい表情のわけがない。
目の下のクマやこけた頬が、気にならないほど魅了される。
(もしかして、あたしはクリスさんのことが……好き?)
自覚してしまうと、恥ずかしい。
真っ赤になっているだろう顔を隠すため、マーヤは勢いよくうつむいた。
「マーヤさん、疲れちゃった?」
気遣うクリスが、マーヤをダンスの輪から連れ出し、元居たベンチへと座らせる。
うまい言い訳もできないマーヤが、あわあわしている間に、クリスは飲み物を買いに行ってしまった。
(あたしって、どうしてこうなの! もっとクリスさんと、踊っていたかったのに……)
マーヤは名残惜し気に、先ほどまでクリスと繋がれていた手を見る。
(クリスさんの手、ペンだこがあって、ちょっとごつごつしてた)
思い出すだけで、胸がドキドキする。
このままでは、のぼせてしまいそうだった。
「お待たせ。暑そうだったから、冷たいのを選んだけど――」
「いただきます!」
クリスの言葉を途中で遮り、マーヤは氷の浮かんだゴブレットに口をつける。
そして勢いにまかせて、ぐびぐび飲み干した。
なぜかクリスが、びっくりした顔をしている。
「っぷは!」
冷たい飲み物のおかげで、熱がおさまるはずなのに、なぜか逆に体の芯がぽかぽかする。
「ありぇ?」
「……マーヤさん、お酒は強いほう?」
「おしゃけ?」
「夜の屋台では、飲み物はすべてお酒になるんだ」
知らなかった。
なにしろ祭りは、子どものとき以来だ。
「だかりゃ、おかあしゃんは、もうねるじかんだよ、っていったんだ」
祭りが楽しくて、帰りたくないと、だだをこねる幼いマーヤを、母は小さな背におぶってくれた。
なぜなら夜になれば、大人たちの時間が始まるから。
「おかあしゃん……」
唐突に思い出してしまった母の面影が、マーヤの黒目に涙をためる。
それが零れ落ちる前に、クリスがハンカチを差し出した。
「マーヤさん、レストランに入ろう。注文すれば、お酒じゃない飲み物も出してくれる」
マーヤがお酒に強くないことも、知らずに飲んでしまったことも、明白だった。
ぐすぐすと洟をすするマーヤを、クリスが優しく誘導する。
祭りの日という最も忙しい時期に、普通ならば予約もなしに、入店できるはずがない。
だが、酔っているマーヤには、それがわからなかった。
◇◆◇◆
ふわふわと、雲の上を歩くような感覚で連れてこられたのは、レストランの最上階にある個室だった。
クリスがマーヤのために、レモン水を頼んでいる声が聞こえる。
ゆらゆらする体を横たえたくて、マーヤはカーペットの毛足の長さを確かめると、そこへ躊躇せず寝ころんだ。
(教会の床よりも、寝心地がいい)
今にも夢の世界へ旅立とうとするマーヤに、クリスが駆け寄る。
全身の力が抜けていて、重たいだろうマーヤを、クリスは難なく抱き上げた。
「こんなところで寝ては駄目だ。風邪を引いてしまう」
また風邪を引く心配をされた。
マーヤはおかしくて、くすくす笑う。
小刻みに揺れるマーヤをしっかり抱き直すと、クリスは部屋の奥を目指した。
「こっちに、仮眠用のベッドがあるから」
ヘッドボードにクッションをあて、そこにマーヤを寄りかからせる。
薄暗い灯りが、部屋の調度品を静かに照らしている。
「まだ寝ては駄目だよ。たくさん水分を取らないと、明日の朝、大変な目に合うからね」
クリスは元の個室へ取って返すと、店員が運び込んだレモン水を持ってくる。
マーヤの隣に腰かけ、大きなピッチャーから、なみなみとグラスへそれを注いだ。
「飲めるかい?」
しかし、半分寝こけているマーヤは、首から上がぐらぐらしている。
今にもグラスに頭突きをしそうだ。
クリスは慌てて、グラスを遠ざけた。
「これは……仕方ないよね? あとで私を、嫌わないでおくれよ」




