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第48話 籠の中には戻らない。

「ミカ……」

「喋るな!」


 叱りつけるように叫ぶと、ミカは脱いだ上衣で傷を圧迫するように押さえつける。美しい縫い取りの施された上等な上衣に、みるみるうちに血が広がっていった。


「クソッ、止まらねえ」


 何とか止血しようとするミカに向かって、トビィは鉛のように重くなった腕をゆっくりと差し出た。

 ミカは無意識のうちにその手を取り、握りしめる。その手には、かつてミカがトビィに贈った銀色の腕輪がはめられていた。


「ミカ……これ、ありがとう」


 トビィは涙が揺れる、金色の瞳を見つめながら囁いた。


「……嬉しかった、凄く。本当は……凄く嬉しかった」

「何だよ……」

 

 ミカは呟く。


「何で、そんなこと今さら言うんだよ。お前が何やってもちっとも喜んでねえって思ったから……だから俺は……」

「ごめん……」

「謝るな!」


 力なく垂れそうになるトビィの手を握りながら、ミカは叫ぶ。


「謝るなよ! ふざんけんな、何で謝るんだよ!」

「だって……」


 ミカが泣いているから。

 

 そう言ったつもりだったが、トビィ自身の耳にも言葉は届かなかった。

 涙が流れ続けるミカの頬をぬぐってあげたい。

 そう思っているのに、床に垂れたままの手を動かすこともできない。

 自分の名前を呼ぶミカの声が、どんどん遠のいていく。


 トビィが意識を失った後、部屋には武装した兵士たちが入ってきた。

 トビィの身体を抱えたまま、ミカは顔を上げる。

 目の前には、三年間、ずっと自分を捕らえ囲っていた男が立っていた。

 背後には多数の兵士がひしめき、銃剣士団の男たちを取り押さえている。

 殺気立った喧騒の中、ザファルは普段と何ひとつ変わらぬ様子でミカを見下ろした。


「お前をエリュアに戻す」


 命令ですらない、ただ確定した事実を伝える口ぶりだった。

 ミカはトビィの身体を抱く手に力を込め、ザファルの端整な顔を睨む。


「俺はトビィとここにいる」


 挑むようなミカの返答を聞いて、ザファルは笑った。


「ここにいれば死ぬぞ。お前も、お前の腕の中にいるその娘も」


 ミカは瞳を見開き、トビィの顔に視線を落とす。

 肌からは血の気が引き、蒼白になっている。体からも血液と共に徐々に温かみが失われていく。

 これ以上放置すればどうなるか。火を見るよりも明らかだ。

 ミカの動揺を見透かしたように、ザファルは言った。


「お前がそうしたいと言うなら、ここでその娘が死ぬのを見ていてもいい。その娘が死んだら、お前を連れていく。俺はどちらでも構わない。結果は同じだからな」


 ミカはジッとトビィの顔を見つめる。トビィの体を抱く手が、小刻みに震えているのが自分でもわかる。


「俺がエリュアに戻れば……トビィを助けてくれるか?」

「お前が俺の物になると言うならば」

「……本当か?」

「嘘は言わん」


 言う必要もない。

 ザファルの表情は、言葉よりも明確にそう語っていた。


「……誓え」

「『誓う』?」

「必ずトビィを助けると。そう誓え」


 ザファルはミカの真剣さを半ば嘲るように、半ば愛おしむように小さく笑った。


「何の意味がある? その誓いに」

「いいから! 誓えよ」


 ザファルは怒りに燃えたミカの姿をしばらく眺めたあと、ゆっくりと言った。


「それでお前の気が済むなら誓おう。その娘は必ず助ける」


 ミカは顔を上げた。

 目の前に、差し出された男の手がある。

 この手を再び取ればいい。これまでの人生で、ずっとそうしてきたように。

 誰かの物となり、誰かの手の内で、自分ではない者の意思に身も心も支配されて生きていけばいい。

 虚ろな眼差しのまま、ミカが手を出そうとした瞬間。

 動きを制止するように、腕を強く握られた。


(ミカ……駄目)

(行かないで)


 自分の耳に届いた声が本当にトビィが発したものなのか、それともただ自分が聞きたいと思ったものにすぎないのか。

 わからなかった。

 ただその瞬間、ミカの内部で燃え尽きようとしていた何かが形を得て強い意思となった。

 ミカはその意思を確かめるように、トビィの体をしっかりと自分の体に密着させる。


「大丈夫だ、トビィ。俺はもうどこにも行かない。お前のそばにいる」


 ミカは顔を上げ、ザファルの端正な顔を見てはっきりと言った。


「ザファル、俺はエリュアには戻らない」


 ザファルは特に表情を変えず、むしろこの男にしては珍しいほど穏やかな声音で答える。


「それはお前が決めることではない」


 ミカは片手でトビィの体を支えたまま、傍らに落ちていた護身用の剣を手に取った。


「俺はここでトビィと死ぬ。無理やりエリュアに連れて行っても同じだ。この先もお前が用意した籠の中で生きるつもりはない」

「強がるな。お前は籠の中にでしか生きられない。そう造られている」

「来るな」


 ザファルが足を踏み出した瞬間、ミカは自分の首に剣を当てた。


「俺は本気だ」


 ミカは、トビィの体に回した腕にグッと力を込める。トビィの体の温かみが流れこんでくるようだった。

 ザファルは動きを止めた。

 二人はしばらくの間、ジッと睨み合う。

 ミカにとっては永劫とも思える時間だった。

 不意に、ザファルが視線を横に反らした。ミカに背を向け、部屋の入り口へ向かって歩き出す。


「閣下……」 

「捕らえた銃剣士たちは、どこか一室に入れておけ。処分はルウェルどのと話し合い、後程決める」


 戸惑ったような部下たちの呼びかけに、ザファルは平時と変わらぬ声で指示を返す。

 出会ってからずっと自分の運命を支配し続けてきた男の姿が遠ざかっていくのを、ミカは見守った。

 ザファルは振り返ることなく歩き続け、やがてその姿は視界から消えた。

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