第40話 謀略家たち
3.
「トビィ」
ささやき声で呼ばれて、トビィはハッと我に返った。
隣りに立つ仲間の銃剣士が、正面を向いたまま言う。
「何をしている。奴が来るぞ」
言われてトビィは表情を引き締める。
この三年間、ルグヴィアの公座から追われたルウェルを奪還するために、目的を同じくする仲間と各地を転々とした。
いま現在は、新公爵ミライカ・アレイスに服従することを拒んでいる、アルフルーレ辺境伯の下に銃剣士団の仲間と共に身を寄せている。
アルフルーレ辺境伯はルウェルの父親・セヴァンの従兄にあたる。二十年前の公位継承争いの時にはセヴァンの最も有力な支持者であり、ミカの父親であるエルランを擁立しようとしたグランヴァルドと激しく対立した。
今も自らの領土に閉じこもり、公宮からの呼び出しに一切応じない姿勢を貫いている。
公都から離れた場所に広大な領土を持ち、王国とも血縁関係が深いという背景を持つため、アルフルーレの態度は強気だ。
トビィたちはアルフルーレ辺境伯が私的な会合を開くための、城館の中の奥まった場所にいる。
目の前には、長椅子に腰かけたアルフルーレの広い背中が見え、背後には辺境伯の側近、護衛が立っている。
目線の先で、両開きの扉がゆっくりと開いた。先導役の侍女が扉の脇に控えると、長身の端整な顔立ちを持つ男が部屋に入ってくる。
貴族らしい気品に満ちた姿でいながら、どこか薄暗い陰りを持つ。
その姿を見ていると火であぶられたかのように、ふつふつと怒りがわいてくる。
ベレス侯爵ザファル・サイード。
ルウェルに謂れのない汚名を着せ、グランヴァルトと共にルグヴィアを蹂躙した男。
何より。
トビィはギリッと唇を噛む。
ミカを連れ去った男だ。
到底、許すことは出来ない。
自分の体内で荒れ狂う怒りと暗い憎悪を、トビィは歯を食い縛り押さえつける。
短く挨拶をしたあと、ザファルはアルフルーレの正面にゆったりとした所作で腰掛けた。
それからふと、自分に向けられた視線の激しさに気付いたように顔を上げる。
険しい眼差しで自分を睨むトビィを、ザファルはしばらく観察し、うっすらと笑った。
「ミライカ公が市井にいた時、護衛していた銃剣士か」
ザファルは独り言のように呟く。
「無事と知れば公も喜ぶ。そなたの行方をずいぶんと気にしていたからな」
そこまで言って、ザファルはふと笑った。
「尤も、今はどうかは知らぬが。身を売って暮らしていた頃のことなど忘れたいであろうしな」
その言葉に意思とは関係なく心が波立つ。
ザファルは自分の心を弄び、反応を観察している。
そう気付き、トビィは無理やり動揺を抑えつけた。
アルフルーレが口を開く。
「この者のことを覚えておりましたか。観劇の場かどこかで一度会っただけと聞いておりましたので、あるいは見忘れているのではないかと思いましたが。大した記憶力をお持ちですな」
「これで私がザファル・サイード・ベレス本人だと納得していただけたかな」
半ば皮肉げな、半ば今の状況を面白がるようなザファルの言葉にアルフルーレは吠えるような声で笑った。
「いやいや、ありがたい。影武者をよこすような鼻のきかぬ人間では、手を組むことを考え直さなくてはならないですからな」
アルフルーレは、表向きはルグヴィア公国に恭順しているが、半独立勢力としての立場を保ち、隙あらば自らの領土と権益を拡大してきた。
貿易の要所であり富が集積するエリュアを支配するザファルとは立場が似ており、両者は国という枠組みを超えて自らの権益を拡大したいという思惑が一致している。
その相似が二人に手を結ばせた。
アルフルーレは、老いてなお輝きを失わない青い瞳に抜け目ない光を宿して言った。
「それで……我がほうの条件を了承していただけますかな?」
ザファルは口の端に笑みを浮かべたまま、ゆったりとした仕草で手を組み直した。
ザファルの沈黙は不自然なほど長く、アルフルーレの顔に徐々に焦りと苛立ちが浮かぶ。
「何か意に添わぬことがありましたか? こちらとしては、最大限、侯の利益を考えたつもりだが」
「さて」
ザファルは、笑みで端整な唇を吊り上げる。
「どんな条件だったかな」
アルフルーレの顔に、凄みのある表情が浮かぶ。
「若僧が。駆け引きを打つつもりか」
見せかけの礼儀を捨てて、アルフルーレは低い声で呟く。
「このアルフルーレ、エリュアの女衒風情になぶられるほど老いぼれてはおらぬわ」
アルフルーレが怒声を放った瞬間、ザファルの背後に控えていた従者たちは剣の柄に手をかけた。
トビィも反射的に剣の柄に手を伸ばす。
アルフルーレとザファルの中心に、室内は緊迫した空気に支配される。
ザファルは室内の様子を気にする様子もなく、アルフルーレに視線を向けている。まるで異国の猛獣使いから買い上げた、獰猛で珍しい獣を観察するような目つきだった。
ザファルを打ち倒し、積年の恨みを晴らす絶好の機会ではないか。
そんなことをすれば三年間の仲間たちの労苦がすべて無駄になる。ルウェルを救いだすことこそ最優先事項だ。
トビィの心の中では相反する二つの気持ちが激しくぶつかりあい、うずまく嵐のように荒れ狂っていた。
あと少しでも、神経がギリギリまで引き絞られたようなこの状態が続けば、ザファルに飛びかかってしまう。
そう思った瞬間、アルフルーレが大きく息を吐いて配下の者たちのほうを向いた。




