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第35話 ルグヴィアの政変

 労わりを含んだ眼差しを向けられた瞬間、体の中で張りつめていたものが解きほぐされるような感覚になる。こみあげてきた熱いものをこらえるために、トビィは顔を伏せた。

 

「はい……はい、殿下」


 青年は青い瞳をわずかに細めて笑った。


「今は二人だけだ。ルウェルでいい」


 ルウェルはソファーに腰かけると、トビィにも正面の席に腰かけるように促す。

 気持ちを落ち着かせようとするトビィの顔を、ルウェルは静かな眼差しで観察する。


「何かあったのか」

「はっ」


 トビィは何とか気持ちを鎮め、感情を排した上で必要なことのみを簡潔に報告する。

 ミカが、エリュアの支配者であるベレス侯爵の長年の愛人であったこと。

 同僚に妬まれ、その手の者に襲われた後、自分に何も告げずにベレス侯爵の下へ向かったこと。

 今も恐らくそこに留め置かれているだろうこと。

 話の途中で、何度か左手に嵌められている銀鎖の腕輪が澄んだ音を立てた。

 ミカに誘われて二人で出かけたことや腕輪を贈られ、ずっと自分の護衛でいて欲しいと言われたことは、今回の件とは何も関係がない。

 ルウェルに言う必要はない。

 トビィは自分にそう言い聞かせた。

 なぜ自分がそのことをルウェルに……否、誰にも伝えたくないと思っているのかは考えないようにしていた。


 トビィの話を聞き終えた後、ルウェルはしばらく口を開かなかった。

 貴人を直視することは非礼に当たる。

 そう習慣として染みついているはずなのに、ついつい顔を上げてルウェルの静かな顔に見入ってしまう。

 ルウェルは元来物静かな性格をしており、滅多なことでは自分の考えや感情を表に出さない。長年仕えているトビィですら何を考えているかわからないことが多い。

 面差しだけならばルウェルとミカは似ている。他人の空似だ、と信じることのほうが難しい。

 だが。

 トビィの心が惹きつけられるのは、二人が似ている部分よりも異なる部分だった。

 

 出会った当初、ミカはトビィに反感を隠そうとせず、その態度は無礼を通り越して傲岸不遜だった。少女のように小柄で華奢な体は、何者にも屈さない誇り高さに満ちており、トビィを見る金色の目には警戒や反発と共に強い意思が宿っていた。

 人の世に馴れず信ぜず屈することもない野生の獣のようなしなやかな美しさに、トビィはひと目見た時から否応なく惹き付けられた。

 ミカのトビィに対する態度は、気持ちの揺れ動きを表すかのように、常に不安定だった。

 最初に出会った時からずっと、トビィはミカの内に生じる嵐に振り回され続けた。

 しかし、そのことで忌避の気持ちを持ったことは一度もなかった。

 相対する者を翻弄する嵐のような激しさこそ、ミカをミカたらしめているものなのだ。

 トビィはルウェルの前でこうべを垂れる。

 

「直々にめいを受けながら、護衛の任を果たせなくなった失態については面目のしだいもございません。恥を承知で申し上げます。ルウェル様、どうか私にミカを助けに行く許可をお与え下さい。ベレス侯爵はミカとは長年の付き合いがあります。ですが、これほど長く城に留めおかれることはミカの本意ではないはずです。ルウェルさまのお許しをいただければ、私がこの身に代えてもミカの身柄を取り戻します」


 ルウェルとミカの間にどんな関係があるかはわからない。

 だが密かに護衛をつけるくらいだ。

 ルウェルとて、このままミカが囚われたままでいいとは考えていまい。

 半ば願望を込めて、祈るような気持ちでトビィは主君の言葉を待つ。

 ルウェルはしばらく沈黙したあと、口を開いた。


「トビィ」

「はっ……」

「ミカどのはどのようなお人柄だった?」


 突然そう問われて、トビィは言葉に詰まる。

 ルウェルの眼差しは、トビィがドキリとするほど深く澄んでいた。


「幼いころから苦労をし娼館に身を置いていたとあれば、世の中の汚濁や暗い部分に触れざるえないことも多かったろう。そのことが、かの人の心にどれほど影響を与えていたか知りたい。人の情を介さなかったり、自分の利のみにしか関心がないような、そんな人間ではなかったか? お前から見てどのような人間だった?」

「そんなこと……っ!」


 トビィは弾かれたように首を振る。


「ミカはそんな人じゃありません。我が儘で口が悪くて、凄く意地悪な時もありますけれど、でもそれは素直になれないからで……根はまっすぐなんです。偉い人の前でも堂々としていて、宮廷にいる人よりも……心はずっと立派です」


 そこまで言って、トビィは慌てて口を押さえた。

 十七年前のルウェルの父親とその弟の公位争いによって長く宮廷が混乱したことに加え、公位を継いだルウェルの父親・セヴァンが政治に無関心だったこともあり、現在のルグヴィア宮廷は国主であるルウェルでさえ押さえられないほど貴族たちの力が強い。元々貴族たちは、自分たちの権勢拡大のために、政治にまったく関心のなかったルウェルの父親セヴァンを担ぎ上げたのだ。

 トビィたち国主直属の銃剣士は、そんな貴族たちに反発と憤りを持っている。だが貴族たちがお互いに猜疑を抱き牽制しあっているからこそ、ルグヴィアの平穏が保たれているのも事実だ。苦々しい気持ちを持ちながらも、現状を追認せざるえないのが実情だった。


 そんなトビィの内心を読み取ったのか、ルウェルは諦念がにじんだ笑いをもらす。


「そうか。不遇な身の上であっても、高潔な人柄だったか」

「ルウェルさま……」


 トビィは思わず立ち上がろうとした。

 だがルウェルの物静かな眼差しに制せられて、動きを止めた。


「トビィ、銃剣士の誓いは覚えているか」

「え……」


 トビィはまごついたように主君の顔を見返す。

 銃剣士にとって「誓いを覚えているか」という問いは、「自分の名を言えるか」と確認されているようなものだ。

 誓いは銃剣士を銃剣士たらしめる、形あるもの以上に確かなものだ。

 戸惑うトビィに向かって、ルウェルは言った。


「お前には、これからもルグヴィアのために戦い、力を尽くして欲しい」

「も、もちろんです」


 ルウェルは、トビィの顔をジッと見つめる。


「そうしてくれるか」

「はい……」


 うなずきながらも、トビィはルウェルの真意がわからなかった。

 なぜ今さら、そんな当たり前のことを確認するのか。

 ルウェルは、そんなトビィの困惑を読み取ったように微かに微笑んだ。

 だが、それ以上は何も言わなかった。


※※※


 そのひと月後。

 辺境の地で独立した勢力を保っていたグランヴァルドが、消息を絶っていた公子ミライカ見つけ出したと公表した。ミライカは王国の裁可を得てルグヴィアの正当な後継者を名乗り、現ルグヴィア公ルウェルに廃位と公位を明け渡すことを要求した。

 要求を拒否するのであれば、実力でもって国を正す。

 グランヴァルドの姿勢は苛烈だった。


 既に形骸化しているとはいえ、各公国の公位と領土は王国から拝領されるという建前がある。

 加えて現在ルグヴィア宮廷で権勢を持つ者は、十七年前の後継者争いの時に、主筋であるエルラン公子を追い落とすことで権力を握っている。

 後ろめたさもあってか、大半の者がグランヴァルドの要求に対してあからさまに非は鳴らさず、態度を保留した。

 このような状況下で、グランヴァルドの要求を正面からはねつければ国が二つに割れる。

 再び争いを起こして国を混乱させることを避けるため、ルウェルはグランヴァルドの要求を飲んだ。

 ルウェルは公位剥奪という不名誉を負わされ、都の外れにある叔父エルランがかつて閉じ込められた屋敷に、監視付きで幽閉されることになった。

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