第34話 故郷に帰る
18.
最初、何を言われたかわからず、トビィはシギの顔を凝視した。
「出て行った……?」
「はい」
ミカが月晶宮から出ていった。
そう言われ、トビィは呆然とした。
かろうじて心に浮かんだ言葉を、機械的に紡ぎ出す。
「ミカは、どこに行ったんですか?」
「聞いてどうするんですか?」
「どうするって……」
シギは、言葉に詰まったトビィの顔に一瞬視線を走らせてから淡々と続ける。
「あいつは自分の意思で出て行ったんです。ここには戻りません」
「戻らない? 戻らない、ってどういうことですか?」
シギは静かな横顔のまま、何も答えなかった。
トビィは、シギの体に手をかけんばかりにして身を乗り出す。
「お願いです、教えてください!」
「ミカは、ベレス侯爵の下へ行きました」
トビィは顔を上げる。
シギの表情は、風のない日の湖面のように静かだった。
「私たちのような身分の人間ではとても手が出せない。あなたが行っても門前払いされるだけだ」
トビィの脳裏に、ザファルの腕の中に囚われたミカの姿が浮かぶ。
その姿を見つめたまま、トビィは言った。
「ベレス侯爵のところへ行くって……ミカが決めたんですか? そういう気持ちになったって」
「『気持ち』」
シギはその語感を確めるように、唇で言葉をたどる。
「ミカの気持ちはわかりません。……ベレス侯のところへ行ったことが、ミカの本意かもわからない」
「無理矢理連れて行かれたんですか?」
「そういう意味ではありません」
シギは表情を変えずに言った。
「あいつは自分の意思でここから出て行った」
ジッとしていることが出来ず、トビィは立ち上がる。
「どうされるつもりですか? 先ほども言いましたが、あなたが涙玉宮に行ったところでどうすることも出来ない」
シギの指摘にトビィは唇を噛んだ。
ザファルはエリュアの主であり、強大な権力を持っている。一介の銃剣士にすぎない自分など、相手にすらならない。
それはわかっている。
だがそんな理では押さえつけられない、強い焦燥がトビィの心の中では荒れ狂っていた。
ミカを助けなければならない。
ミカを守ることこそが自分の使命なのだ。
自分という存在の一番奥深いところから生まれる衝動は余りに激しく、強い苦痛を覚えるほどだった。
その痛みに何とか耐えながら、トビィは押し殺した声で言った。
「ルグヴィアへ戻ります。ルウェル様にご報告して、判断を仰がなければ」
ルグヴィア公であるルウェルが働きかけてくれれば、ミカを取り戻すことが出来る。
その考えは、トビィにとって暗闇に差し込んだ一筋の灯りのように思えた。
早くしなければ、ミカが自分の手の届かない場所へ連れ去らわれてしまう。
強い焦燥に突き動かされるようにして部屋を飛び出したトビィの後ろ姿を、シギは眼差しを動かさないまま見送った。
※※※
本来であればエリュアからルグヴィアの公都までは、馬を飛ばしても半月以上かかる。
トビィは旅籠ごとに馬を変え昼夜を問わずに街道を駆け続け、十日後に公都ルルドにたどり着いた。
体が旅の疲れのために鉛のように重かったが、それでも旅装を解くこともなくすぐに公宮に入り、ルウェルに謁見を申し出る。
深夜に近い時刻であったにも関わらず、トビィは公宮の奥にあるルウェルの私室に通された。
「久しぶりだな、トビィ」
立ち上がって略式の拝礼をしていたトビィは、声をかけられ顔を上げた。
ゆったりとした長衣をまとい、黒い艶やかな髪を飾り紐でひとつに束ねた端整な顔立ちの青年が、目の前に立っていた。




