第33話 俺が公爵だったのか。
震える唇でかろうじて言葉を紡ぐ。
「……嘘だ」
「なぜ、そう言える」
「殺すつもりなら……いつだってできた」
ミカの反応を楽しむように、ザファルは笑った。
「お前が自分の出自を知っているかどうか、誰かに自分のことを話していないか見定めていたのだろう。大事を取るならお前の信用を得てルグヴィアに連れていき始末したほうが確実だ」
血の気を失い氷のように冷たくなったミカの頬を、ザファルは撫でる。
「あの娘は、お前に男の真似事をさせるくらい信頼させたのか」
ミカはザファルの腕の中から飛びすさるようにして逃れた。
「トビィは……そんな奴じゃない!」
薄い笑みを浮かべたまま、ザファルは言った。
「ではなぜ、お前がルグヴィア公と似ていることを黙っていた? なぜ、お前がルグヴィアの正当な後継者であることを伏せたまま、ルグヴィアに連れていこうとした? ルグヴィア公が、なぜお前に護衛をつけたのか一度も考えなかったのか? 一介の娼妓に過ぎないお前に」
ザファルの言葉は鋭い刃となり、ミカの心を刺し貫いた。
考えなかったわけではない。
ザファルを初めエリュアの上層階級につながっている自分を、手なづけて間諜として使おうとしている。
最初はそう考えていた。
だが。
いつの間にかそんな疑いは消えてなくなっていた。
自分が生まれ育った環境とはまったく違う生活に戸惑い、ミカの言動に振り回され困惑しながら、それでも懸命に守ろうとするトビィの姿が、固く鎧われていたミカの心を溶かし、いつの間にかその一番奥底に入り込んでいたのだ。
公爵など本当はおらず、トビィはずっと自分のそばにいるのではないか。
そう都合よく考えていたことに、今になって気付いた。
瞬きすらせず立ち尽くすミカの体に、ザファルが腕を回す。
「お前はスレているように見えて根が純粋だ。あの娘をすっかり信じこんだのか」
「愛妾として迎えるための体裁を整える振りをして、準備が整ったと言って国へ連れて行く。その途中で賊に襲われたことにして始末する。他国であり、殿下の知己も多いこの街で事を起こせば、政治問題になりかねませんからな」
揶揄のこもったグランヴァルドの言葉は、ミカの耳にはただの音としてしか響かなかった。
ザファルが自分の髪を弄ぶ感覚もどこか遠くに感じる。
目の前には「ルグヴィアへ一緒に行こう」と訴えた夜の海辺の席でのトビィの姿があった。
(ミカ、ルグヴィアに行こうよ)
(ルグヴィアに行けば、もう男の人を相手にしなくても良くなるよ)
(ルウェル様がミカの面倒を見てくれるから)
あの時。
トビィは公爵から命令を受け取っていたのだろうか。
自分を殺せ、と。
急速に目の前が暗くなり、指先から体が冷えていく。まるで冷たい深海に沈められていくようだった。
海の底に引き込まれながら、遠のいていく海面を仰ぐ。そこに微かな光が瞬いていた。
お前、俺のことを殺そうとしていたのか?
お前、公爵さまから命令されたら、俺のことを殺したのか?
お前が……?
俺を……?
真っ暗な海の底から、光を求めて遠い海面を仰ぎ手を伸ばそうとする。
震える唇から求める人の名前を呼ぼうとした瞬間、脳内に男の声が忍びこんできた。
「知りたいか? あの娘が何を考えていたか。公爵の命令があれば、本当にお前を殺したかどうかを」
ミカは顔を上げた。
暗い闇のような瞳に、自分の姿が映っていた。
「ならば公爵になればいい」
「俺が……?」
ミカは呟いた。
「公爵に?」
「そうだ」
笑みを含んだまま、声はなおも続く。
「公爵になって、あの娘に命令すればいい。ルグヴィア公を僭称していたルウェルからどんな話を聞き、どんな命令を受けていたかを」
「ルグヴィアの銃剣士が仕えるのは、祖国と国主に対してです。ルウェル個人に対して忠誠を誓っているわけではない。今現在も、ルウェルが遣わせたその娘は、本来はルグヴィアの正統な後継者である殿下に、お仕えすべき者であるはずです」
ルウェルは、本来はミカの物である地位や権力、権利のすべてを不当に奪い続けている。
熱を入れて語られるグランヴァルドの言葉は、ミカの耳にはほとんど入ってきていなかった。
「俺が……公爵だったのか」
ただひとつ。
その事実だけがミカの全身を満たしていた。
(俺が……おまえの公爵さまだったのか)
(トビィ)
ザファルの腕の中に囚われたミカの前で、グランヴァルドが恭しく頭を垂れた。
「殿下、ご決断下さい。殿下がルグヴィアの正統な後継者として簒奪者どもの非を鳴らし、国を取り戻す。そう決意なさるのであれば、このグランヴァルド、命に代えても殿下をお守りし、ルグヴィアの公爵位を殿下の手にお戻しいたします」
こんなやり取りは茶番に過ぎない。
グランヴァルドは、ルグヴィア公国を手中に収めることだけを考えている。
男たちの計画の中では、ミカは意思も希望も持たないただの駒に過ぎない。
利用されているだけだ。
そうわかっているのに、体が凍りついたように動かなかった。
「どうかこのグランヴァルドにお命じ下さい。僭称者ルウェルより、すべての物を取り戻せと」
グランヴァルドは誠意と忠義に満ちた様子を装い、直立し右手で作った拳を反対の肩口に当てる。
それがいかなるものであれ、主君からの命令であれば果たす覚悟を示す、忠誠と服従の誓いだ。
ミカはその姿を金色の瞳で黙って見つめた。




