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第30話 お前が馬鹿だから。

 自分の中に生じた感情を押しつぶすように、ミカは口の中で呟く。


「……んなわけ、あるかよ」

「ならなぜ部屋に戻らない」

「なぜ、って……」


 ミカはどこか彷徨っているかのような表情で、しばし沈黙した。

 部屋の中に静かな空気が流れたあと、誰に言うでもなく呟く。


「あいつさ……トビィの奴、何もわかってねえんだ」


 ミカは自分の感情をどう扱っていいかわからないかのような、そのことに腹を立てているような口調で言った。


「士族のお嬢さまなのに、公爵さまの命令で一人でよその国の娼館に来させられてよ。それで文句も不満も言わないで、俺みたいな……男を相手に商売する襞娼へきしょうをクソ真面目に守りやがって。あいつを見ていると……無性にイライラするんだ。言われるがままに何でもかんでもやりやがってさ」


 ミカは怒ったような顔つきのまま眉を寄せた。


「俺は、ガキのころから淫売稼業しているんだ。殴られたりこづかれたりなんて慣れっこで、屁でもねえ。そんな奴ら、山ほどいるしな。騒ぐほどのことじゃねえよ。周りの奴らだって誰も気にしない。それなのに、俺が別にどうってことないって思うことでも、あいつ、すぐに助けに来るんだ。デカイ男に凄まれても全然引かないで、俺が『来るのが遅い』っつうと本気で謝って。適当にやりゃあいいじゃん。公爵なんて命令するだけで何も見てねえんだからよ」


 ここにはいない、もっと遠くのどこかにいる人間に訴えるようにミカは言った。


「あいつといると、だんだんおかしな気持ちになるんだ。公爵さまなんてほんとはいなくて、あいつが俺のことを守りたくてやっているんじゃないかって」


 ふと、気付いたようにミカは顔を赤くした。口にしてしまった自分の言葉を打ち消すように、ことさら擦れたぞんざいな口調で続ける。


「俺はわかっているぜ? トビィは命令されたことをやっているだけだ、ってな。でもそれは公爵さまとあいつの間の話だろ? タダ働きさせんのは気持ち悪いからさ、日頃の礼、っつうかご褒美のつもりで、服とか靴とか宝石を買ってやったんだ。サルディナがあいつのために選んだやつ全部。俺のとこ来いよって言うときも、貴族の奴らが女に告白するみたいにしたしさ。トビィの奴、何を見ても目ん玉丸くしてさ、見たことないものばっかだって言ってたぜ」


 得意そうに頬を上気させて笑うその顔からは、先ほどまでの妖しげな魅力が消え去り、年相応の当たり前の少年のように見えた。

 シギは瞬きもせず、その顔をジッと見つめる。

 ミカは半ば自慢げに、半ばトビィの主君であるルウェルに対する反感をにじませて言った。


「公爵さまなんてここに寄越したまんま、あいつのこと放ったらかしじゃねえか。褒美を取らせるどころか『良くやっている』のひと言もねえじゃん。俺といりゃあ、出かける時に付いて来るくらいでいい、あとは豪邸に住んで毎日遊んで暮らさせてやる。俺はこの稼業が出来るあいだに死ぬ気で金を貯めて、コネも作って商売するつもりだ。そういう風に先のことまで考えて言ったんだ。俺の側にいたら、ぜってえ損させねえぞって」


「文句があるなら言ってみろ」と言いたげな強情そうな顔つきで、ミカは唇を引き結ぶ。

 シギはしばらく黙ってから言った。


「お前……トビィさんにそう言ったのか?」

「あ?」

「お前が男に体を売った金でトビィさんを雇う。そう言ったのか?」

「言ったけど……それが何だよ?」


 ミカは半ば不安そうな半ば不貞腐れたような顔つきで、なぜそんなことを聞くのか探るような眼差しを向ける。

 シギは微かに頬を染めたミカの顔を眺めた。遠い異国の思い出の風景を眺めるような表情だった。


「馬鹿な奴だ」

「な……っ」


 ミカは顔を赤くし、次いで険悪な顔つきになる。


「俺の稼ぎはお前が一番よく知っているだろ。あいつ一人どころか、兵士を束で雇うことだって出来るぜ? 贅沢するには足りねえって言うなら、ザファルみたいな奴のコネから太い客を増やしたり、一晩の客の数を増やしゃあいいだろ」


 シギの表情が変わらないのを見て、ミカは何かに気付いたように言葉を呑み込んだ。

 不満そうな仏頂面には、どこか迷子になった子供のような頼りなさがにじんでいる。


「よくわかんねえんだ。あいつに何をしてやったらいいかとか、どうしたら喜ぶか、とか。ちょっとご奉仕してやろうって言ってもそういうのはいらないって言うし。服も宝石も贅沢いらない、体でもねえんなら、他に何をやりゃあいいんだよ……」


 ミカは俯いて消え入りそうな声で呟いた。


「俺には他に……何もやれるもの、ねえし」


 声からは虚勢が剥がれ落ち、頼りなく揺れていた。

 誰が相手でも皮肉で傲慢なミカが、こんな顔をするのは初めてだった。

 空気に溶けてそのまま消えてしまいそうに見えるミカの体に、シギは手を伸ばす。引き寄せて腕の中に閉じ込めると、そこに確かに存在することを確かめるために細い肢体を強く抱きしめた。

 ミカは驚いたように、金色の瞳を見開く。


「おい、シギ……」

「ミカ、俺がお前に惚れたのはな」


 戸惑うミカに、シギは囁いた。


「お前が馬鹿だからだ」

「ふざけるなよ、今はそんな話してないだろ」


 シギはミカの言葉には構わず、その体をさらに強く抱きしめた。


「馬鹿だ、お前は」


 シギは囁いた。

 自分の言葉が届くことは決してない。

 そう知りながら。


 可哀想な奴だ、お前は。

 馬鹿で何も知らなくて、残酷で誇り高くて、純粋で一途で真っすぐで。

 人の心も、自分のことも何も知らない。


 自分がこうしてミカのことを抱くのはこれが最後だろう。

 シギの心に唐突にそんな思いが浮かんだ。

 出会ってからずっと、強く恋焦がれる気持ちを押さえつけながら、遠くに見える星を仰ぐように見守ってきた。

 その手を離して送り出さなければならない時がきた。 

 誰かからそう言葉で告げられたかのように、シギの心の中でそんな確信が生まれた。

 口では強がりばかり言うが、何よりも壊れやすく美しい魂を、自分が守ってやりたかった。

 その願いは叶わない。永遠に。

 シギはミカの存在を、自分の心の一番深くに刻印するために腕に力を込めた。


 シギが感じた通り、この日がミカが月晶宮で過ごした最後の夜になった。


ザファルの招きに応じたミカは、そこで自分が何者かと自分の運命を知る。

次回、第31話「ミカの正体」


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