第27話 腹を立てているわけじゃない。
落胆がそのまま顔に出たのだろう。
シギは、怜悧で端整な顔にわずかに苦笑を浮かべた。だがトビィの正面に座った時には、内心を包み隠すような穏やかな表情のみが浮かんでいた。
「昨晩はミカが世話になりました。楼の責任者として、礼を申し上げます」
シギは丁寧な所作でトビィに頭を下げ、ミカに絡んだ三人組は街の衛兵に捕らえられたという説明をする。
トビィは上の空でうなずいた。言葉としては耳に届いているが、頭の中にはまるで入ってこなかった。
トビィは奥に見える私室に通じる戸のほうへ首を伸ばし、躊躇いがちに尋ねる。
「ミカは、どうしていますか?」
「部屋で休んでいます」
トビィは奥の戸を祈るような気持ちで凝視する。
そうしていればいつものように、ミカが飛び出してくるのではないか。
膨れっ面で「おっせえよ、トビィ。とっとと迎えに来いよ」と言いながらも、腕にしがみついてくるのではないか。
だが、部屋の奥は誰もいないかのようにひっそりと静まり返ったままだった。
「しばらくは自室には戻さず、私の部屋に置くつもりです。ミカの部屋は人の出入りが多すぎますから」
「あのっ!」
トビィは前のめりに身を乗り出す。
「私もここに置いてもらえませんか?」
「ミカはしばらく客を取りません。私の下にいるだけですから護衛は不要です」
トビィは必死で食い下がった。
「部屋の隅にいさせて下さい。……それが駄目なら、廊下にいさせてもらうだけでもいいですから。お願いします」
「貴女は任務という枠を超えて、ミカのことを大切に思って下さっているようだ」
シギの様子はもの柔らかで優しげだったが、どこか皮肉を含んでいるように見えた。
「ですが、ミカはこの月晶宮に所属している。私の管理の下にあります。どう過ごすかは私が決めます」
シギの口調には有無を言わせないものがあった。トビィはそれ以上言葉を紡ぐことが出来ず、視線を下に落とす。
「ミカは……大丈夫ですか?」
「いつもよりは大人しいですね。あいつは気分屋ですから」
シギは苦笑交じりに答える。
トビィは逡巡したあと、思い切って言った。
「ショックを受けていませんか?」
「ショック?」
「あんな風に襲われて……」
シギは観察するように瞳を細める。
それから何でもないことのように言った。
「あいつはこの世界に入って長い。自分が周りからどう見られているか、どう生きていくかは誰よりもわかっています」
トビィは顔を上げた。
「ミカは、たまたま襲われたんじゃないんですか?」
シギはトビィの質問には直接答えず、別のことを言った。
「どの花街も妬み嫉みはありますが、エリュアはその中でも特別です。王族に連なる人間に見初められ、貴族としての地位を与えられる。他の場所では夢物語に過ぎないことが、ここでは現実に起こりうる。
月晶宮は他の娼館と比べれば上品の客が多く華やかに見えますが、支配する理は他の場所と変わりません。むしろ上層への道が開けているからこそ、軋轢も強くなる」
「誰かがミカを妬んで、それであの男たちに襲わせた、ってことですか?」
「貴女のようなかたには想像もつかないでしょう」
シギは穏やかな顔つきのまま答えた。
「我々のように地べたを這いずって生きている人間には、一日の日銭よりも他人の命のほうが安いんです」
口ごもるトビィを見ながら、シギは言葉を続ける。
「ミカは色と欲がまみれるこの世界で、誰もが認める女王だった。ここがどんな場所か、どう生きぬくか、あいつほどわかっている人間はいない。あなたが気にするようなことは何もない」
ふとシギは、顔から笑みを消えた。
視線を奥の部屋のほうへ向ける。
「……そう思っていたのですが」
シギの端整な顔が、憂いで翳る。
冷たさすら感じさせるようなシギの雰囲気が変わったのを見て、トビィはようやく気付いた。
シギがミカを自分の部屋に置くのは、ミカにそう頼まれたためだ。ミカからそう頼まれていることをトビィに伝えることが忍びなく、「自分の判断でミカをここに留め置いている」という事務的な態度を貫いていたのだ。
ミカはまだ、海辺で食事をした時の言い争いに腹を立てているのだろうか。
顔も見たくないほど自分に対して怒りを抱いているのだろうか。
それとも、護衛の任を果せず、むざむざと暴漢に襲わせたことに失望しているのだろうか。
もうミカの信頼をすっかり失ってしまい、取り返す機会すら与えてもらえないのだろうか。
俯いて肩を震わせているトビィを見て、シギの端整な顔から事務的な冷たさが消えた。
少し躊躇った後、口を開く。
「トビィさん、ミカは貴女に腹を立てたりはしていません」
「え?」
どういう意味か。
問いを口にしかけたトビィの前で、シギが頭を下げた。
「申し訳ありません。もう少し待ってもらえますか。あいつも色々考えているようなので」
シギの態度からはミカを思う真摯さが伝わって来る。
トビィは二の句を告げなくなり、項垂れたまま部屋を退出するしかなかった。
16.
その晩、シギが仕事の合間に部屋に戻ると、ミカは窓辺に置かれた寝椅子に体を横たえていた。脇に置かれた東方風の小卓には、酒が入った壺が置かれている。
酒杯を手にして、ぼんやりと窓の外を眺めているミカの横顔を、シギはしばらく見つめていた。
ゆっくりとミカのほうへ歩み寄り、むき出しになっている白い足の先に腰を下ろす。
「ミカ、リリセラが白状した。お前を襲わせるように馴染みの男に頼んだと」




