第26話 面倒をかけたな
光は男の額ではなく頭髪を焼きながら宙をかすめすぎていく。
男は大きく瞳を見開いたまま、呆然として宙を眺めている。股の間が濡れ、地面に黒い染みを作った。
トビィは銃を下ろす。
銃身を持ち直すと、魂が抜けたような顔で震えている男の顔面を銃床で殴り飛ばした。
血と砕かれた歯が吐き出され、男は白目をむいてその場に昏倒した。
男が気絶したことを確認すると、トビィは弾かれたように顔を上げる。
ミカが壁を支えにして何とか立ち上がろうとしているところへ駆け寄った。
「ミカ!」
ミカは返事をせずに、顔を背けたままその場に立った。
「ミカ、傷が……」
頬に触れようとしたトビィの指先を、ミカは手をあげて遮る。
「大丈夫だ」
しばらく黙ったあと、呟いた。
「……面倒をかけたな」
「え……?」
トビィは戸惑い、ミカの横顔を見つめる。
トビィが厄介な客や男たちからミカを守る時、ミカは「来るのが遅い」だの「もう少し手際よくできるだろう」だのとよく言ってきた。そうしてひと通り文句を並べたてたあと、必ずトビィの体に体をぴったりとくっつける。
寄りかかった姿勢のまま、口をとがらせて「次はもう少し早く助けに来いよ」とさらに文句を言う。
トビィが慌てて謝ったり神妙な顔つきで頷くと、嬉しそうに笑った。
ここにいれば何があっても大丈夫だ。
自分はちゃんと守られている。
ミカがそう思っていることが、寄り添わせた体の温かさと共に伝わってきた。
いつしかミカの安らぎを守ることは、主君であるルウェルの命令という意味を超えて、トビィ自身の使命と誇りになっていた。
だが今は。
ミカは、戸惑っているトビィに背を向けて、馬車に乗り込む。
トビィが隣りに乗り込んできても、顔を背けたままだった。
月晶宮に着くまでのあいだ、無言で窓の外を見ているミカを、トビィは黙って見つめることしか出来なかった。
15.
月晶宮に戻ると、ミカは事態を報告しにシギの下へ向かった。
ミカは立ち止まり、トビィのほうにわずかに顔を動かして言った。
「お前は部屋に戻れよ」
「でも……」
トビィは、腫れ上がったミカの頬を見る。
ミカは、トビィの視線を避けるように顔を背けた。
「報告なら一人で大丈夫だ」
ミカは固い声でトビィを促すと、返事を待たずに回廊の奥へ歩き出す。トビィはそこにたたずんで、細い背中が小さくなり消えていくのをただ黙って見つめ続けた。
部屋に戻ると、昼間サルディナの店でミカがトビィのために買ったドレスや靴、装身具、街に出た時に食べた菓子などが届いていた。
お端の侍女たちは所せましと並べられているドレスや靴、宝石類を見て目を丸くする。
「これ全部、ミカさまがトビィさんのために買われたのですか?」
「あのサルディナが作った服ですよね?」
「貴族の奥方やご令嬢だって、滅多に着られないのに」
侍女たちに整理したものの整理を頼むと、トビィは普段着ている簡素な服に着替える。
侍女たちは、美しいドレスにうっとりとした眼差しを向け、手に取るたびに感嘆のため息をついた。
贈り物をしまい終えると、トビィは侍女たちに礼を言い、菓子を分け与えた。
トビィよりも若い十代前半の侍女たちは、喜びに頬を紅潮させ、自分たちの部屋へ戻っていった。
その声も聞こえなくなると、トビィは広い部屋に一人きりになった。
いつもミカが寝そべっている寝椅子に、体を丸めて座る。
トビィは銃剣士の習いとして、いついかなる時もどんな場所でも眠ることが出来た。むしろ危機的な状況であればあるほど、体力を回復させるために眠れるよう訓練している。
それが今は、いくら眠ろうと思っても目が冴えるばかりで、十分な睡眠を取ることが出来なかった。
抗いがたい力に引き寄せられるように、トビィは左腕にはめられた華奢な銀細工の腕輪を見つめた。
今からでもシギの部屋に行こうか。
何度もそんな思いが胸をかすめる。
ミカにそばにいなくていいと言われたことが、こんなにも自分の心に寂しさを生み、不安にさせるとは。
トビィは抱えた膝の中に顔を埋める。
心に浮かぶ回廊の先に消えていくミカの細い背中を、追いかけたかった。
ミカが自分のそばに帰って来ること。
またいつものように憎まれ口を叩きながら、ピッタリとくっついてくること。
ただそれだけを待ちわびながら、その場で長い夜を過ごした。
16.
次の日、トビィはすぐにシギの部屋へ向かった。
胸の中にわだかまる黒い靄のような焦燥を押さえつけて応接の間で待っていると、奥の部屋からシギが一人で出てきた。




