第16話 セイレス・ホールへ
10.
扉が開いた瞬間、トビィは反射的に体を縮こまらせた。
部屋に入ろうとしたミカが、ハッと息を吞み足を止めたことが気配で伝わってくる。
「まあ、ミカさま。素敵ですわ」
サルディナが驚きと讃嘆の声を上げる。
その声につられるようにおそるおそる顔を上げて、トビィは茶色の瞳を大きく見開いた。
戸口に立つミカは、白いシャツに長い黒のコートを合わせた、青年貴族の略装をしていた。普段は結い上げているか垂らしている髪は、赤いスカーフで緩やかに束ねている。
美しい少年にも男装の麗人にも見えるその姿は、女性の姿をしている時とも違う、人を現実と幻想の境目に誘い込むような妖しい魅力があった。
その姿はトビィに強い衝撃を与えた。
(ルウェル様……)
目のまえに立つ少年とも青年とも麗人ともつかぬ美しい存在は、トビィが子供のころから密かに憧れてきた、少年期のルウェルの姿を思い出させた。
貴族の子息の装いをすると、トビィが普段思っていたよりも、二人はずっと似ている。
先ほどまで心に満ちていた気まずさも忘れ、トビィはその姿にただただ見とれていた。
最初の驚きがひと段落つくと、目の前の美貌の少年が自分と同様に……否、それ以上の驚きと感嘆の眼差しで、こちらをマジマジと見つめていることに気付いた。
「ミカ……」
恐々とトビィが呼びかけると、ミカはハッとして顔を背けた。白い頬がうっすらと朱色に染まっていく様が、ひどく可憐に見える。
殊更重々しく咳払いをすると、ぶっきら棒に言った。
「それなりになったみたいだな。行くぞ」
「まあ、それだけですの?」
不満げな声を上げたのは、トビィではなくサルディナだ。
「ミカさまのご希望通りお支度しましたのよ。ご満足になられたか伺いたいですわ」
「もちろん、満足している」
ミカは不自然なほどトビィのほうを見ないようにしながら、早口に答える。
サルディナは機嫌を直して微笑んだ。
「トビィさまは、濃い色合いのものがよく似合われますわ。深紅と深い青の組み合わせは難しいのですけれど。トビィさまの姿勢や身のこなしの美しさが際立つように、靴は少し踵が高めのものをご用意しました。先ほどよりもスラリとして見えます」
サルディナはトビィの着付けを細かく整えながら話す。
「とてもお綺麗でしょう?」
サルディナはふと手を止め、怪訝そうにミカのほうを振り返った。
「ミカさま?」
ぼーっとした顔つきでトビィの姿を見ていたミカは、ハッと我に返り顔を背ける。
モゴモゴと口の中で意味をなさない語を呟いたあと、不意にトビィの手を取った。
「サルディナ、他に選んだ服や靴や小物はいつも通り月晶宮のほうへ送ってくれ」
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
「頼んだぞ」
急に手を引かれたため、トビィは服の裾を踏んづけ転びそうになった。
ミカはすぐに振り向くと、トビィの体を支える。華奢な体つきのミカは、支えた瞬間によろめきそうになったが、何とか踏みとどまった。
「ご、ごめん……」
「いつもと勝手が違うだろ。気を付けろよ」
顔を赤くして離れようとしたトビィに、ミカは腕を差し出す。
「捕まれよ」
「で、でも……」
「いいから」
躊躇うトビィの手を掴み、ミカは強引に自分の腕に捕まらせた。
支配人やサルディナ、侍女たちの見送られて歩きながら、ミカは隣りにいるトビィにだけ聞こえる声で言った。
「今日は逆だからな」
「逆?」
怪訝そうなトビィの言葉に被せるようにミカは言った。
「今日は俺がお前を守る騎士だからな」
まだ状況が飲み込めずにいるトビィのために、ミカは門の前で待っていた馬車の扉を開ける。
高貴な女性の介添えをする騎士の作法通り、踏み台を上がるトビィの手を取って支える。
トビィが座るのを確認すると、隣りに乗り込み、扉を閉めた。
「セイレスホールにやってくれ」
ミカの指示を受けると、馬車はゆっくりと動き出した。
11.
馬車は美しく舗装された道をゆっくりと走る。
ここはエリュアの中でもごく一握りの上層階級のための道のため、道を歩く人間はほとんどいない。
時折ごくゆっくりと優雅に闊歩する、豪奢な仕立ての馬車が行き交うばかりだ。
馬車の中は、ぎこちない沈黙が流れていた。
頬杖をついて窓の外を眺めているミカの姿勢はいつもと変わらないのに、近寄りがたい雰囲気があり、普段のように気軽に話しかけることが出来ない。
ミカのほうもいつものようにトビィにちょっかいを出してきたり、じゃれついたりすることもなく、頑なに窓のほうを向いたまま口を閉ざしている。
トビィは椅子に座ったまま身をすくませる。
やはり、どこかおかしいのだろうか。
だからミカは、こちらをちらりとすら見ようとせず、怒ったように窓の外を向いたままなのだろうか。
時折、何か言いたげにミカがこちらに視線を向けるのを気配で感じる。トビィが反射的に顔を上げようとわずかに身じろぎをすると、ビクッと震え、慌てて窓の外を向くことを繰り返す。まるでゆったりとくつろぐ巨大な獣におそるおそる触れようとした瞬間に、急に牙をむかれたかのようだった。
いかなる時も自分の心のままに好き勝手に振る舞い、どんな相手に対しても臆することなく傲然としているミカが、こんな何かを恐れているような様子を見せるのは初めてだった。
それ以上、声をかける勇気はなくトビィは再び下を向く。
ミカに付き添うのが自分の役目なのだから、と何度も自分に言い聞かす。
そうしなければ、いたたまれずこの場から逃げ出してしまいそうだった。
トビィにとっては永遠とも思える時間は、馬車がゆっくりと止まったことによって終わった。
御者が扉を開けると、ミカは先に外を出て、高貴な女性に付き従う時の作法通り、トビィが馬車から降りる時に手を取ろうと待つ。
「ミカ、いいよ。一人で降りられるから」
「いいんだよ、今日はお前は……その……貴族の令嬢、なんだからな」
ミカはひどく不機嫌そうな顔つきで素っ気なくそう言ったが、トビィのことを支える手は壊れ物も扱うかのように丁寧だった。
二人がやって来たのは、貴族の邸宅や王族の離宮を思わせる建物だった。
入り口には豪勢な馬車が何台も横づけされ、美しく着飾った人々が降りてくる。
入り口から入った広大な広間には、揃いの服を纏った使用人たちがずらりと並んで、同じ姿勢で頭を下げている。
高い天井には物語絵が描かれており、ところどころ嵌め込まれた磨りガラスから、明るい陽光が射し込んでいた。
余りの豪華さに、トビィはぽかんとして広間に立ち尽くす。
「ミカ」
不意に声が響いて、トビィはそちらを振り向いた。
三十前後ほどの長身の男が、ミカの手を取ろうとしているところだった。服装や態度から高位の貴族だとすぐにわかる。




