ep5 もう一人の俺
夜のキャンパスは、静まり返っていた。
風の音すら止んでいる。
まるで時間そのものが、息を潜めているようだった。
遥はひとり、理学部棟の廊下を歩いていた。
窓の外には満月。
その光だけが、冷たく床を照らしている。
昨日、鏡の中で見た“自分”。
——笑っていた。
だが、それは確かに**自分ではない**何かだった。
「……あれは、夢じゃない。」
そう呟いたとき、研究室のドアが軋む音を立てて開いた。
中から、懐かしい声がした。
「よう。だいぶ時間、かかったな。」
部屋の奥、古いモニターの光に照らされて立つ男——
それは、遥自身だった。
顔も声も、すべて同じ。
けれどその瞳だけが、異様に冷たい。
「……誰だ、お前」
「誰だと思う?」
「……俺、か?」
「そう。“君が最初に真理を失ったときの俺”。」
遙は息を呑んだ。
相手は静かに笑う。
「驚くことない。俺たちは同じ“輪”の中にいる。違うのは、君がまだ希望を捨ててないってことだ。」
――――――――
二人の“遥”は向かい合った。
机の上には、古びたパソコンと一冊のノート。
ページには、無数のループの記録が書き込まれていた。
「……これ、全部俺が書いたのか?」
「“俺たち”が、だ。」
「じゃあ、なぜ俺は覚えてない?」
「覚えていられるように作られてない。君は、“救う側”としてリセットされるから。」
「救う側……?」
「そう。俺たちはこのループの管理者みたいなもんだ。
真理を救うたびに、世界は再構築される。だが、その代償として——彼女は君を忘れる。」
遥は目を見開いた。
心臓の奥に、冷たい鉄の棒を突き立てられたようだった。
「なんでだよ……そんな理不尽が、あるかよ!」
「理不尽じゃない。**選んだのは君だ。**」
もう一人の遥が、ゆっくりと近づく。
「最初のループで、真理が死んだとき、君は“彼女を何度でも救いたい”と願った。
だから、世界はその願いを叶えた。
——でも、彼女の魂は、一度死んでる。
“生き返る”ためには、誰かの記憶を代償にしなきゃならなかった。」
遥の足がすくむ。
「まさか……俺の、記憶が?」
「そうだ。
君が真理を救うたび、彼女の中から“君”が消える。
その空いた場所に、世界は別の記憶を流し込む。紘一との時間とか、違う恋とか。
それが、このループの“補正”だ。」
静寂が落ちた。
どちらの心臓の音か分からない鼓動が、重なって響く。
もう一人の遥が言った。
「君はこのループを壊そうとしてる。でも、壊せば真理は完全に消える。
続ければ、真理は生きるが、君を永遠に忘れる。」
「……どっちを選べって言うんだよ」
「選ぶしかないさ。
“愛されないまま、生かす”か、
“愛されたまま、殺す”か。」
その言葉が、心臓を締め付ける。
――――――――
夜明け前。
研究棟を出た遥は、ふらふらと歩いていた。
東の空が薄く明るくなり始めている。
ポケットの中のスマホが震えた。
画面に浮かぶ名前——〈藤原真理〉
『ねえ、遥。変なこと言うけど、
今日、会える? なんか、君にすごく伝えたいことがあるの。』
指先が震えた。
まだ、彼女は自分を覚えている。
ほんの少しだけ、繋がっている。
遥は空を見上げた。
朝焼けが、まるで“世界の再起動”みたいに美しかった。
「真理……俺は、どっちを選べばいいんだよ。」
その呟きに、誰も答えなかった。
ただ、風が通り過ぎる。
それがまるで、「まだ終わらない」と囁いているようだった。




