ep3 消える記憶
朝、目覚ましの音が鳴るより早く、遥は目を覚ました。
胸の奥がざわざわと落ち着かない。
夢の中で、誰かが囁いていた気がする。
——“君が彼女を救うたび、彼女は君を忘れていく。”
その声が、現実と夢の境界を曖昧にしていた。
――――――――
大学のキャンパス。
真理が友人たちと談笑しているのが見えた。
昨日と同じ笑顔。昨日と同じ声。
けれど、彼女の瞳に映る遥の姿だけが、どこかぼやけている気がした。
「おはよう、真理」
「……えっと、ごめん。どこかで会ったっけ?」
遥の心臓が止まりかけた。
「は? 何言ってんだ、俺だよ、遥」
「あ、ああ、ごめん!寝不足で頭回ってなくて……」
真理は笑って取り繕うように言う。
だがその笑顔の奥に、確かに“戸惑い”があった。
遥はそのまま何も言えず、教室を出た。
息が苦しい。
——やっぱり、夢の中の声は本当だった。
――――――――
放課後。
二人で歩く帰り道。
真理はいつものように話しかけてくる。
でも、話す内容がところどころ抜け落ちていた。
「ねえ、あのときの映画、面白かったね」
「ああ、あの……スーパーヒーローのやつ?」
「ううん、それじゃなくて……ほら、最初に一緒に観たやつ。なんだっけ?」
「……俺たち、最初に映画観に行ったこと、あったっけ?」
「え?」
一瞬、互いに黙る。
空気が冷たくなったような気がした。
どちらの記憶が正しいのか、分からなくなる。
真理は小さく笑って誤魔化した。
「そっか……私、夢と混ざっちゃってるのかもね」
「夢?」
「うん。最近ね、ずっと同じ夢見るの。
私、どこかの駅で誰かを待ってるんだ。でもその人、なかなか来なくて。
名前を呼ぼうとすると、声が出なくなるの」
遥は何も言えなかった。
その“誰か”が、自分だと分かっていても。
――――――――
夜。
遥は机にノートを広げていた。
過去の出来事、ループの回数、真理の言葉、全部を書き留める。
何か法則があるはずだ。
何か、原因が。
そのとき、背後から風が吹いた。
窓は閉まっているのに。
——ページがひとりでにめくれる。
一番最後のページに、文字が浮かび上がっていた。
> 『真理は“記録”を失っている。彼女の心は修復を拒んでいる。』
遥は震える手でペンを持ち、書き足す。
> 「じゃあ、どうすれば……?」
ペン先が勝手に動いた。
見えない誰かが、そこに言葉を刻む。
> 『君が彼女を“思い出させようとする”たび、彼女は苦しむ。
> 忘れることでしか、生きられない。』
遥は立ち上がり、机を叩いた。
「ふざけるな! 忘れさせない……! 俺がどんなに消えても、真理の中に俺を残す!」
その叫びは、夜の闇に溶けた。
――――――――
翌日。
真理はベンチに座っていた。
木漏れ日の中で、ゆっくりとノートを眺めている。
遥が声をかけると、彼女は微笑んだ。
「これ、誰のノートだろう? “君が忘れた恋を、僕は何度でも思い出す”って書いてあって……なんか、すごく切ない」
「……それ、俺のだよ」
「そうなんだ。綺麗な言葉だね。誰かのために書いたの?」
遥は、答えられなかった。
喉の奥が痛い。
真理の瞳には、もう自分の姿が映っていなかった。
彼女はノートを閉じ、立ち上がった。
「またね、望月くん」
“くん”——。
名前を呼ぶ声が、他人のもののように遠かった。
——その瞬間、世界の端が静かにひび割れた。
木々の影が揺らぎ、音が消えていく。
空気が、止まった。
「……真理?」
振り返った彼女の姿が、陽炎のように滲んだ。
そして、光の粒になって消えていく。
「やめろ……真理! 行くなッ!!」
伸ばした手は、空を掴むだけだった。




