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スミイシアラン

作者: 西瓜立秋



 私は自分の部屋を気に入っている。

 間取り。家賃。駅からの距離。ほどほどの静けさ。妥協と運がすべての賃貸物件激戦の都内で、よくもまあこのような掘り出し物件と出会えたものだと我ながらに思う。

 頭一つ分だけ他の建物より飛び出たアパートの最上階。大通りに面した建物からは距離がある。人目を気にせず過ごすことのなんと心地よいことか。憧れのベランダカフェバーも毎日開店できる。家庭菜園だって土に気を付ければやってやれなくはない。

 ただ一つ、あえて言うならという程度の気がかりがあるとすれば、玄関だ。

 大通りと反対側、閑静な住宅街側に面した玄関は隣のアパートの玄関と向かい合っていた。高さの関係上互いに気まずさを覚えることはないが、それでも外出のタイミングが合えば向かいの住人と顔を合わせることになる。また大きく開けば部屋の中が覗けてしまうのも問題だった。私の部屋が見られる心配はないが、相手の部屋は見ようとしなくても見えてしまう。

 外に出て、向かいの部屋のドアが視界に入る度に申し訳なくなって、目を逸らすのが一連の流れであった。

 曇りの朝のことだ。

 私の職場はここから電車で一時間ほどかかる場所にある。新人の頃はフレックスタイムの意味がよくわかっておらず、フレキシブルタイムの開始時間に間に合うように出社していたが、今ではゆっくり家を出るようになった。おかげで出勤時間がずれ、向かいの住人とドア越しに鉢合わせることが多くなった。

 その日も外に出たところで住人がドアを開けた気配がして、咄嗟に背中を向けた。さりげなさを装ってゆっくりとドアを施錠した。

 そして相手がいなくなったか確認しようとして、ちらりと後ろに目を向ける。

 スーツ姿の男がこちらを見ていた。睨むような、なにかを訴えるような眼差しだった。

 私が視線に気付いたことに反応してか、男はさっと目を逸らして階段を下りていった。

 気まずく思っているのは私だけではないのだろう。むしろ相手の方は目が合う度に不快に思っているのかもしれない。

 どうにもならないモヤモヤを抱えたまま、溜息をついて歩きだした。




【スミイシアラン】

 都市伝説/同じ名前か苗字の人間を殺す怪異。昭和の頃にひどい美人局に遭った男が、自分の部屋や名義を同姓同名の男に奪い取られてしまったらしい。その後、男は近所で遺体となって見つかったが、長らく身元不明遺体として扱われていたそうだ。それ以来、遺体が見つかった近隣では死んだ男の霊が彷徨い歩いているという噂が流れた。男は同じ名前か苗字の一人暮らしの人間を見つけると、部屋から相手を追い出し、名前や住所、人生そのものまで乗っ取るという。追い出された人間は数日後に身元不明遺体として発見されるらしい……。

 ニ〇××年の匿名掲示板にこんな話が上がっている。行方不明になった友人の話だ。長らくストーカーに悩まされている友人A(仮)がいるのだが、その友人と連絡が取れなくなってしまったそうだ。連絡が付かないため友人Aの住んでいた部屋を訪れると、その部屋には既に別の人間が住んでおり、友人Aは忽然と姿を消してしまったという。警察に連絡した方がいいかどうか迷っていることを掲示板に相談し、対して様々な書き込みが上がったが、数日後に事態は一変する。友人Aが見つかったという報告が掲示板に書き込まれたのだ。友人Aは身元を証明するものをなにも持たず、元の住んでいた部屋から一、二キロも離れていない場所で保護された。脱水と飢餓により意識障害を起こしており、いつ死んでもおかしくない状態だったという。友人Aになにが起こったのか。尋ねると、療養の最中に友人Aはこう答えた。

『A××』

 Aというのは友人の苗字、××というのは見知らぬ名前だった。療養開始から日が浅い頃に聞いた話では、この『A××』という人間にストーカーをされていたらしい。部屋を訪ねてきた相手を知人だと勘違いした友人Aは知人の名前を呼んで応対しようとしたところ、何故かストーカーが中に入ってきていたそうだ。おかしなことにスマホの電波が入らなくなり、パニックに陥ったところで『A××』というストーカーの名前を叫んだところ――気付けば病院で治療を受けていたという。家にいたはずなのに、いつの間に外へ出ていたのか。当然、本人には外に出た記憶はない。ちなみに、回復した友人Aは意識障害に陥った影響なのか、語った内容も含めて記憶が薄れてしまい、当時のことはあまりよく覚えていないと今は語っている。

 このスミイシアランの都市伝説によく似た話である。

 掲示板内では、スミイシアランの魔の手から逃れる方法をこう定義している。部屋に侵入される前にスミイシアランの現在の名前を言い当て、伝えること。もし間違った名前を挙げてしまうと、逆にスミイシアランは部屋の中に入ってきてしまう。

 今回はさらに行方不明者・身元不明遺体の双方からスミイシアランの全貌を追っていき、実際の該当事件を突き止めていく。




「ふー……」


 大衆娯楽文芸雑誌『NON VELLE』、通称ノベルのウェブ版特集記事の草稿から書き出し始めて数分。区切りがついたところでようやく息をつく。執筆の最中は呼吸の回数が減るのか、そのひと息で体に酸素が巡るのがわかる。

 今回私が担当しているのは、令和の都市伝説特集のひとつ【スミイシアラン】という項目だ。令和になってまことしやかに囁かれるようになった都市伝説の一篇で、この記事は他の都市伝説と合わせて総集編として文庫化される予定である。


(んー……魔の手から逃れるもなにも、どう考えてもストーカーの凶行だよなあ、こんなの。警察に通報一択)


 記事を執筆するにあたって、『スミイシアラン』の噂の出所と思われる電子掲示板を調べた。どうやら二年前の一月の書き込みが初出であるらしい。同時に、当時の事件の中で関連する出来事がないか確認した。ネット、新聞、雑誌と一通り照らし合わせてみたものの、それらしき共通項は見つからなかった。

 つまり、この都市伝説自体は創作された可能性が高い。昭和という幅の広い年代の曖昧さ。ストーカーじみた強行。名義の乗っ取り。なんとも超近現代『令和』らしいといえばらしいかもしれない。もっとも、私も昭和については聞いた知識でしかないのだが。

 現実に引き戻されて、小休憩とばかりにペットボトルのコーヒーに口をつける。ついでにスマホへと目を向けると、メッセージアプリの通知が画面に出ていた。友人からの短いメッセージだった。


『送った荷物届いた?』


 そういえば、旅行のお土産と貸していた本を送ると言われていたことを思い出す。今日辺り届くかもしれない。アパートには宅配ボックスが設置されていないので、直接受け取れるように今夜は早めに帰った方がいいだろう。『まだ』と情けない顔をした猫のスタンプで返事をして、モニターに向き直った。

 さて、作業再開。




 定時に上がってアパートへ帰ってくると、またしても隣のアパートの男と到着のタイミングがかち合ってしまった。男はゆっくりと自身の部屋に向かいながらも、私の方をじっとねめつけているようだった。見られているのはいい気分ではないが、もしかしたら私ではなく別のものを目で追っているのかもしれない。苦々しい嫌悪感を表情に出しながら、私は素早く自分の部屋へ引っ込んだ。

 なんとなく自分の生活音を出したくなくて、静かに部屋から部屋へ移動する。誰にも見られていないことはわかっているのに、カーテンが閉められていることを確認し、照明を最小限に絞り、音を出さないように部屋着に着替えた。そうしているうちに、面倒くさくなったのか落ち着いたのか、私の中の妙な緊張感が立ち消える。インターフォンのチャイムが鳴ったのはそんなタイミングだった。

 階下のオートロック前からの呼び出しだ。

 てっきり例の宅配だと思い、インターフォンのモニターを覗き込んで「うわっ」と声をあげた。

 相手は隣のアパートの男だった。


「えっ?」


 リビング内に自分の声が反響する。

 幸いにも応答ボタンを押す前だったため、こちらの声は漏れていない。私は呼び出しに応じることなく、固唾を呑んでモニターを見守った。

 男は不機嫌と緊張を張り付けた表情を一切動かすことなく、インターフォンを睨むように立ち尽くしている。小さなカメラには肩口までしか映っていないが、どうやら帰宅時のスーツ姿のままやってきたようだ。しかし、こちらには血気迫る顔つきで部屋に押しかけられるようなことをした覚えはない。

 再び呼び出し音が鳴る。


(このまま無視しとこ。これ以上なにかあったら誰かに相談して……)


 と、男の背後でアパートのドアが開く。誰かがアパートに入ってきたようだ。人が来たからか男は慌ててインターフォンを切った。


「はあ……」


 今のうちにスマホを手にしておいた方がいいかもしれない。咄嗟の思い付きに仕事用のバッグを目で探した。どこに置いたのかと記憶を探っていると、またしてもチャイムが響いた。

 今度は玄関前のインターフォンからだった。


(まさか、さっきの住人が開けたところで一緒に上がってきたんじゃ……)


 いつもの習慣で、ドアには鍵とドアガードの両方をかけてある。

 音を立てないように注意しながら、そっと覗き穴に近付いた。覗いてみればそこには暗い闇が広がるばかりで、アパートの廊下はうかがえない。

 つまり――


(相手も覗き込んでる……!)


 理解した瞬間、頷くように覗き穴の向こうが瞬きをした。

 ドア越しに相手の気配が伝わってくる気がして瞬時に身を離す。悲鳴はなんとか堪えたが、一度立ち上った気持ち悪さはなかなか拭えない。ひとまず見られないようにと、しゃがんで身を低くしておく。けれども相手はこちらの行動を理解しているかのように、今度は郵便受けをガタガタ鳴らした。


(なん……! なんで、なんなの、なんなの!)


 警察を呼ぼうと握っていたスマホを操作する。最後に使っていた画面が開きっぱなしだったようで、白い背景に『ネットワークに繋がっていません』という文字が現れる。

 喉を掴まれたように息が止まりかけた。命綱のスマホのwi―Fiが切断されている。それだけではなく、電波の受信状況には圏外のマークが表示されていた。


「なんで……」


 声が言葉になって漏れる。

 瞬間、見慣れない通知がスマホに広がった。いくつものポップアップバーが画面を埋め尽くす。ウィルスに感染したかのように表示が重なり、止まらない。こちらがいくら電源を落とそうとも画面をタップしようともスマホはいうことをきかない。

『部屋返せ』『名前返せ』『部屋』『名前』『返せ』『退け』『出ていけ』『くたばれ』『死ね』――文字がスマホを壊していく。


(これって……【スミイシアラン】の……?)


 自分が一日かけて執筆していた記事に似た光景に、混乱するより先に頭が真っ白になる。落ち着かないと――落ち着かないと、落ち着かないと、落ち着かないと。意味もなく同じ言葉が延々とリフレインした。

 やがてチャイムに合わせて、ドアを叩く音が追加された。ここまで激しく響けば隣人や下の階の人間が気付くかもしれないが、助けを待っている余裕はなくなっていた。一刻も早く現状を打破しなければ。真っ白の脳内の中で思い付いた行動は、まずベランダに向かうことだった。ベランダから、助けを求めよう。廊下を這うようにして進み、リビング前でどうにか立ち上がる。

 窓にかかったカーテンに手をかけようとしたところで、ふと、ノック音が消えたことに気が付いた。チャイムは未だ定期的に鳴っている。

 ……もしかして、ベランダから出てくることを見越して、待ち伏せをしているのでは?


「ひゃっ……」


 思わず窓から飛び退く。想像に呼応するように、窓に人の影が見えた気がした。

 駄目だ、他に方法は……。

 方法を模索することで一度頭が冷えたのか、肩の力を抜いて深呼吸をした。大丈夫だ、私にはこれがある。

 鞄の中に入っていた都市伝説の資料を探り、引っ張り出す。資料の中には行方不明者のリストがあったはずだ。リストを元に相手の名前を言い当てることができれば、もしかしたら退散してくれるかもしれない。もっと頭が冷静であったなら、そんな行為自体を否定していたのかもしれないが、今の私に余裕はなかった。

 私の名前は『ミサカミユキ』。

 【スミイシアラン】が隣のアパートの男性で、自分の名前か苗字と合致しているというのなら、少なくとも『ミサカミユキ』のうち、重なっているのは『ミサカ』の部分の可能性が高い。

 実はこれには心当たりがあった。

 リストの中に、漢字こそ違えど同じ『ミサカ』の人物がいたのだ。たまたまリストを眺めていて覚えていた。


(どこ、どこ、どこだ、どこだっけ……!)


 どこだったか。パラパラと紙束を捲って名前を探す。チャイムは急かすような連打音に変わっていた。心臓の音にも似たリズムに、じわじわと不安が侵食していく。


「ひぃっ……ひっ、ひ……」


 いつの間にか短い悲鳴と呼吸が連動していた。恐怖を声に出して逃がす。そうでなければ、さらにパニックを起こしてしまいそうだ。

 私の『ミサカ』は『三坂』と書く。

 リストの中の『ミサカ』は読みが同じで、漢字はまったく違うものだったと記憶している。確か『御坂』だったか『美坂』だったか。


『本間優悠……某屋小春……鱒淵史行……』


 苗字に絞って目を凝らしていくと、リストの下の方で『御坂庸治郎』なる人物を見つけた。急いで詳細に目を通す。

 八十代男性で一人暮らし。近所に娘夫婦が住んでおり関係は良好。目立った不良は特に見られず、最後の目撃情報でも普段と変わりなかったとのことだ。だというのに、三ヶ月ほど前から身内と連絡が取れなくなり、部屋から姿を消している、なんらかの事故に巻き込まれたとみられているが、未だに行方はわかっていない。


(これだ……!)


 直感的に思った。

 未だに彼自身は見つかっていないが【スミイシアラン】の被害に遭っていてもおかしくない。と、いうよりも自分がそう信じたい部分が大きい。目の前の情報は理論ではなく願望の塊だった。そうでなければ、今の訪問者をどうしろというのだ。

 これに違いない。そう思った瞬間、私は老人の名を叫んでいた。


「『ミサカヨウジロウ』!」


 口の中で音がひっくり返る。


「『ミサカヨウジロウ』、『ミサカヨウジロウ』、『ミサカヨウジロウ』!」


 除霊のための文言でもあるかのように、名前を何度も繰り返した。

 こんなことで本当に異変が止まるのだろうか。半信半疑であると同時に、意味のない行為であってほしいとも思っている。手が震え、膝が震え、呼吸も薄ら苦しい。

 玄関の音が唐突に止まった。

 チャイムもノックも、何事もなかったかのように静まり返っている。その場に人がいたのかすら怪しい。まるで私がずっと幻聴に悩まされていただけのようにも思える。

 音を立てないように、忍び足で玄関に近付く。ドアの向こうからは閑静な住宅街ならではの無音が広がっている。微かな生活音ですら鉄の扉に吸収されてなにも聞こえてはこない。

 覗き穴からは廊下の光が差し込んでいる。警戒して距離をとって廊下の様子を見るも、

人影もなにもない。

 ほっと息をつく。あれが【スミイシアラン】だったのかはわからないが、ひとまず脅威は去ったのだ。スマホをどこにやったかと探しかけて、再びチャイムが鳴った。

 心臓が飛び上がるほど驚いたが、音から察するに、どうやら階下のオートロック前からの呼び出しのようだった。おそらく友人の言っていた宅配便だろう。

 のろのろとモニターの前まで戻る。すっかりインターフォン恐怖症だ。


「……へ」


 モニターには隣のアパートの男が映っていた。


「あれ?」


 どうして、わざわざ下に戻ってインターフォンを鳴らしているのだろう。さっきまで玄関口にいたのはこの男ではなかったのか?

 ぞっと背筋に寒気が走る。私はとんでもない勘違いをしていたのではないだろうか。

 モニターの前で、男は諦めたように呼び出しを解除する様子が見えた。ぶつりと映像が切れた黒いモニターには、私の姿が反射して映っている。

 その背後に、もう一人誰かが立っている。

 勢いよく振り返ると、ひどい臭いが漂っていることに初めて気付いた。生ゴミを放置したとき以上の悪臭。有機物が腐った臭い。粘膜に刺激臭が触れて沁みるのがわかる。目の前の黒い人影から発されている臭いなのは明らかだった。


「どうして……? なんで……」


 これ――この人が【スミイシアラン】なのか。

 インターフォンにぶつかるのも構わず、後退る。壁に沿って黒い影と距離を取ろうと、必死でにじった。

 黒い影がにやにやと笑った気がした。


『私の名前はミサカミユキ』


 次の瞬間、黒い影が襲いかかってくる。動き出した瞬間、黒い影が小さく揺らいだのが見えた。影だと思っていたのは、全身に纏わりついている蠅だということに気付いて――ぷつりと意識が途絶えた。




 朝から雨が降っていた。

 気圧のせいなのか起床がひどく億劫で、ベッドから出てきたときにはほとんど余裕はない。雨による電車の混雑を思うと、身支度をする手も緩慢だった。

 溜息をつきながら出勤準備を進めていると、玄関のチャイムが鳴った。このアパートにはオートロックのドアはないため、宅配ロッカーの置いてあるエントランスを抜ければ、直接玄関のドア前まで行ける。


「……はい」


 不機嫌を前面に出したまま、玄関のドアを開けた。地味な色のスーツを着た二人の男が出迎える。


「おはようございます。朝の忙しい時間に申し訳ありません。兵藤と申します」

「村井です」


 兵藤と村井は名乗りながら警察手帳を見せた。僕は目が覚めるような気分で姿勢を正し、「どうも……おはようございます」と改めて挨拶を返す。


「実はこのアパートと隣のアパートの間で身元不明の遺体が見つかりまして。ここ数日でなにか変わったことはありませんでしたか?」

「遺体? ……変わったこと? 特にそれらしいことはなかったかと。まったく人が通らないってこともありませんし……」


 繁華街ならともかく、こんな住宅街で遺体が転がっているとは。真夏でも真冬でもない今の時期で、外にいて身元がわからなくなる遺体ができるとも思えない。いや、そもそもこんな目と鼻の先で遺体があったら普通気が付くだろうに、まったく気付かなかったというのもおかしな話だ。


「身元不明ってことはホームレスとか、この辺りの住人ではないとか……そういうことですか」

「詳細は捜査の関係上言えないのですが、身元に関しては現在照会中でして、一概にはなんとも言えません」

「そうですか……」


 『遺体』という単語に不気味さを覚えながらも、『なにか変わったこと』を記憶の底からさらう。


「あ……そういえば、大したことではないんですけど」


 二人からの相槌は特になかった。仕方なく、僕は独り言のように呟く。


「この前、隣のアパートの荷物が誤配されてきたんです。名前が似ていたので、多分宅配便の人が間違えたんだと思うんですけど、宅配ロッカーに入っていて。どうせ隣なので届けようと思っていたら、ちょうど持ち主が帰ってきたところに居合わせたんです」

「帰ってきたところに居合わせた?」


 じろりと村井の目つきが変わった気がして、僕は口早に説明した。


「ほら、ここから隣のアパートの玄関が見えるじゃないですか。ちょうど僕の部屋の正面の部屋が荷物の持ち主なんですよ。帰ってきたときに、たまたま部屋に入っていくところが見えたんです」


 本当に部屋の住人かどうか、自信がなくて必要以上にじろじろ見てしまったのは申し訳ないと思っている。


「それで、アパートのエントランスでインターフォンを鳴らしたんです。でも、居留守を使われて全然応答がなくて……しょうがないんですけどね、知らない人間がインターフォンを鳴らしても今時は出てくれませんから」

「その後、荷物はどうなされたんですか」

「宅配ボックスに入れようと思ったんですけど、設置されていないようだったので宅配便に連絡して引き取ってもらいました。変なことをせずに、最初からそうすればよかったなって今では思ってます。遺体とは関係ないかもしれませんけど、それくらいですかね」


 兵藤は途中でメモを取りながら、僕の説明を書き留めていた。が、村井は鋭い表情を隠すことなく、僕の顔を眺め続けていた。


「……ありがとうございます。参考になりました。またお話をお伺いすることがありましたらご連絡を差し上げたいので、お名前と電話番号を控えさせていただきたいのですが」

「わかりました。僕は『ミツザカミユキ』と申します。電話番号は――」


 メモをし終えた兵藤は、懐に手帳をしまいながらなんの気なく告げた。


「『ミユキ』とは珍しい名前ですね」

「……よく言われます」


 苦笑しながら頭を下げると、二人も軽く会釈して去っていった。

 ドアを閉めたところで隣の部屋から話し声が聞こえてきた。どうやらこのアパートの住人に聞いて回っているらしい。朝の忙しい時間だということもあって、隣人はご立腹の様子で不機嫌な声がこちらまで響いてきた。次第にやりとりが不穏な熱を帯びてくると、二人の刑事は部屋の中に入ったようで廊下は静かになった。

 自分も急がなければと時間を確認した。ああ、もう職場に連絡を入れた方がいいかもしれない。遅刻は確定だ。

 スマホはどこにやったか。

 ベッドの近くにあるはずのスマホを探そうと踵を返す。と――

 玄関のチャイムが鳴った。

 元々自分の部屋を訪れる人間など少ないというのに、こんな平日の朝から何度も来訪者があるとは今日は妙な日だ。

 なんとなく嫌な予感がして、遠巻きにドアスコープを覗く。

 ドアの前に立っていたのは女性とも男性とも判断が付かない黒い人影だった。だが、僕はその人のことを知っている。


(隣のアパートの人だ……)


 声に出していないはずなのに、僕の心の声に呼応するようにして、目の前の人影が笑ったような気がした。

 部屋のどこかでスマホが鳴っている。

 ドアのチャイムと共鳴するように、不協和音が部屋を襲った。

 『部屋返せ』『名前返せ』『部屋』『部屋』『部屋』『名前』『名前』『名前』『返せ』『返せ』『返せ』『退け』『出ていけ』『くたばれ』『死ね』――機械音声ではなく、金属をキリキリと切り刻んで無理やり音を作っているような、不穏な音だ。


『返せ』


 ドアの向こうで、はっきりとそんな声が聞こえた。


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