売れ残りの家
考えながら部屋をゆっくり見ていると、急に背後が気になった。誰かに呼ばれたような、そんな感覚になったのだ。振り返ってみるとそこにあったのは、真っ白なクローゼットだった。
両開きの結構広さのあるもので、傷一つない白い扉が眩しい。
深く考えず、私はそこに手をかけ、扉を思い切り引いて開けた。
中には半透明の衣装ケースや、大きな四角い籠に乱雑に入れられた小物などがある。小さな段ボールに入っているのは、パックご飯や缶詰など、非常食と見られる。
何の変哲もないクローゼットの中に、やや拍子抜けして扉を閉めようとした。
途端、ぶらりと何かがぶら下がる。
真っ黒で、ごわついた艶のない髪だった。かなり量の多いそれが、上からただぶら下がって私の顔を撫でたのだ。まるで、誰かが天井から顔を生やしたみたいに。
かさりと乾燥したそれが頬に当たり、肌に突き刺さるような不快感を覚えた。髪はまるで私が扉を開けるずっと前からそこにあったかのように、揺れることもなくただひっそりと存在していた。何が起こったのか分からないその恐怖に、ただ全身が固まった。突然現れた異常な光景に、頭が追い付いていない。
一体何が起きた。この生々しい髪の感触は。
叫び出しそうになったところで、声を吞み込んだ。パニックになりつつも、頭の隅の方で、お腹が大きい弥生さんのことが浮かんだのだ。私の悲鳴に驚いて、二階に上がる途中で転んだりでもしたらーー
自分でも驚くぐらいそんなことを気遣い、ただ無言で思い切り扉を閉めた。息すらするのを忘れていたと思う。扉を開けて、中を見て閉める、たった数秒間の出来事。
「遥さん?」
柊一さんが振り返って私を見る。私は扉に手を置いたまま、柊一さんの顔を見つめ、ただがくがくと震えた。声が出てこない、自分でも思った以上に恐怖に打ちひしがれていたようだ。
「しゅ……さん、こ、こ……」
混乱しながら小さな声で告げると、彼の表情が険しくなる。そして私を少しだけクローゼットから離すと、勢いよくその扉を開けた。
だが、中はしんと静まり返っていた。
荷物が置いてあるだけで、髪の毛一本落ちてはいない。何も異変はなく、普通のクローゼットになっていた。
「何かあったんだね?」
柊一さんが尋ねてきたので、私は頷いた。未だ震える手を自分で抑えつつ、何とか説明する。
「かみ、髪の毛が急に現れて……う、上からぶら下がってたんです。長い黒髪で、多分、女の人の……」
かろうじてそれだけ言った私を見て、柊一さんが眉を顰める。静かに扉を閉めて、私の手をそっと両手で包んだ。
「怖かったでしょ。ごめん、気付くのが遅くて」
温かな体温に、徐々に冷静さを取り戻していく。柊一さんの手からは、なんだか強い力が流れ込んでくるみたいだった。自然と震えが収まり、気持ちが落ち着いてくる。何度か深呼吸を繰り返し、私は小さな声を出した。
「すみません……もう、大丈夫です」
「本当に?」
「はい、落ち着きました」
「遥さんの手、小さいね」
突然そんなことを言ったので、今度は、今更ながら柊一さんに手を握られているということを思い出し、顔が赤くなってしまった。いや、彼の手はもう何度か握ってる。でも、意識があるときに正面からこうして手を包まれると、やっぱり緊張度が変わってしまう。
「あ、ありがとうございました」
恥ずかしさから、すっと手を離した。顔だけ見れば女性と間違えてしまいそうな人だけど、手は凄く大きくて男性、って感じだ。それが何だか凄くドキドキさせた。
でも当の本人はまるで何も考えていないようで、クローゼットを見つめて言う。
「さて……髪が長い女性、ねえ。弥生さんのお母さんが見たのと同じ人かなあ。他に何か気付いたことはある?」
「すみません、髪の毛しか見えなくて……」
「謝ることじゃないよ、驚いたでしょう。大丈夫? 遥さんは暁人のところへ戻ろうか?」
「い、いえ……大丈夫です」
「そう? 無理しないでね。じゃあ、もう少しだけ見てみよう」
いつ浄化の仕事が必要になるか分からないのだから、彼から離れないようにしないと。自分を言い聞かせて、私は柊一さんに続いた。
他の場所を一通り見たけれど、他には何も見えなかったので、暁人さんが待つ部屋へと戻ることにした。
あの髪の毛に遭遇したあとも何か起こるんじゃないかとひやひやしていたが、ほっと胸を撫でおろす。いや、霊と会わなければ解決しないのだから、会えないことに安心していちゃだめなんだけれど。
暁人さんが待つ部屋の扉を開けると、彼はまだ床に胡坐をかいたままパソコンを覗き込んでいた。顔を上げて私たちを見る。
「おかえり。どうだった?」
「ただいまー。遥さんがちょっと女性の髪の毛らしきものを見たんだけど、僕は見逃しちゃってね。暁人はどう?」
「駐車場だった期間が長いみたいだな。まだ調べ切れていない」
暁人さんが頭を掻きながら言う。まあ、ほんの十分くらいしか時間は経っていないので、すぐに結果を出すのも難しいだろう。
柊一さんは床に座り込み、うーんと唸る。
「この周辺、結構古そうなお宅もあったよねえ。いっそ直接聞きに行った方が早いかもよ?」
「まあ、その方が他の情報も色々聞けるからなあ」
「え、もしかして近所の人に聞き込みに行くんですか!?」
つい口を挟んでしまった。まるで警察みたいだ、と少しわくわくしてしまったのだ。柊一さんが少し笑いながら答えてくれる。
「まあ、そんな感じ。でもちゃんと色々気を付けてやらないと、反感を買ったり三石さんの立場が悪くなったりするから難しいよ」
「あ、なるほど……」
「でも情報は多い方がいい。少しみんなで行ってみようか。ついでに、三石さんにもこの家についてもう少し詳しく聞いてみよう。遥さんが遭遇した髪の毛もそうだし、僕と暁人が複数の霊を感知したから、ここに何かがいることは間違いないんだ」
柊一さんの言葉に私たちは頷き、三人で立ち上がった。そのまま一階へ降りる途中で、暁人さんが心配そうに『大丈夫ですか?』と声を掛けてくれる。女の霊を見た、という発言を聞いて、気にかけてくれているのだろう。本当に優しい人達だ。笑顔で返事をしておいた。
リビングにいた三石夫妻に、暁人さんが声を掛ける。
「少しお話を伺ってもいいでしょうか」
「ええ、もちろんです、どうぞ」
立ち上がりかけた弥生さんにそのままでいいと柊一さんが伝え、私たちは立ったまま話を聞くことにした。
柊一さんが言葉を選びながら話し出す。
「この家についてですが、早速女性の霊を見まして」
「え!?」
「何かがいる、というのは間違いないと思います。ただ、見たのは一瞬でしたし、正体も分かっていないので、まだすぐに解決とはいきませんが。まず、もう少し情報が欲しいと思います。ここが建つ前は駐車場だったとのことですが、それは調べて間違いないと分かりました。では、それより以前のことはご存じですか?」
三石さんが首を振る。
「いいえ……駐車場だった、というのは僕たちも調べました。そこで満足してしまって、それより昔の事は……」
「そうですよね、それが普通だと思います。では、家を購入したときについて詳しく伺っても?」
「はい、と言っても特に話すようなこともないと言いますか……ここの一画に建売の家が一気に出来まして、売り出されているのをネットで見たんです。ちょうどこの辺の土地はいいな、と思っていたのですぐに見学に行きました。この一つが最後の一軒で、建ってから半年ほど経っていたかと」
「半年?」
暁人さんが少し驚いたように声を上げた。
「家が建って半年も売れていなかったんですか? 建売の家が中々売れないことは珍しいことではないですが……周りは売れたのにここだけ、ですか」
すると弥生さんが慌てたように理由を説明する。
「ええっと、中々売れなかったのには一応理由があるみたいで。外を見て貰えばわかると思うんですけど、うちの家の前がゴミ捨て場なんですよね。それで、買い手が中々つかなかったみたいで。やっぱり、他のおうちよりは値引きして購入させてもらいました」
なるほど、と頷いた。ゴミ捨て場が家のすぐ前にあるというのは、気になる人もいるのかもしれない。一生住む家となれば購入を渋る理由の一つとしては十分ありえる。それでここだけ売れ残っていたのか。




