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上着の汚れ

「……あれ」


 振り返り、焦る。扉が閉まっていたからだ。慌ててドアノブを握り、扉を引いたところで、自分の焦りはさらに増した。


 開かない。


「遥さん? あれ?」


「どうした柊一」


「ちょっと待って! 開かない!」


 扉の向こうからそんな二人の声がする。自分も必死に扉を引いてみるも、扉はびくともしない。かなり古く、どう見ても軽い木製の扉が、だ。


「柊一さん! 暁人さん!」


 必死に声を上げるが、向こうから返ってきたのは信じられない言葉だった。


「遥さん! 返事して!」


「井上さん! 何かあったんですか? 井上さん!」


 さっと血の気が引いた。私は全力で二人の名前を呼んだのに、まるで届いていないのだ。あっちの声は聞こえるのに。


 扉に縋りつき、必死に叩きながら、喉が潰れそうなほど声を張り上げる。


「います! ここにいます! 暁人さん、柊一さん!」


 届いている様子はなかった。扉の向こうから、二人の焦った声が聞こえてきたからだ。


「何かあったんだ!」


「返事がない!」


 力が抜けてふらりとよろめいた。自分だけ違う世界へ飛ばされてしまったみたい。存在が無くなってしまったのだろうか。


 二人が扉を必死に開けようとしているからか、目の前で小刻みに扉が揺れている。そこから目を離すことなく、ただパニックになった頭で懸命に考える。どうすればいいんだろう、三階だから窓からは無理だ。他に外に出られる場所もない。


 呼吸が自然と速くなる。


 胸につけていたランニングライトだけが救いだった。こんな場面で明かりが一つもなければ、私はすぐに気を失っていただろう。


「なんで……どうして……出して」


 震える声が口から漏れる。扉はいまだ揺れ、二人の声が響いている。


 必死に回してもドアノブは回らない。押しても引いてもびくともしない。どうして閉じ込められているんだろう。


「出して! ここから出して!」


 誰に言うわけでもなく、声の限り叫んだ、その時だった。



 背後に、気配を感じた。



 生ぬるい誰かの吐息が、肩にかかっている。


 すぐ後ろに何かがいる。触れるか触れないかぐらいの距離で、じっと私を見つめているのを肌で感じていた。間違いなく生きている人間なんかではない、嫌な空気感が私を包んでいる。


 息すら止まり、そこから一歩も動くことが出来なくなる。



「返事して!」


 すぐ前の扉の向こうには、あの二人がいるはずなのに、その声はとても遠く感じた。私の意識が離れていっているのだろうか、耳に膜が張ったような、そんな感覚に陥っている。


 耳にかかる吐息で、自分の髪がわずかに揺れる。あまりの気持ち悪さに吐いてしまいそうだった。


 ここから出して、お願い、外に出して。私を解放して。


 心の中で必死に懇願した。どうして閉じ込めるのだろう、こんな怖い目に遭わせて何が目的なの。ここから出して……。


 ライトで丸く照らされた世界は、同時に隅に闇を作り出している。その暗闇の中で、もぞもぞと何かが動いているのを捉えた。カーペットの上で、何かが蠢いている。


 血だまりだった。


 先ほどはなかったはずなのに、赤黒い血の塊がそこにはある。直径三十センチはありそうな、大きな塊だ。それがまるで生き物のように小さく動いているのだ。信じられない光景に、もはや叫ぶ余裕すらなかった。ただ目を見開き、愕然とその異常な物を見るしか出来ない。意思を持った血だまりが、こちらをあざ笑うかのように動き続ける。


 そして同時に、自分の背後でも何かが動いている。


 血だまりから視線を外せずにいる私の視界の端に、何かが映り込んだ。赤い。真っ赤に染まった手だ。たった今血が付いたかのように、ぬるぬるとした血液が光っている。鉄のような生臭い匂いが鼻につく。


 その手が、そっと私の肩に置かれる――


 

 ぽん、と肩を叩かれた瞬間、喉から叫び声が漏れた。そしてそれとほぼ同時に、目の前の扉が大きな音を立てて破られたのだ。暁人さんが蹴ったのか、片足を上げたままの姿が見える。


「井上さん!」


「遥さん、無事!?」


 二人が呼びかけてくれて、私は一気に力が抜けた。その場に崩れ落ちるように膝をつき、ただがくがくと震えて返事すら出来ない状態だった。


 柊一さんが素早く私の隣に駆け寄り、背中をさする。


「大丈夫!? 何があったの、全然こっちの声に反応しないし」


「血、血が……あって……私、叫んだのに、聞こえ、届かなくて」


「落ち着いて。ゆっくり深呼吸してごらん」


 隅の方を見ても、今は血だまりはすっかりなくなっていた。それを確認した後、言われた通り深呼吸を繰り返してみる。その間ずっと柊一さんが背中をさすってくれているぬくもりを感じていた。


 心配そうな顔が私を覗き込む。


「大丈夫?」


 私はとりあえず頷く。暁人さんは周囲を細かく観察し、眉を顰めながら言う。


「何かがいた空気が残ってるな。だが、すでにいなくなってる。井上さんに縋りついてきたのかも」


「遥さん、とりあえず部屋から出ようか」


 柊一さんが支えてくれたので、私はやっと立ち上がる。ふらふらしながら廊下に出て、長い息を吐いた。柊一さんが私に尋ねる。


「声、出してたんだね? 僕たちからは全然聞こえなかった」


「叫んでました。柊一さんたちの声も聞こえてました。でも私の声は届いてなかったみたいで」


「なるほど。何か見た?」


「カーペットの上には動く血だまりと……あと、真っ赤な手。血で染まった真っ赤な手でした。見えたのは手だけ。とにかく怖くて……」


 私が震える声で説明をすると、柊一さんは申し訳なさそうにうつむいた。


「ごめん。やっぱり君を連れてくるのは間違ってた。遥さんには危害が及ばないように頑張るって約束したのに……」


「そんな! 私が二人から離れたのがいけないんです、お二人のせいじゃありません!」


 怖さより、落ち込んでいる柊一さんの顔を見る方が辛かった。二人とも私を凄く気遣ってくれてるし、こうして助け出してくれたのだから、そんなに責任を感じてほしくない。


 私たちの後ろにいた暁人さんも、同じように項垂れていた。


「井上さん、申し訳ありませんでした。怖い目にあわせて」


「暁人さんも……! あの、私も油断してたんです。二人ともそんなに気にしないでください。怖かったけど、無事ですし」


 慌ててそう言った。暁人さんは顔を上げ、私の右肩をちらりと見ると、なおさら厳しい顔になる。


「井上さん、上着を脱いでいただけますか」


「え、あ、はい……」


 言われるがまま、一旦ライトを外してパーカーを脱いだ。暁人さんに借りた白いパーカーだ。それを差し出すと、暁人さんが無言で広げた。


「あっ!」


 無我夢中で全く気付かなかったが、パーカーの右肩には赤い手形がくっきりと残っていた。全身の身の毛がよだつ。


 暁人さんが観察しながら言う。


「井上さんが見た手の仕業ですね」

 

「汚れたのが暁人の服でよかった!」


「柊一、そういう問題じゃないんだが……まあ、それもそうか」


 頭を掻きながら納得した暁人さんは、自分が羽織っていた黒いジャケットを脱いだ。そしてそれを私に差し出す。


「こちらを着ていてください」


「え!? い、いや、それじゃあ暁人さんが寒いです!」


「俺は大丈夫なんで。冷えますよ」


 ずいっとさらに差し出され、おずおずと受け取り、お言葉に甘えて羽織った。恐怖で心がいっぱいだったというのに、彼のジャケットを羽織ったことにより、別のことに意識が向く、おお、暁人さんが脱いだばかりなのでそのぬくもりが残っている……って、何を考えているんだ自分は。


 またしても大きかったので、袖を軽く折り曲げておいた。

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