ピアノ
「ここは、テストに出るからよく覚えておくように。
何か質問はあるか?」
荻原先生の説明は分かりやすい。
壊滅的な私の数学の成績も、先生が来てから少しずつ上がっていた。
まぁ・・・先生に呆れられたくなくて、必死に勉強してるのもあるけど。
「先生、質問があるんですけど」
クラス委員の佐々木さんが手を上げて言った。
「ああ。どの問題だ?」
「その・・・数学のことじゃないんです・・・」
その言葉を聞いて、皆が次々と言葉を続けた。
「先生、ペルーに行っちゃうって本当ですか?」
「私たちを置いて行っちゃうの?」
「いつ行っちゃうんですか?」
先生は、困ったな・・・という顔をした後
静かに口を開いた。
「ああ・・・その話なら本当だ。
だが、すぐじゃない。お前たちが進級するのを見届けてからだ」
えぇ~!3年は当然持ち上がりだと思ってたのに
そういう声に、先生が笑って答える。
「はは、お前たち忘れたのか?
4月からは、このクラスの本当の担任の原口先生が戻ってみえる。
最初から、俺は3月いっぱいの予定だったからな」
先生が臨時だなんて、クラスの誰もが忘れてしまっていた。
それだけ、荻原先生は私たちにとって身近な存在になっていた。
「よし、授業を続けるぞ」
その後は、集中しようとしても、どうしても先生の言葉が
耳に入ってはくれなかった。
昼休み、少し早くお弁当を食べ終わった私は
廊下を歩いていて、音楽室から聞こえてくるピアノの音に気がついた。
「サティのJu te veux 誰が弾いてるんだろう?」
音楽室のドアを少しだけ開けて、中を覗いて見た私は
ビックリして、つい声を出してしまった。
「先生!?」
ピアノを弾いていた先生も驚いた顔でこちらを見た。
「結菜?なんだ、聴いてたのか?」
「あ・・・すみません。廊下を歩いていたら
ピアノの音が聴こえたので・・・・・」
「いや・・別に構わないさ。随分久しぶりに弾いたから
指が錆付いちまってて恥ずかしいけどな」
「そんな・・・すごく素敵な音色でした」
そう・・・誰を想って弾いてたんだろうと
少し妬ましさを感じるくらいに、素敵な演奏だった。
「はは、それは嬉しいな。
そういえば、お前もピアノ弾くんだよな?
ちょうどいい。何か聴かせてくれないか」
私が?咄嗟に断ろうとした私は、先生と目が合って
言葉を飲み込んでしまった。
軽く頷くと、ピアノの前に座っていた先生が立ち上がって
私のために場所を開けてくれた。
気持ちを落ち着けようと、ゆっくりと深呼吸しながら
椅子に座る。
一瞬目を閉じてから、私は静かに弾き始めた。
思った以上に感情を込めて弾いていた私は
演奏が終わってボーッとしていた。
先生の拍手にハッとする。
「愛の夢・・・か。上手いじゃないか、結菜」
どうやら、お世辞ではなくそう思ってくれてるらしい。
深い意味もなく選曲してしまったけど
なんだか、告白してしまったみたいに恥ずかしくなった。
「いえ・・そんな・・・。ただ、リストが好きで・・・」
そんな私に先生が微笑む。
「いったい、誰のことを想って弾いてたのかと
ちょっと妬けたけどな」
さっき私が想ったことと同じことを・・・それを聞いて
考えるより先に、言葉が口をついてしまった。
「先生こそ、Ju te veux なんて、随分意味深ですよね?」
てっきり笑って冗談で済ますのかと思った先生の顔から
笑顔が消える。
その真剣な表情に、鼓動が止まる気がした。
「・・・・・先生?」
「結菜、俺は・・・」
先生が口を開こうとしたまさにその瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「時間切れだな。さ、授業に遅れないようにしろよ?」
私の頭をポンっと叩くと、先生はそのまま音楽室を出て行ってしまった。
『俺は・・・』その後、なんて言おうとしたの?
教室へと向かいながらも、聞くことのできなかった言葉の続きが
気になって仕方がなかった。