帰り道に道祖神を祀る娘と粗末に扱った悪人の末路。
今は少し昔。
とある田舎の夕暮れどき。
東の空が少しづつ薄暗くなってきたころ。
川沿いの小道を粗末な着物を着た娘が一人、風呂敷包みを抱えて歩いていた。
彼女は、隣村にある親戚にお使いに行った、その帰り道であった。
道の両側には背の高い雑草が生い茂り、ざわざわと風に揺れるばかりで他に行きかう人の姿は見当たらない。
彼女は、朽ちかけた道祖神を見かけると、しゃがみこんで手を合わせた。
いかにも信心深く、純朴そうな娘であった。
その様子を、立ち木の陰からじっと嫌らしい目付きで観察する男が居た。
この男は、各地で凶悪な犯罪を繰り返して逃げてきた悪人だった。
今日は、たまたますれ違っただけの娘を、ひと気のない場所で襲ってひどい目に合わせてやろうと考えていた。
その娘は、地味で薄汚れた着物を着ていたが、女鹿のように健康そうな身体をしていた。
彼女が泣き叫ぶ様子を想像するだけで、胸が高鳴りよだれが溢れ出るような思いだった。
さて、なんと言って声をかけようか。
などと考えていると、いつの間にか周囲に霧が発生していた。
この辺りは寒暖の差によって、川から吹く風が霧を運んでくることがあった。
これは渡りに船というものだ。
どんな悪行を働いても、この霧がすべてを覆い隠してくれることだろう。
男は、娘の背後に忍び寄る。
生暖かい風が濃密な霧を運んできた。
周囲はすぐに真っ白になり、娘の姿が遠ざかった。
娘の姿を見失わないように、その男は全力で駆けた。
だが、どれだけ走っても走っても、まったく娘に追いつけない。
何かおかしい。
自分は何を追いかけているのだろうか?
やがて、息が切れた男は、娘の姿を完全に見失ってしまった。
狭い一本道である。
途中で追い越すことなどは考えられない。
男は戸惑って周囲を見回すと、見覚えのある朽ちかけた道祖神を見つけた。
霧で迷い、元の道を引き返してしまったのだろうか。
男は、苛立たしげに道祖神を蹴り飛ばした。
見上げると、月も星も全く見えない暗闇だった。
どこかで自分を嘲笑うような笑い声が聞こえた。
あれは、雨蛙の鳴き声だろうか。
男は、ここに居てはいけないような気がして不安になった。
今夜は、もう家に帰ろう。帰る家も無いのにそんな気分になった。
男は、これまでの人生を振り返った。
盗みに恐喝、強盗、殺人。悪行だらけの人生だった。
漠然と、もう悪行からは足を洗って真っ当な暮らしをしようと考えた。
遠くから灯りを持った人影が近づいてきたとき、この男は考えた。
真っ当な暮らしを始めるにあたって、元手が要る。
そのために、あの人影を襲って金品を奪おう。
灯りを持った人影は女だった。
「お帰りなさい。あなた」
周囲はすっかりと暗くなっていた。
あの女は、自分を誰かと勘違いしているのだろう。
実に間抜けな女である。
男は、女に逃げられないようにゆっくりと近づいた。
女は、無防備に男の手を握った。
「今夜は道祖神さまのお導きで、あなたを迎えに来たのよ」
女の手の甲には、赤い大きな痣があった。
そこで男は気が付いた。
自分は、この女に見覚えがあった。
これは、女房の手だ。
ずっと昔に、喉を掻き切って川に流してやったはずの女だった。
「さぁ、一緒に帰りましょう」
女の喉がぱっくりと割れていて、真っ白な頸椎が見えている。
女の眼窩は腐り落ち、真っ暗な深淵が男の顔を覗き込んでいた。
男は、声にならない悲鳴を上げた。
手を振り払い逃げようと思ったが、金縛りにあったように動けない。
それどころか勝手に足が動いて、手に手を取り合って一緒に暗い夜道を歩き出した。
その後、その男と女が何処に帰ったのか誰も知らない。
ただ、朽ちかけた道祖神だけは、今も村境に祀られている。
--
道祖神
厄災の侵入防止のため、村の守り神として集落の境の道の辻に祀られている石仏。
ホラーとは何かを考えてみました。
今回のテーマは『怪談・和風』です。