あばれ矢
夜が明けるにつれ、風はより強くなっていた。その風が連れて来た真っ黒な雨雲が、周囲を夜明け前の暗さに戻していく。吹き荒れる強風の中、小柄な少年が籠を胸に抱いて走ってきた。しかし、少年は足を滑らせると、籠ごと前へ倒れ込んだ。
「何だよ!」
転んだ少年、太助は足元に転がった籠を眺めつつ声を上げた。籠からは、運んでいた礫がほとんど飛び出してしまっている。太助は足元をよく見ていなかったのを心から後悔した。なぜかと言えば、朝日の姿に思いを馳せていたからだ。こうして礫を籠に戻している間も、朝日の姿が頭から離れない。
太助は自分が領主様になったつもりで、朝日を横に侍らせる姿を想像してみた。しかし、どうしても思い描くことができない。自分は絹ではなく洗いざらしの綿を羽織っていて、隣では嫁に行ってしまった幼馴染が、握り飯を頬張りながら座っている。
「やっぱり、鍬持ちは侍にはなれないか……」
そうつぶやきながら、再び籠を持って歩きだした。しかし、立てかけた萱の後から、何か聞こえた気がして足を止める。
『誰かが小便でもしているのか?』
太助は声を掛けようとしてとどまった。そうだ。合言葉だ!
「朝日!」
萱の向こうへ声を張り上げたが、何も返事が帰ってこない。太助は籠を捨てて走り出した。何かが自分の後を追ってくる。
ヒュン!
背後から風切音が聞こえた。次の瞬間、太助の体が妙に軽くなる。悲鳴を上げる太助の頭は、体から離れて宙を飛んでいた。
* * *
後藤清兵衛秀包は、村の入口へ続く畦道を眺めていた。清兵衛の鋭い目は、あぜ道の向こうに戦気とでもいうべきものを捉えている。背筋がピンと伸びたその姿は、村のものが慣れ親しんだ好々爺のそれではない。
「皆のもの、備えよ!」
清兵衛は腹の底から響く声で、逆茂木の背後に居並ぶ者たちに声をかけた。壮年で戦慣れした者たちは、貞盛が率いる正面にいる。搦め手にいるのは年寄りや、未だ戦を知らぬ子供たちだ。それでもここを抜かれる訳にはいかない。
「槍隊は逆茂木の後ろに身を隠せ。弓手は上から矢を放つ用意だ」
清兵衛の言葉に男たちが動く。若者たちが明らかに緊張している一方で、年寄りたちは動きこそ遅いが、落ち着いて行動していた。老いてはいても、戦場から生きて帰ってきた者たちだ。清兵衛はその背中を複雑な思いで見つめた。
本来、領主同士の争いなど、鍬持ちたちにはどうでもいい話である。しかし戦に負ければ、田は刈り取られ、女房や娘が犯された。それを避けるために、鍬持ちたちは槍を手にしてきたのだ。今やその領主たちは何のあてにもならず、こうして自分たちだけで村を守っている。
「雑兵には目もくれるな。将を、兜首を狙え。鹿を狩るつもりで、落ち着いて狙うのだ」
清兵衛は湧いて来た後悔の念を頭から振り払うと、弓を手にする子供たちに声をかけた。子供たちが緊張した面持ちで頷く。清兵衛がそれに答えようとした時だ。
「ギャ――!」
背後から子供の悲鳴が上がった。ただの悲鳴ではない、断末魔だ。清兵衛が声のした方へ視線を向けると、真っ黒な姿をした何かが、一目散に清兵衛へ向かってくるのが見えた。
『獣か?』
一瞬そうも思ったが、銀色の刃を手にしているのを見て、清兵衛はそれが何者かを理解した。こちらをかく乱すべく送り込まれた乱波だ。清兵衛は手にした槍を投げつけると、腰に履いた太刀を引き抜いた。まだ髭が生えていない子供が、清兵衛の前へ出て、弓をつがえようとする。
「下がれ!」
清兵衛の叫びもむなしく、太刀にしては長く、槍にしては短い刀が、あっさりと喉を切り裂く。
「ウワアァァ――!」
切られた子供が声にならない悲鳴を上げた。その喉元からは血飛沫が、まるで驟雨のように辺りに飛び散る。乱破はその赤い雨の下を、身を屈めて清兵衛へ向かってきた。
「引け、お前達の手に負える相手ではない!」
清兵衛は子供たちに声をかけると、下段から太刀を振り上げた。乱破はその切っ先を避けつつ、刀を正眼に構える。その姿は刀と同じく独特だ。背は高いが痩せ気味なせいか、妙に手足が長く見える。
「何やつ!」
「じじい、聞くだけ野暮と言うものよ。存分に長生きしただろう。さっさとあの世に行け」
そう言い放ちつつ、清兵衛を救うべく駆け寄ってきた子供の首を素早く刎ねる。それを見た清兵衛の眼尻が上がった。
「野伏に名乗る名などないか!」
清兵衛の言葉に、乱波として村に潜入した土佐守は、無言のまま口の端を僅かに持ち上げた。泥を塗った顔からは、大きく見開かれた目だけが爛々と輝いている。
「進め!」
逆茂木の向こうから、野伏たちの鬨の声が上がった。乱波でこちらを混乱させている間に、土手に並べた逆茂木に取り付くつもりらしい。
「こいつは儂が切る。お前たちは野伏たちを迎え撃て!」
清兵衛の声に、こちらに走り寄ってきた者たちが持ち場へ戻っていく。しかしながら、その後ろ姿は明らかに浮足だっていた。この男をさっさと始末して、指図に戻らないといけない。清兵衛はそう思いながらも、中途半端に長い太刀を前に、相手の間合いをはかりかねた。
「前を向いてもらっては困るのよ」
そう告げた土佐守が上段から刀を振るう。清兵衛は体を入れ替えながら、その切っ先を刀で弾いた。しかしその鋭い斬撃に、清兵衛の手が痺れる。
土佐守は弾かれた刀を素早く下手に持ち変えると、今度は清兵衛の手元を下から狙う。清兵衛は足を引いて辛うじてそれを外すと、空いた土佐守の胴へ、横合いから刀を送り込んだ。
土佐守は刀を振った勢いを使ってそれを避けつつ、今度はお返しとばかりに清兵衛の胴を狙ってくる。清兵衛は軸足で体を回転させると、その太刀を正面から受け止めた。
ギシ、ギシ、ギシ――。
刃と刃がせめぎ合う耳障りな音が響く。清兵衛は土佐守が押し込む太刀に体を下げながらも、その顔をじっと見つめた。目の前にあるよどんだ瞳には、人を切り慣れた者だけが持つ、狂気の光が宿っている。
「じじい、どこかで見た顔だな。その顔、確かに見覚えがある……」
刀を合わせながら、土佐守が清兵衛に小首をかしげて見せた。
「誰かと思えば、人取り橋の閻魔殿か。あの時は死んだ兄よりよほどに恐ろしい男だったが、こんなところで鍬持ちをやっているとは思わなんだ」
そうつぶやくと、力で刀を押し込んでくる。清兵衛は倒れそうになる体を必死に支えた。早く皆の采配を取らねばならない。そう思って刀を返すが、何より清兵衛自身が刀を重く感じ始めている。
「老いというのは無常なものだな。あそこで兄と共に死んでおれば、米沢殿に立派な墓を建ててもらえただろうに……」
「お主、伊達の手の者か?」
「まさか、小坊主崩れのただの野伏よ」
土佐守が正眼に構えた太刀を振る。今の清兵衛にそれを受ける力はない。土佐守の長い刀は清兵衛の体を弾き飛ばすと、その肩口から胸を切り裂いた。全身に火がついたような痛みが走る。
「本物の所へ行け!」
パ――ン!
とどめを刺すべく、土佐守が刀を振り上げた時だ。不意に甲高い音が辺りに響いた。次の瞬間、土佐守の目が大きく見開かれ、手から太刀が力なく滑り落ちる。
「田所、次だ!」
若く凛とした声が聞こえた。膝をついた清兵衛の視線の先では、朝日が田所から受け取った種子島を構えている。
パ――ン!
再び甲高い音が響く。土佐守は見えぬ鞭で打たれたかのように震えると、清兵衛の前へばたりと倒れた。
ポツ、ポツ、ポツ――。
土佐守の泥を塗った顔に水滴が落ちてくる。とうとう雨が降り出したらしい。それは清兵衛の足元にある血溜まりにも小さな波紋を描いた。
「つ、鶴殿……悪いな、左馬の……背中は、甚佐に……」
そこまで告げた所で、土佐守の目から光が消える。同時に、清兵衛の視界も次第に暗くなっていく。やはり自分は畳の上では死んではいけない者らしい。そう思いつつ、清兵衛がまぶたを閉じた時だ。
「清兵衛殿、清兵衛殿!」
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。清兵衛が重いまぶたを必死に開くと、侍烏帽子をかぶった若い女性が、自分の体を抱きかかえていた。
「朝日殿か――」
「しっかりしてくだされ清兵衛殿。田所、すぐに血を、血を止めるのだ!」
「朝日殿、儂は、儂はもう持たぬ。そ、それより、村の者を、村の者の采配を頼みます。あなたは侍だ。皆を率いるのだ!」
清兵衛のぼやける視界の中で朝日が頷く。その黒髪からは椿油の匂いが漂ってきた。
『懐かしい匂いだ……』
その香りを嗅ぎつつ再びまぶたを開くと、朝日ではない別の女性がこちらを見ている。妾腹の自分に、侍としての心構えを教えてくれた義姉の直が、何故か清兵衛が子供の頃の姿で座っていた。
「姉上、秀包は立派な男になりましたでしょうか……私は兄上のお役にたてましたでしょうか……」
直は無言で頷くと、清兵衛にそっと手を差し出した。清兵衛は拝むようにそれを握る。その手からは懐かしい椿油と日向の匂いがした。
朝日は力を失った清兵衛の体を地面に横たえると、そのまぶたをそっと閉じた。その背後では野伏たちの鬨の声が続いている。焦る心を抑えながら、朝日は清兵衛の亡骸に向かって、田所と共に両手を合わせた。
「清兵衛殿、しばしここでお休みください。朝日があの者達を必ずや討ち果たしてご覧に入れます」
種子島を手に取ると、朝日は嵐に逆らう燕のごとく、迫る野伏たちに向けてその身を駆けた。