夜摩矢
林の中にぽっかりと空いた草地に、具足姿の男たちと、一頭の巨大な熊がいた。熊に見えるのは、毛皮を被った伊藤弾正だ。
「おのれら、たかが鍬持ち相手にこの失態。恥ずかしくはないのか!」
そう喚く伊藤弾正の前で、高橋玄蕃が首を垂れた。その背後では、夜明け前の襲撃で怪我を負った者たちのうめき声も聞こえてくる。
「相手はこちらがくるのを完全に読んでいた様です。ここは一度引いて……」
「引く? 引いたら我らは何を食うのだ? お前か?」
弾正の叱責に玄蕃の腰がひけた。たとえこけ脅しであっても、六尺近い大男の弾正が、熊の毛皮を纏った姿には迫力がある。
「鍬持ち如きになめられていては、我らの沽券に関わる。すぐにとって返して攻めるのだ!」
弾正は軍配を掲げると、林に集う野伏たちを怒鳴りつけた。
「どうやって攻めるのだ?」
左馬介はそう告げると、顔を真っ赤にする弾正を見上げた。
「数はこちらが多い。正面から攻めれば良い」
「逆茂木もある。あそこの田は窪地で泥が深い。それに向こうの方が高台で、種子島まで備えている。砦を攻めるのと同じだ。それを正面から攻めるのか?」
「鍬持ちたちだ。何ほどのことがある!」
弾正の言葉に左馬介は首を横に振った。
「間違いなく将がいる。こちらを十分に引きつけてから撃ってきたことを含め、中々の手練れとみた」
「左馬、臆病風に吹かれたか?」
「ならば、弾正殿が皆を率いて正面から攻めてみよ」
土佐が言い放った言葉に、弾正は押し黙った。土佐の横では、夜を徹しての移動で眠いのか、甚左衛門が大きなあくびをして見せる。
「策が少しあれば、正面からの力押しも悪くはない。弾正殿、火責めだ。我らは動けるから風上が取れる。混乱した所を甚左に矢で狙ってもらえば、相手の陣はすぐにも崩れよう」
「待たれよ!」
左馬介の策に、玄蕃が慌てた声を上げた。
「朝よりも風が強い。この風で火など使ったら、集落が全部焼け落ちますぞ。収穫が終わった籾も全て灰になる!」
『お主だって、火を付けようとしていたではないか!』
左馬介は心の中で玄蕃を怒鳴りつけた。しかし、それを口にしたところで意味はない。
「それは時の運だ。己の家が燃えるのをただ見ているわけにはいくまい。火が回れば持ち場を離れる者も出てこよう。奴らの統率が崩れれば我らの勝ちだ」
「これは戦などではない。刈取狼藉だ!」
玄蕃は口から泡を飛ばして声を上げた。
「勘違いしているのはそちらだ。あの勝鬨を聞いただろう。これは戦だ!」
左馬介が玄蕃に怒鳴り返す。
「一同静まれ。この程度の村を総撫するのに手間をとる様だと、米沢公から信頼を失うぞ。我らはあの鍬持ち達を、鎧袖一触に打ち砕かねばならん」
そう声を上げると、弾正は林の中にいる野伏たちへ軍配を掲げた。
「竹を切れ。それを盾に括りつけて種子島を防ぐ。そもそも数は大したことはない。風上から矢を放ちつつ、逆茂木を跳ね除けて村の中へ突き進む」
弾正は林の中に居並ぶ者たちをジロリと見回した。
「玄蕃!」
「ははっ」
「先陣はお主だ」
「そ、それがしが……」
言い淀んだ玄蕃を無視すると、弾正は左馬介の方を向いた。
「左馬、土佐、甚左、お主らは搦手を抑えよ。逃げてくるものを一網打尽にするのだ。烏丸、太刀を持て!」
背後に控えていた烏丸が、どこぞの落ち武者から狩った業物の大太刀を弾正へ差し出す。弾正はそれを抜くと、銀色に輝く刃を皆の前へ突き出した。
「一同、我らには毘沙門天の加護がある。何も恐れるものなどない!」
太刀を掲げた弾正を、昇って来た朝日が照らす。
「オ――!」
その異形な迫力に、野伏たちは熱に浮かされた様に声を上げた。それを覚めた目で見ながら、左馬介は土佐守や甚左衛門と共に腰を上げる。その背後で弾正は烏丸の耳元に口を寄せると、何やら耳打ちをした。
「――そうだ。わしの馬を使ってもよい。ぬかるな」
その声は野伏たちのざわめきに紛れ、左馬介たちの耳には届かなかった。
吹き抜ける風を手で遮りつつ、貞盛は村の境にある林を眺めていた。一見すると風に木立が揺れるだけに見えるが、貞盛の目は風とは違う別の動きを捉える。
「動いた。やはり奴らは飢えておると見える。陣立にも焦りがあるな」
「すぐにも攻めてきますでしょうか?」
握り飯を片手に持ったまま、朝日が貞盛に問いかけた。
「朝方の夜討ちで恥をかいておる。すぐにも攻めてこよう。焦らして、向こうが力押しで来るのをを避けるべきだが、西の風がさらに湿気を含んでいる。雨になる前に攻めてきてくれた方がありがたい」
「さすれば、こちらも備えをいたしましょう」
そう答えると、朝日は自分の顔ほどもありそうな握り飯を口の中へ放り込んだ。流石に一度に飲み込みきれないのか、目を白黒させる。
「焦るでない、飯を食うぐらいの時間はある。戦の前に飯を喉に詰まらせて死んだりしたら、末代までの恥どころではないぞ」
貞盛が朝日の背中を叩いてやる。やっと飲み込むことが出来たのか、息を一つ吐くと、恥ずかしそうな顔をして貞盛を見た。貞盛は朝日に笑みを浮かべると、再び林の方へ視線を向ける。そして怪訝そうに小首を傾げて見せた。
「朝日、搦手の方へも動きがある。清兵衛殿へ伝令に行け。そちらも動くとな」
「承知仕りました。田所、ついてまいれ!」
朝日が手についた米をなめながら、下男の田所を従えて村の反対側へと走っていく。それを見届けると、貞盛は逆茂木の手前で槍を手にする男たちを見回した。
「一同、心せよ。ここからが正念場よ!」
「左馬、どうするのだ?」
村の裏手へ続くあぜ道に設けられた搦手に着くと、土佐守が左馬介へ声をかけた。搦手には全体の5分の1に満たない数がいる。どちらかと言えば大人しかったり、元々はそれなりの家に仕えていた浪人たちで、弾正がうざったく思っている者たちが中心だ。
正面で怪我をするのを避けたいのか、あるいはこちらを監視するためか、弾正のお気に入りの烏丸もいる。
「土佐、甚佐、弾正たちは正面を抜けるだろうか?」
左馬介の問いかけに、土佐守は首を傾げた。
「兵糧さえあれば最後は抜けよう。しかし我らには食い物がない。戦らしいことができるのは今日一日ぐらいなものだ」
「向こうは飯だけは腹一杯食っています。それに率いているのはあの弾正に玄蕃ですよ。とても抜けませんね」
甚左衛門も左馬介へ肩をすくめて見せる。
「風は南西から吹いている。これは大雨の風だ。火責めが使えるのも、今日の朝のうちぐらいだというのに……」
焦る心に、左馬介の口からもぼやきが漏れる。
「火責めするにも、ここは風下ですし、大人しく昼寝でもしてましょう」
甚左衛門の提案に、左馬介は首を横に振った。
「搦手からも攻めねば落とせぬ」
「ならば矢でも放って、進むふりだけでもしますか?」
甚左衛門があぜ道の先をある村の裏口を指さす。そこへ至る道はかなり急な坂になっており、両側を土手に挟まれている上に、村の入り口にはびっしりと逆茂木も置かれている。こちらを守っている村の男衆の数は少ないだろうが、水を張った田以外には障害物がない正面に比べると、明らかに攻めづらい。
『これでは城を攻めるのと同じだな……』
左馬介は心の中でつぶやいた。そもそも城というのは外から攻めるものではない。内通者を出して、結束を乱して落とすものだ。そういう意味では、城攻めは城を囲む前に勝負が決まっているとも言える。
他の村を総撫でにしている以上、鍬持ちたちがこちらに降ることはないだろう。しかし最初から中にいる必要はない。ここには柵も城壁もないから、外から忍び込める。
「土佐、俺が――」
「左馬、それは俺がやろう」
土佐守が左馬介の言葉を遮った。
「この手の仕事は俺の得意技だ。そもそも俺は侍などではない」
「どういうことだ?」
左馬介の問いかけに、土佐守がニヤリと笑って見せる。
「元は寺の小坊主よ。刃物を持つようになったのは、俺を手篭めにしようとした住職を切ってからだ。そこからはご多分に漏れずというやつだな」
「なるほど、それで博識なのですね」
甚左衛門が妙なところで感心する。
「そうよ。お前達などより、よほどに学はあるぞ」
「ですが、元坊主にしては血を見るのが好き過ぎやしませんか?」
「それも人助けよ。さっさと極楽浄土に送ってやるのだ。違うな。夜摩天のところか?」
そう答えると、土佐守は膝を叩いて笑い声をあげる。
「土佐、お前一人では荷が重い。俺と二人で忍び込み、相手の将を撃てば、後は力押しでいける」
「左馬、お前がいるとむしろ足手まといだ。そもそも人が多くなったら、見つかる可能性が高くなるではないか。それにここの有象無象は、お前でないととても率いいれぬ」
「ならば、せめて甚佐に背後から矢で守ってもらうべきだ」
「甚佐が守るべきはお主の背中よ。何せ我らは鶴殿に約束したのだからな。お前なら俺が将を討ち取った事ぐらい、動きですぐに分かるであろう」
土佐のセリフに甚左衛門も頷く。
「左馬殿、あなたは我らの大将ですよ。乱破はそこの頭に蛆が湧いている男に任せましょう」
「そうよ。これは俺のような気狂いの仕事よ!」
そう告げると、土佐守は肩に担いだ刀の鞘を、さも嬉しそうに叩いて見せた。