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決戦!  作者: ハシモト
6/13

迷い矢

 奥州の秋は短く、冬はすぐにやってくる。虫たちが最後の力を振り絞って泣き続ける中、左馬介は無力感を抱きつつ、掘立て小屋の入り口を潜った。


「帰ったぞ」


「お帰りなさいませ」


 囲炉裏で湯を沸かしていた鶴が、たらいに張った水に注いで足を洗う。左馬介は鶴から受け取った布で足を拭くと、囲炉裏に手をかざした。


「だいぶ冷えてまいりました。薪をもう少しくべましょうか?」


 鶴の問いかけに、左馬介は首を横に振った。


「いらぬ。もうすぐ戦だ。体をそれに慣らしておく」


 そう答えつつ、こんなぶっきらぼうな言い方しかできないのかと後悔する。しかし、鶴はそれを気にすることなく、左馬介の前へ小さな碗を差し出した。


「今日は少しは精がつくものと思い、女たちと地蜂の巣を(いぶし)ました」


 左馬介は真っ白な蜂の子をつまむと、口の中へ放り込んだ。わずかに残っていた味噌も和えたらしく、それがより蜂の子の甘みを引き立てている。気づけば、碗の中はいつしか空になっていた。


「すまぬ」


 左馬介の言葉に、鶴が不思議そうな顔をした。


「お前の分も食ってしまった」


「それは左馬介様のために用意したものです。鶴にお気遣いは無用です」


 いつもは表情に乏しいこの女にしては珍しく、鶴が口元に笑みを浮かべる。それが左馬介の心に、澱のようなものを感じさせた。それを向けている相手は、目の前で家族を殺し、拐かし、犯した男だ。


「鶴、一つ頼みがある」


「はい。何でしょう?」


「髪を切ってくれ。長いと兜の中で蒸れる」


「承知いたしました。どこかで(はさみ)を借りてきます」


 そう言って腰を浮かせた鶴の腕を、左馬介は抑えた。


「鋏などいらぬ。こいつで適当に切ってくれれば良い」


 左馬介が白木の鞘で出来た短刀を渡すと、鶴は左馬介の背後へと回った。その太ももや下腹部が、左馬介の背中に触れる。その温かみを感じつつ、左馬介は鶴が髪を切り始めるのを待った。


 ザク!


 切り落とされた髪が、土間の床へぱさりと落ちる。鶴は髪を一房づつ手に収めると、次々と短刀で切り落としていった。その音を聞きながら、左馬介は考える。


『どうしてこの女は、俺にそれを突き立てぬ?』


 鶴が手にしている短刀は、半農の地侍であった鶴の家から、左馬介が奪ってきたものだ。自分なら、躊躇なく首筋に短刀を突き立てる。


 ザク、ザク――。


 髪を切る音と、囲炉裏で薪が弾ける音だけが響く。あれほどうるさく鳴いていた虫の音は、ほとんど聞こえない。左馬介は堪らず鶴に向かって口を開いた。


「どうして俺を殺さぬ」


 左馬介の言葉に、一瞬だけ鶴の手が止まった。しかし、鶴は何事もなかったように、左馬介の髪を掬うと、短刀でそれを切り落とし続ける。


「俺はお前の全てを奪った男だぞ」


 左馬介は言葉を続けた。それでも鶴は手を休めることなく、左馬介の髪を切り落としていく。


「聞こえぬのか?」


 その問いに、鶴の手がやっと止まった。


「鶴は鶴ではありません」


 思わず背後を振り返ると、短刀を手に、鶴が左馬介へ頷いて見せる。


「どういうことだ?」


「鶴は一度死んだ身でございます。左馬介様が手にかけた者は、前世の鶴の縁者で、現世の鶴とは何の関わりもございません。今の鶴は左馬介様の鶴です」


 鶴の目に何か光るものが見える。左馬介は鶴へ背中を向けた。


「そうか……」


「はい」


 再び鳴き始めた虫の音と、鶴が髪を切り落とす音だけが響く。だが、誰かがこちらへ駆けてくる足音と共に、急に外が騒がしくなるのが聞こえた。


「左馬、おるか!」


 刀を肩に担いだ土佐守が、小屋の入り口からいきなり顔を出す。しかし、すぐに当惑した顔をした。


「坊主にでもなるつもりか?」


「違う。戦に向けて髪を切っていた」


「土佐殿、入口で止まらないでください。邪魔ですよ」


 土佐守を押し退けて、甚左衛門も姿を見せる。そして入って来るなり、髪を切り落とした左馬介をしげしげと眺めた。


「よく似合っております。鶴殿もそう思いませんか?」


 それを聞いた鶴が、遠慮がちに頷く。


「まあ、綺麗さっぱり切ったものだな。しかし鶴殿、甚左には気をつけた方が良いぞ。こやつは左馬を狙っておる。それにネチネチと執念深い」


「ネチネチとは何です。私は土佐殿と違います」


「それよりも、お前たち何の用だ?」


 嫌味の応酬を始める前に、左馬介は二人へ問いかけた。


「肝心な事を忘れるところだった。戦だ。これから出陣の準備よ」


「戦!?」


 左馬介は背後で鶴に短刀を持たせているのも忘れて、立ち上がった。


「おい、気を付けろ、鶴殿が困っているぞ!」


「土佐、弾正が『うん』と言ったのか?」


「やる気満々よ。月明かりで移動して、明け方に攻める。ぱっと行って、ぱっと帰ってくるやつだ」


 土佐守が、肩に担いだ刀をポンポンと叩いて見せる。


「それはそうでしょう。土佐殿が長いのを抜いて暴れ足りないと言えば、あの二人とてやる気にもなります」


「そう言う甚佐も、玄蕃の近くをうろちょろしていた油虫を、短刀で撃ち殺して見せただろう。玄蕃がずいぶんと青い顔をしていたぞ」


「あの人の顔色が悪いのは日頃からです。それに熊の肉も食べきりました」


 二人はいつもこの調子だ。左馬介は含み笑いを漏らしながら、背後に立つ鶴の方を振り返った。


「髪はもういい。手拭いを濡らしたのをくれ。肌着の用意も頼む。俺は二人と本殿に行って、陣立の話をしてくる」


「承知しました」


 鶴はそう答えると、左馬介へ三指をついて頭を下げた。


 * * *


 油の燃える微かな明かりが、農家の板敷の部屋を照らしていた。床の上には黒く光る銃身と、それを支える木の銃床が置かれている。若い侍姿の女性が、その一つ一つを丁寧に磨き、蓋が正常に動くか、引き金に連動して火縄が確実に落ちるかを確認していた。


「問題なし……」


 朝日は満足そうにつぶやくと、ほっと肩の力を抜く。しかし、人の気配を感じると、慌てて背後を振り返った。


「貞盛様、申し訳ありません。調整に集中しておりました」


「精が出るな。問題はなさそうか?」


「近頃は種子島も珍しくない故、皆が問題なく使えております。あとは実際に火薬を詰めて撃たせてみないと、コツは分からぬと思います」


「野伏どもも、こちらが種子島を持っているとは思うまい。当たる当たらないはさておき、半分はこけ脅しみたいなものだ」


「いえ、撃つからには、皆に相手の兜首を取ってもらわねばなりません」


「はて、野伏に兜首などいるかどうか……。それよりも、今からでも遅くはない。田所と叔父のところへ行け。こんな所で、誉も褒美もない戦などする必要はない」


「いやでございます」


 朝日のきっぱりとした返答に、貞盛がはげた頭をなでて見せる。


「朝日、お前がなんと言おうがお前は女だ。これまでもお前の我儘は十分に聞いた。最後は儂の我儘を聞いてもらう」


 それを聞いた朝日が、片膝をつき、貞盛に向かって顔を上げた。


「私は女でしょうか?」


「もちろんだ。お前は十分に器量良しの女だ」


「ならば、貞盛様の手で私を抱いてくださいませ」


「こんな禿頭の爺いを捕まえて、いきなり何を聞く?」


「年など関係ございません。女であるならば、女として扱っていただきたく存じます」


「朝日、お前はお前の母以上に豪の者だな。されど、命は一つしかないのだ。母と同じ過ちを繰り返す必要はない」


 貞盛の言葉に、朝日が激しく首を横に振る。


「私は原の家を継ぐべく生まれてきた者です。それは原の家がどうなろうと変わりません。私の宿命です。貞盛様が私に全てを捨てて生きろと言うのも、女になれと言うのも、私に母を重ねるのも、全ては貞盛様の未練でございます」


「未練?」


「はい。母と違って、私に長生きしろと言う貞盛様の未練です。ですが、私は朝日なのです。私は朝日として生きたいのです」


「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり……」


「何の事でしょうか?」


「『敦盛』だ。平敦盛を討った熊谷直実が、世を儚んで出家する際に歌ったものだ。儂は人の生とは、まさに熊谷直実が感じたものと同じだと思っておった。武士として栄誉の限りを極めた熊谷直実ですら、己が人生に意味があったのかと悩んだのだ。だが朝日、お前は自分の生に一点の曇りもないな」


「はい、朝日は武士でございます!」


「ならば朝日、儂からはもう何も言うまい。この戦がお前の初陣だ」


 貞盛の言葉に、朝日が目を輝かせた。


「貞盛様、朝日の初陣はいつ始まりますでしょうか?」


「向こうも飢えておるだろう。明日の朝、遅くとも明後日の朝には攻めてこよう。この戦、秋の大雨が来る前に終わらせるぞ」


「委細承知仕りました」


 朝日は種子島を手にすると、引き金を引いて火縄を落とす。朝日の心の内を映すかの如く、種子島の火皿から赤い火の粉が舞い上がった。


 * * *


 リーン、リーン、リーン――。


 鈴虫の音が微かに聞こえてくる。鶴は月明かりの下、水場で左馬介の肌着を洗っていた。夜ではあったが、風があるので、肌着は明朝までには乾くことだろう。


『決して大雨などにはなったりしませんように……』


 鶴は目をつむって阿弥陀仏に祈った。目を開けると、たらいに人影が映っている。鶴は尻もちをつくと、背後を振り返った。


「驚かせてしまいましたね」


 甚左衛門が鶴へ丁寧に頭を下げる。鶴も乱れた裾を直すと、甚左衛門へ頭を下げた。


「甚左衛門様、戦評定は終わったのでしょうか?」


「評定ですか? 私は興味がないので、左馬介殿と土佐殿に任せて出てきました。今日は疲れたので、先に寝かせてもらいます。明日の夜は、ほとんど寝れないでしょうからね」


 甚左衛門が鶴へ、肩をすくめてみせる。


『美しい人だ……』


 鶴は素直にそう思った。平時でも小袴を履き、羽織を着てこざっぱりとした姿は、絵巻物に出てくる古の坂東武者を思い起こさせる。


「甚左衛門様、左馬介様をよろしくお願いいたします」


 鶴は土の上に膝をつくと、再び甚左衛門へ向かって丁寧に頭を下げた。


「鶴殿、左馬介殿の背中はそれがしが承ります。それに、何か守るものがあると言うのはいいですな。左馬介殿がうらやましい」


 そう告げると、甚左衛門はわずかに口元を緩めて見せた。しかし、その顔に浮かぶ笑みはどこか寂し気にも思える。この人は前世の、左馬之助様と出会う前の自分と同じなのかもしれない。鶴は何となくそんなことを考えた。


「甚左衛門様のご無事も、お祈りしております」


 甚左衛門は鶴に片手を振って答えると、山頂へ続く崩れかけた石の階段を登っていく。月明かりに浮かぶその背中からは、黒く長い影が伸びていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 以前「糸」のときに話題にした漫画の鼻の大きな魅力的な登場人物のエピソードを思いだしたりしました。 そこはかとないせつなさのような。 いよいよな感じになっていますね。
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