破魔矢
虫たちが秋の夜を生き急ぐ中、廃寺の本堂跡は獣と焼けた肉の匂いに満ちていた。誰もが、女房たちが運んできた獣の肉を我先に頬張っている。
「鳥と違って、熊の肉は硬くて敵わん」
具足のない盗賊上がりの男が、クチャクチャと咀嚼しながら愚痴る。それを聞いた浪人姿の男が、首を横に振って見せた。
「何を言う。熊の肉は昔から精がつくと言うではないか。戦を前にこれほどのご馳走はないぞ」
「そうなのか?」
「そうとも。今すぐ何戦かして見せようぞ!」
浪人姿の男が肉を運んできた女房の裾に手を伸ばすと、女房にピシャリと手を叩かれる。
「しかしこれは本当に熊なのか? 月の印もないし何より大きすぎる」
「これは単なる熊などではない」
弾正がかつては本尊が置いてあった須弥壇の上から、男たちに声をかけた。その前には、大きな木の皿に盛られた巨大な熊の手が置かれている。
「毘沙門天からの使いよ」
そう告げると、弾正は廃寺に集う薄汚れた男たちを見回した。その背後では巨大な熊の皮が、風雨にさらされた柱に掛けられている。毛皮に成り果ててはいたが、それでも皆が知っている熊にしては、あまりにも巨大な姿だ。
「毘沙門天様ですか?」
男の問いかけに、弾正は熊の手に小刀を突き立てつつ頷く。
「これは毘沙門天から我らへの、特別な加護の証である」
弾正の言葉に男たちがざわつき始める。それを制して、一人の男が前へ出た。弾正の腰巾着、高橋玄蕃だった。
「一同、弾正殿のお言葉通り、これは天からの啓示である。我らがこの地を出て、一国一城を得る証に他ならない」
一国一城と言う途方もない言葉に、男たちが互いに顔を見合わせる。それに業を煮やしたのか、玄蕃は男たちに向かって拳を振り上げた。
「太閤などと偉そうにしているが、元々は足軽に過ぎぬ男。その上、この地に来た木村某は右大臣を討った明智の家臣で、すぐに主人を変えるような男よ。奥州の武辺者を従えるはずがない」
玄蕃の台詞に、少しは学がある浪人組が頷く。まだ言葉が足りぬと思ったのか、玄蕃は声を潜めてその先を続けた。
「これはまだ秘中の秘だが、我らのところに米沢公から密書が届いておる」
「伊達殿から?」
「米沢公も、内心ではあの足軽上がりに腹を据えかねているとのこと。上方の兵が西に去った後で、この地に残った者たちを撃ち、関東へ押し出すつもりらしい」
「なんと!」
何人かの男たちが、興奮気味に立ち上がった。
「我らには葛西、大崎の地に入った木村某の背後を一揆衆と供に攻めよとの依頼だ。その一部を我らに与えると言う話もある。さらには蒲生某が入った黒川城から先も、切り取られるつもりであろう。各々方、我らの未来は明るいぞ」
「オォ!」
腐りかけた床の上で、男どもが感嘆の声を上げた。
「玄蕃、少し喋りすぎではないのか?」
「これは失礼つかまつりました」
玄蕃が弾正へ、芝居掛かった調子で頭を下げる。
「大事の前だ。外に漏れては困る」
そう告げる弾正の声に玄蕃を咎める響きはない。弾正は隣に控える烏丸から太刀を受け取ると、それを皆へ向かって力強く突き出した。
「春が過ぎ、夏になる前には全てが動き出すであろう。その前に我らはこの冬を耐えねばならない。だが今まで耐えたのだ。たかが一冬ぐらい何ほどの事があろうか。総撫にして、兵糧を蓄えればよい。後は我ら一同、一国一城を目指して突き進むのみ!」
オォ――!
男たちから興奮した叫び声が上がった。高く昇った月が、狂乱する男たちの姿を、青白く照らし続ける。
「どうした。毘沙門天の使いを倒したと言うのに、いつもよりさらに機嫌が悪そうではないか?」
土佐守が、茶碗に注いだ酒をあおる左馬介へ声をかけた。
「あれのどこが毘沙門天だ」
左馬介は茶碗を持つ手を、弾正の背後にある毛皮へ向ける。
「弾正の言い分によればそうじゃないのか? でも、殺して食っちまったものを神のお告げとか言うのも、辻褄があっていないな……」
「いやいや、田舎侍の能よりも楽しめましたよ。退屈で死ぬよりましです。むしろ笑いを噛み殺すのに精一杯で、息ができないくらいでした」
「甚左、本気か? 俺は田楽のひょっとこ踊りの方が、よほどに楽しめるぞ」
土佐守がさもうんざりと言う顔で、弾正たちを眺める。
「それよりも、左馬殿はあのバカどもに気をつけた方が良いのでは?」
甚左衛門が、乱痴気騒ぎをしている男たちを指さした。そこでは、女房たちを床に組み伏せ、皆の前でおっぱじめる奴までいる。
「そこで皮になった獣の方が、二本足で立っていましたから、はるかにまともです。調子に乗って、鶴殿にちょっかいをかけに行く輩がいるやもしれません」
甚左衛門の言葉に、左馬介は茶碗を床に置くと横に置いた鬼包丁へ手を伸ばした。ひっくり返った茶碗からこぼれた酒が、腐りかけの床を濡らす。
「左馬、酒が勿体ないではないか……」
それを見た土佐守が、空になった茶碗へ、手にした瓢箪から酒を注ぐ。
「先ずは落ち着け。お前は熊公とやりあった時、家の壁を蹴り飛ばして、穴を開けただろう」
「それがどうした?」
「そこから覗いていたやつがいたから、俺が切っておいた」
「殺したのか?」
「とりあえずは腕を切り落としただけだ。その腕を家の前に置いたので、誰も覗きに来たりはしないだろう。もっとも、ごろごろと地面を転がっていたから、今ごろは骸になっているかもしれん」
それを聞いた甚左衛門が、土佐守に首を横に振って見せる。
「困りますね。切るのはいいのですが、土佐殿は後片付けをしない」
「甚左、それのどこが悪い?」
「男の代わりに青蝿が寄ってきます。あれはうるさいし、鬱陶しいのです」
そう告げると、甚左衛門は土佐守に向かって、思いっきり顔をしかめて見せた。
* * *
「鶴、近く出かけるぞ」
左馬介は掘っ立て小屋へ入ると、ぼろのほつれを縫っていた鶴へ声を掛けた。
「それと、土佐がここで人を切ったそうだが本当か?」
左馬介の鼻は血の匂いを嗅ぎつけたが、死体はもちろん、土佐の言った腕も、掘っ立て小屋の前には見当たらない。
「はい。なので、女どもで片付けました」
「片付けた?」
思わず声を上げた左馬介へ、鶴が頷く。
「匂いも出ますし、そのままにしておく訳にもいきません。皆で裏手に穴を掘って、そちらに埋めました。血は一応は洗い流したのですが、あちらこちらと動き回られましたので、しばらくは匂うかもしれません」
呆れた顔をする左馬介へ、鶴が苦笑いを浮かべて見せる。
「戦の世ですし私たちも慣れております。それに女の方が、血は見慣れているものです」
「確かにそうだな……」
左馬介はそう答えたが、それを慣れさせたのは自分ではないかと思う。左馬介は複雑な思いを抱きながら腰から鬼包丁を外すと、囲炉裏の脇に腰を下ろした。紡いでいたぼろを傍においた鶴が、左馬介の横に膝をつく。そして、たらいに足を洗うための水を注いだ。
「戦でございますでしょうか?」
鶴の問いかけに、左馬介は首を横に振った。
「そんな大それたものではない。|お前の村を襲った時と同じ、刈田狼藉《略奪》だ」
そう口にしてから、左馬介は心の底から後悔した。どういう訳か鶴を前にすると、その心を試すような、ひどい言葉を口にしたくなる。
『馬も女子と同じだぞ。お前が馬に合わせるのだ』
亡き友の言葉が頭に浮かぶ。もっとも、相手に合わせられる器用な生き方が出来ていれば、こんなところで野盗になどなっていない。
「左馬介様が刀を抜かれるところは、常に戦さ場でございます」
鶴がその黒い瞳で左馬介を見上げる。
「鶴は役立たずですが、左馬介様のご無事を、神仏に祈っております」
鶴はそう告げると、その身を左馬介の胸へ寄せた。左馬介は、鶴の背中へ腕を回そうとして、その手を止める。自分にはこの女を抱く価値などあるのだろうか?
『いや、生きている価値すらありはしない……』
荒屋の屋根の隙間から差し込む月の光が、二人を青白く照らしている。虫たちの声が盛大に響く中、左馬介は胸に頬を寄せる鶴の姿を、ただじっと見つめ続けた。