白羽の矢
秋のだいぶ低くなった陽光が、少しばかり大きめの農家の縁側を照らしている。縁側には二人の老人が腰をかけていた。だが、鍬持ちの年寄りと呼ぶには、二人の背筋はピンと伸びている。
「失礼いたします」
屋敷の居間の方から凛とした声が上がった。若侍の格好をした色白の従者が、盆に乗せた湯のみを差し出す。二人の前に置かれた湯のみには茶ではなく、白湯が入っている。
「清兵衛殿、近頃は客もおりませんでな。何もおもてなしが出来ずに申し訳ございません。それどころか見事な落ち鮎を頂きまして、ありがとうございます」
「とんでもございません。いきなりお邪魔させて頂いたのはこちらの方でございます」
真っ白な髭の老人は屋敷の主へ頭を下げた。綿入れを身につけ板敷きに座るその姿は、姿勢が妙に良いことを除けば村の好々爺そのものだ。しかし屋敷の主へ向ける眼差しは鋭く、ただの農民とは思わせぬ何かがある。それは屋敷の主も同じだった。
ポーポッポ、ポーポッポ……。
無言で白湯をすする二人の耳に、のんびりとした山鳩の鳴き声が聞こえてくる。二人は縁側から、垣根の向こうに見える空を見上げた。数日前まで降っていた秋雨も上がり、どこまでも高く見える秋の空が広がっている。
「今年はお天道様に恵まれ何よりでしたな」
屋敷の主が清兵衛と呼んだ老人に声を掛けた。
「おかげさまで久しぶりの豊作になりそうです。ご時世がご時世だけに、派手に秋祭りが出来ぬのが残念ですよ。それはそうと、先ほどの者は?」
清兵衛の問いかけに、屋敷の主が少し困った顔をした。
「もはや継ぐべき家もないと言うのに、ただただ意地になってこんな所にいる。かわいそうな子です」
「なるほど。生まれた時からお家大事で育てられ、それしか知らずに生きて来たのですね。ですが、若い時にはそのような物も必要なのではありませんか? 貞盛殿とて覚えがない訳ではないでしょう?」
貞盛と呼ばれた屋敷の主は禿げた頭に手をやると、目の前に座る老人に対し苦笑を浮かべて見せた。
「これだから、付き合いが長い御仁はたまりません。最後に顔を合わせたのはいつでしたでしょうか?」
「確か二本松の何の意味もない小競り合いが、最後だったと思います。懐かしい限りですよ。この年まで鬼籍に入る事もなく、こうして二本松の鬼殿と昔話をするとは思いませんでした」
「そう言うあなたも、閻魔の清兵衛殿でしたな」
「ハハハハ!」「フハハハハハ!」
秋の日差しが注ぐ縁側に、老人たちの笑い声が響き渡る。
「ですが、こうして仕置にかけられて何もかもなくなってみると、家名だの武士の意地だのとは、一体何だったのかと思いますね」
清兵衛が長く白い顎髭に手をやりながら、感慨げにつぶやく。
「清兵衛殿、聞くところによれば、小田原征伐に参戦しなかったところは全て召し上げ。葛西、大崎、鎌倉以来の家という家が、根こそぎ無くなってしまいました。残った者も、元足軽の太閤殿に地面に頭を擦りつける様にしております。我らがかつてしてきた戦には、何の意味も無かったという事でしょう」
「若い時から、口にするものが得られたら、それで十分と分かっていれば、生き方も大いに違ったように思います」
清兵衛も貞盛に相槌を打つ。
「ところで、主家も自分の家も失ったこの隠居に、一体何のご相談ですかな?」
「野伏どもにございます」
「野伏?」
清兵衛の答えに、貞盛が当惑の声を上げる。
「太閤の奥州仕置以来、戦は御法度。奴らが繋がっていた領主たちも、全て改易されてしまいました。この地に新たに来たのは上方から来た者たちで、何の繋がりも無ければ戦もない。つまり、何も食い扶持がありません」
「近頃、村々が襲われているのはそれ故ですか……」
「一昨年は片平が、去年は山野の里が襲われました。あの山間の荘園で残っているのは私共の所だけです」
「今年は豊作、いくばくかの米を与えて、宥めることは出来ませんか?」
「検地で厳しく取り立てられておりまして、その余裕はありません。それに襲われた二つの村は全て総取りにかけられております。奴らも自分の居場所がなくなって、焦っておるのでしょう」
「上方の者達への訴えは?」
「奴らは奴らで、この地の仕置が出来るかどうか、上から目をつけられております。一揆が起きたと見られるのを嫌がり、私共のような寒村の嘆願など、全て握りつぶされてお終いです」
「なるほど。つまりは……」
貞盛の問いかけに、清兵衛がうなずく。
「己の身は己で守れ。我々が槍を担いでいた頃と、何も変わってはおらぬと言う事ですよ」
「さりとて、私のような隠居が何か手伝えるとも思えません。それに鍬持ちと言っても、幾度も戰場に駆り出された、剛の者たちがいるではありませんか?」
「率いる者がおりません。将がおらぬのです。将がおらぬ兵は何の役にも立ちません」
「清兵衛殿、あなたが率いれば良い」
「私も率います。ですが私一人ではどうにもなりません。それで貞盛殿、御身に助けて頂きたくこちらに参らせて頂きました」
そう告げる後藤清兵衛の瞳は、かつて人取橋の閻魔と呼ばれた頃の光を宿している。
「いつか戦場で、草の上に身を横たえて息絶えると思っていました」
貞盛が感慨深げにつぶやく。
「私もそう思っておりました」
清兵衛も貞盛へ同意した。貞盛は清兵衛から視線を外すと、庭先にある、たわわに実をつけた柿の木を見上げる。
「それがこうして日の光を浴び、畑の野菜や庭の草花を見て暮らしております。それでも、宿命からは逃れられぬと言う事ですな。それとも、この手にかけた者たちの因縁でしょうか?」
「もちろん両者でございますよ。我らは畳の上で死んではいけぬ者たちです」
ポーポッポ、ポーポッポー。
秋の長閑な日差しを受けながら、山鳩のさえずりはまだ続いている。二人は冷めてしまった白湯に手をやると、それをゆっくりと口元へと運んだ。
* * *
「朝日!」
客が帰った縁側に一人座りつつ貞盛は声を上げた。目の前には空になった湯呑みが二つ置いてある。
「貞盛様、お呼びでしょうか?」
「お客が帰った故、湯呑みを片付けてほしい」
「もうお帰りになられてしまったのですか? 田所がいただいた鮎をお出ししようと、焼いておりますが……」
「あの御仁も色々と忙しいようでな。それよりもせっかくの秋晴れだ。田所に言って蔵から儂の具足を出して、虫干しするよう頼んでおくれ。しばらく出してなかったから、粉を吹いているかも知れぬ」
「承知いたしました。戦でございますね」
朝日が若者らしく目を輝かせる。
「その様なものではない。昔馴染みと戦の思い出話をしたので、少し気になっただけだ。それと、しばらく旅に出ようと思う。その間、お前は叔父殿の家を頼るといい。ハゲ頭の世話ばかりでは飽きるだろう。たまには気分を変えてみてはどうだ?」
「慎んでお断り申し上げます」
朝日は縁側の先で地面に片足をつくと、貞盛に向かって頭を上げた。
「この朝日、武門の家に生まれたからには、その使命を全うする所存にございます」
「朝日、お前が背負うべきものなど何もない。もはや男の振りをする必要もないのだ。女に戻って誰かの子をなし、平和に暮らすのが一番だ。その様な生き方こそがお前には相応しい」
「貞盛様は朝日に死ねとおっしゃられるのですね。では、せめて介錯だけはお願いしたく存じます」
そう言い切る若侍姿の少女に向かって、貞盛は大きくため息をついた。
「朝日、お前の父も相当な頑固者であったが、どうしてお前までもがそうなのだ? 人の世は変わりゆく。もう戦国の世は終わったのだぞ」
「終わろうが終わるまいが、朝日には何の関係もございません。私は武士として貞盛様について行くだけでございます」
「間違えた。お前は父に似ているのではない。月夜に、お前の母にそっくりだ。あれも最上殿と同じで、薙刀片手に戰場へ行く女子であった」
「もちろんでございます。私は母の娘、いえ、息子でございます!」
貞盛に答えるや否や、朝日は燕の如く身を翻して、裏手にある蔵へ向かって足速に駆けていく。貞盛はその後ろ姿を苦々しい表情で見つめた。だが鮎を焼く香ばしい匂いに気づくと、その顔を緩める。
「腹が減ってはなんとやらか……」
そうつぶやくと、貞盛はどこまでも高く見える空を眺めた。
最上殿:最上義光の妹で、伊達政宗の母親。嫁ぐ前は薙刀を手に行く場へ出ていたとの逸話がある