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決戦!  作者: ハシモト
2/13

仕留め矢

 左馬介は夢を見ていた。すぐに夢だと分かる夢だ。死んだはずの男が、左馬介に向かって朗らかな笑みを浮かべている。


「左馬、それでは母衣持ちにはなれぬぞ」


「俺が悪いのではない。馬が言うことを聞かぬのだ」


 左馬介は男に向かって文句を言った。男は遠駆けで馬を駆り続けた汗を拭うと、左馬介の側に馬を寄せる。


「そうではない。馬も女子も同じだ。左馬、お前が合わせるのだ。さすれば相手はお前をどこまでも遠くに連れて行ってくれる。どこまでもだ」


「それはいい。ならば極楽までも連れていってもらえようか?」


「もちろんだ。それが良き女子と言うものであろう。左馬、お前はいいやつだ。それに腕も立つ。だが不器用すぎる」


 ヒィ――ン!


 馬が不安そうに嘶く。左馬介はそれを宥めようと、馬の首を撫でてやった。しかし馬は左馬介の言うことを聞こうとはしない。まるで狂ったみたいに嘶き続ける。牝馬は後ろ足で大きく蹴り上げると、今度は前脚を高々と掲げた。


『これでは駆るどころでは……』


 左馬介の前では、熾火になった囲炉裏の火が赤い光を放っている。再び目を閉じようとした左馬介の耳に、馬のいな鳴きではなく、絹を裂くような悲鳴が届いた。それが誰の悲鳴なのかはすぐに分かった。


『鶴だ!』


 左馬介は素早く起き上がると、傍に置いてあった鬼包丁を手にほったて小屋の壁を蹴り飛ばす。外は夜の(とばり)が落ちた濃紺の空に、東から昇ってきた月が輝いている。


「化物め!」


 鶴の悲鳴だけでなく男の怒声も上がった。それらは裏手にある湧水の辺りから聞こえてくる。左馬介は鬼包丁の鯉口を切ると、笹薮の中へ身を躍らせた。


 ウギャアア――!


 飛び込むや否や、誰かの絶叫が耳をつんざく。左馬介が戦場で何度も聞いた音、断末魔だ。暗闇の中、笹をかき分けて進むと目の前に白いものが見えた。洗いざらしの木綿の着物から伸びた女の太ももだ。その横には皿や椀が散乱しているのも見える。


 左馬介は笹薮を飛び出すと、鶴へ向かって駆け出した。しかしぬめりとした何かに、足を取られそうになる。同時に鼻腔に濃厚な血の匂いが漂ってきた。


 グギャ!


 今度は何かが潰れる低く鈍い音が響く。鬼包丁を手に音がした方へ体を向けると、真っ黒な巨体が笹の間から姿を現した。後ろ足で立つ姿はどう見ても熊だが、胸にあるはずの白い毛がない。それに背丈が左馬介の二倍以上もある。そいつが、口に咥えていた物を左馬介の方へ放り投げた。ちぎれた男の上半身だ。


『これは本当に熊なのか? それとも別の獣か?』


 左馬介は訝しみながらも、ジリジリと間合いを詰めた。だが獣は唸り声を上げると、左馬介の方ではなく、地面に倒れている鶴へ向かおうとする。


「畜生めが!」


 左馬介は鬼包丁を上段に構えると、獣の背中へそれを振り下した。しかし素足のため、男の遺体から流れ出た血溜まりに足を滑らせる。獣はその巨体にもかかわらず素早く体の向きを変えると、丸太のように太い腕を振り回した。左馬介は咄嗟に体を回転させつつ背後へ飛び退く。


 グオオオオオオ!


 獣は左馬介を威嚇するためか再び後ろ足で立ち上がった。左馬介はそれに応えるべく正眼で鬼包丁を構える。その時だ。何かが割れる音がした。


「左馬介様、お逃げください!」


 皿を手に、鶴が声を張り上げる。それに反応して獣が鶴の方へ顔を向けた。左馬介はその隙をついて鬼包丁を心臓目がけて突き出す。だが振り上げた腕によって阻まれ、左馬介の手から鬼包丁が弾き飛ばされる。刀を失った左馬介は獣の横をすり抜けると、鶴と獣の間に立ちはだかった。


「お前の相手は俺だ!」


 腕を傷つけられた怒りか、左馬介の挑発に対する答えか、獣が再び吠える。その咆哮に驚いた鳥達が、夜の闇へと舞い上がっていく。


「立てるか?」


 脇差を抜きつつ左馬介は鶴に声をかけた。


「左馬介様、私などにかまわず、すぐにお逃げください」


「立てるなら立て!」


 そう怒鳴りつけると、左馬介は脇差を掲げて獣との間合いを図った。所詮は女の足だ。こいつを仕留めぬ限り鶴は助からない。左馬介は脇差を持つ手に力を込めると、この身ごとそれを突き立てるべく左足を後ろに引いた。その目の前に鶴が飛び込んでくる。鶴は左馬介の前に立つと、獣に向かって大きく腕を広げた。


「喰らうなら、私を喰らえ!」


 それを聞いた獣が大きく腕を振りかぶる。それが振り下ろされれば、鶴の体などひとたまりも無い。


 ヒュン!


 左馬介の背後で弓弦の鳴る音が聞こえた。獣は腕を振り下ろすことなく頭を横に振る。その左目には一本の矢が深々と突き刺さっていた。


 ヒュン!


 再び弓弦の鳴る音が響く。今度は獣の右目へ矢が突き刺さる。獣はたまらず前足を下ろすと、闇雲に突進しようとした。その巨体が、腕を広げたまま立ち尽くす鶴へ迫る。


「左馬、これを使え。眉間だ!」


 その声と共に月の光を浴びて銀色に輝く刀が、左馬介へ向かって飛んできた。左馬介は跳び上がってそれを掴み取ると、槍のように長い刀を獣の眉間に突き刺す。まるで岩に突き刺したみたいに手がしびれたが、左馬介は全身の力を込めてそれを押し込んだ。獣の口から大きく息が漏れ、血にまみれた漆黒の瞳から、徐々に光が失われていく。


「終わったぞ」


 左馬介のセリフと共に、獣の体はばたりと地面へ横たわった。ドンという鈍い振動に泉の水がピチャリとはねる。左馬介は背後を振り返ると鶴の手を握りしめた。鶴があっけに取られた顔で左馬介の顔を、その後ろで倒れている獣の姿を眺める。


「ご無事で……ご無事で……」


 鶴が声を上げて泣きながら、左馬介の胸に縋りついた。左馬介の体に、鶴の慟哭と震えが伝わってくる。


「左馬、忘れ物だ」


 獣の額から自分の刀を抜いた土佐が、左馬介へ鬼包丁を差し出した。


「土佐、甚左、助かった」


「間に合って何よりです。鶴殿も怪我はないようですね」


 甚左衛門が長弓の先で、熊の死体を小突いて見せる。


「そもそもこいつは何ですか? 熊公なのは分かりますが、こんなにでかいのは見たことも、聞いたこともありません。それに毛の色も違う気がします」


「蝦夷熊だな」


 土佐がボソリと呟く。


「蝦夷、熊、ですか?」


 それを聞いた甚左衛門が、不思議そうな顔をして熊の顔を覗き込む。


「津軽の先、蝦夷の地には本州の倍ぐらいの大きさの熊がいるそうだ。こいつは蝦夷の地からここまで流れてきたのか、昔からここに住み着いていたのかは分からないが、話に聞く蝦夷熊の姿にそっくりな気がする」


「土佐殿は意外と博識ですね。私としてはこの山の主だと言われた方が、よほどに納得できます」


「甚左、この世には神も仏もいない事ぐらい、お主もよく分かっておるだろう?」


「観音様は信じても良い気がします。それと(たたり)もです」


 甚左衛門のセリフに、土佐が首をひねって見せる。


「俺たちが罰当たりなのは確かだ。しかし女に興味がないお主が、どうして観音様なんだ?」


「そこに実物がおりますからね」


 そう告げると、甚左衛門は左馬介の胸に縋りついて泣く鶴の後ろ姿を指差した。

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