仕留め矢
左馬介は夢を見ていた。すぐに夢だと分かる夢だ。死んだはずの男が、左馬介に向かって朗らかな笑みを浮かべている。
「左馬、それでは母衣持ちにはなれぬぞ」
「俺が悪いのではない。馬が言うことを聞かぬのだ」
左馬介は男に向かって文句を言った。男は遠駆けで馬を駆り続けた汗を拭うと、左馬介の側に馬を寄せる。
「そうではない。馬も女子も同じだ。左馬、お前が合わせるのだ。さすれば相手はお前をどこまでも遠くに連れて行ってくれる。どこまでもだ」
「それはいい。ならば極楽までも連れていってもらえようか?」
「もちろんだ。それが良き女子と言うものであろう。左馬、お前はいいやつだ。それに腕も立つ。だが不器用すぎる」
ヒィ――ン!
馬が不安そうに嘶く。左馬介はそれを宥めようと、馬の首を撫でてやった。しかし馬は左馬介の言うことを聞こうとはしない。まるで狂ったみたいに嘶き続ける。牝馬は後ろ足で大きく蹴り上げると、今度は前脚を高々と掲げた。
『これでは駆るどころでは……』
左馬介の前では、熾火になった囲炉裏の火が赤い光を放っている。再び目を閉じようとした左馬介の耳に、馬のいな鳴きではなく、絹を裂くような悲鳴が届いた。それが誰の悲鳴なのかはすぐに分かった。
『鶴だ!』
左馬介は素早く起き上がると、傍に置いてあった鬼包丁を手にほったて小屋の壁を蹴り飛ばす。外は夜の帷が落ちた濃紺の空に、東から昇ってきた月が輝いている。
「化物め!」
鶴の悲鳴だけでなく男の怒声も上がった。それらは裏手にある湧水の辺りから聞こえてくる。左馬介は鬼包丁の鯉口を切ると、笹薮の中へ身を躍らせた。
ウギャアア――!
飛び込むや否や、誰かの絶叫が耳をつんざく。左馬介が戦場で何度も聞いた音、断末魔だ。暗闇の中、笹をかき分けて進むと目の前に白いものが見えた。洗いざらしの木綿の着物から伸びた女の太ももだ。その横には皿や椀が散乱しているのも見える。
左馬介は笹薮を飛び出すと、鶴へ向かって駆け出した。しかしぬめりとした何かに、足を取られそうになる。同時に鼻腔に濃厚な血の匂いが漂ってきた。
グギャ!
今度は何かが潰れる低く鈍い音が響く。鬼包丁を手に音がした方へ体を向けると、真っ黒な巨体が笹の間から姿を現した。後ろ足で立つ姿はどう見ても熊だが、胸にあるはずの白い毛がない。それに背丈が左馬介の二倍以上もある。そいつが、口に咥えていた物を左馬介の方へ放り投げた。ちぎれた男の上半身だ。
『これは本当に熊なのか? それとも別の獣か?』
左馬介は訝しみながらも、ジリジリと間合いを詰めた。だが獣は唸り声を上げると、左馬介の方ではなく、地面に倒れている鶴へ向かおうとする。
「畜生めが!」
左馬介は鬼包丁を上段に構えると、獣の背中へそれを振り下した。しかし素足のため、男の遺体から流れ出た血溜まりに足を滑らせる。獣はその巨体にもかかわらず素早く体の向きを変えると、丸太のように太い腕を振り回した。左馬介は咄嗟に体を回転させつつ背後へ飛び退く。
グオオオオオオ!
獣は左馬介を威嚇するためか再び後ろ足で立ち上がった。左馬介はそれに応えるべく正眼で鬼包丁を構える。その時だ。何かが割れる音がした。
「左馬介様、お逃げください!」
皿を手に、鶴が声を張り上げる。それに反応して獣が鶴の方へ顔を向けた。左馬介はその隙をついて鬼包丁を心臓目がけて突き出す。だが振り上げた腕によって阻まれ、左馬介の手から鬼包丁が弾き飛ばされる。刀を失った左馬介は獣の横をすり抜けると、鶴と獣の間に立ちはだかった。
「お前の相手は俺だ!」
腕を傷つけられた怒りか、左馬介の挑発に対する答えか、獣が再び吠える。その咆哮に驚いた鳥達が、夜の闇へと舞い上がっていく。
「立てるか?」
脇差を抜きつつ左馬介は鶴に声をかけた。
「左馬介様、私などにかまわず、すぐにお逃げください」
「立てるなら立て!」
そう怒鳴りつけると、左馬介は脇差を掲げて獣との間合いを図った。所詮は女の足だ。こいつを仕留めぬ限り鶴は助からない。左馬介は脇差を持つ手に力を込めると、この身ごとそれを突き立てるべく左足を後ろに引いた。その目の前に鶴が飛び込んでくる。鶴は左馬介の前に立つと、獣に向かって大きく腕を広げた。
「喰らうなら、私を喰らえ!」
それを聞いた獣が大きく腕を振りかぶる。それが振り下ろされれば、鶴の体などひとたまりも無い。
ヒュン!
左馬介の背後で弓弦の鳴る音が聞こえた。獣は腕を振り下ろすことなく頭を横に振る。その左目には一本の矢が深々と突き刺さっていた。
ヒュン!
再び弓弦の鳴る音が響く。今度は獣の右目へ矢が突き刺さる。獣はたまらず前足を下ろすと、闇雲に突進しようとした。その巨体が、腕を広げたまま立ち尽くす鶴へ迫る。
「左馬、これを使え。眉間だ!」
その声と共に月の光を浴びて銀色に輝く刀が、左馬介へ向かって飛んできた。左馬介は跳び上がってそれを掴み取ると、槍のように長い刀を獣の眉間に突き刺す。まるで岩に突き刺したみたいに手がしびれたが、左馬介は全身の力を込めてそれを押し込んだ。獣の口から大きく息が漏れ、血にまみれた漆黒の瞳から、徐々に光が失われていく。
「終わったぞ」
左馬介のセリフと共に、獣の体はばたりと地面へ横たわった。ドンという鈍い振動に泉の水がピチャリとはねる。左馬介は背後を振り返ると鶴の手を握りしめた。鶴があっけに取られた顔で左馬介の顔を、その後ろで倒れている獣の姿を眺める。
「ご無事で……ご無事で……」
鶴が声を上げて泣きながら、左馬介の胸に縋りついた。左馬介の体に、鶴の慟哭と震えが伝わってくる。
「左馬、忘れ物だ」
獣の額から自分の刀を抜いた土佐が、左馬介へ鬼包丁を差し出した。
「土佐、甚左、助かった」
「間に合って何よりです。鶴殿も怪我はないようですね」
甚左衛門が長弓の先で、熊の死体を小突いて見せる。
「そもそもこいつは何ですか? 熊公なのは分かりますが、こんなにでかいのは見たことも、聞いたこともありません。それに毛の色も違う気がします」
「蝦夷熊だな」
土佐がボソリと呟く。
「蝦夷、熊、ですか?」
それを聞いた甚左衛門が、不思議そうな顔をして熊の顔を覗き込む。
「津軽の先、蝦夷の地には本州の倍ぐらいの大きさの熊がいるそうだ。こいつは蝦夷の地からここまで流れてきたのか、昔からここに住み着いていたのかは分からないが、話に聞く蝦夷熊の姿にそっくりな気がする」
「土佐殿は意外と博識ですね。私としてはこの山の主だと言われた方が、よほどに納得できます」
「甚左、この世には神も仏もいない事ぐらい、お主もよく分かっておるだろう?」
「観音様は信じても良い気がします。それと祟もです」
甚左衛門のセリフに、土佐が首をひねって見せる。
「俺たちが罰当たりなのは確かだ。しかし女に興味がないお主が、どうして観音様なんだ?」
「そこに実物がおりますからね」
そう告げると、甚左衛門は左馬介の胸に縋りついて泣く鶴の後ろ姿を指差した。