別れ矢
吹き返しの南風が吹いている。秋の風にしては妙に生暖かく感じられる風だ。烏丸は滝のような汗をかきながら、山の廃寺へと続く石段を登り続けた。
林の中で烏丸が意識を取り戻した時には、馬は甚左衛門に奪われており、烏丸は自分の足で廃寺までの道を駆けてきた。
それに昨晩から何も口にしていない。走ったことによる疲れだけでなく、腹が減って目が回りそうだった。それでもここまで駆けてこられたのは、烏丸の若さのおかげだろう。
流れ落ちる汗が目に染みる。烏丸は石段の途中で一瞬足を止めると、額から溢れる汗を拭った。先ずは女房たちから飯を奪い、何か食べないといけない。隠し金を持って逃げるのはそれからだ。
そう決意すると、烏丸は本殿跡に通じる石段を這うように登った。くずれて穴が開いた土壁から本殿跡を覗くと、垂髪に手拭いを巻いた女房がいる。
「飯だ。今すぐ飯をよこせ!」
烏丸は女に向かって怒鳴った。
「飯はありませぬ」
「何かあるだろう! 出さねばお前を食うぞ!」
本気で言っていると思ったのだろう。烏丸の剣幕に、女が体をこわばらせる。
「わずかですが、昨日の残り飯で作った草がゆなら本堂に――」
烏丸は女の言葉を待つことなく、壁の間から本殿跡へ飛び込んだ。昔は本尊が安置されていた須弥壇跡にぽつんと鍋が置いてある。何人かの女房たちが、茶碗やさじの用意をしているのも見えた。
烏丸は女房たちを突き飛ばして鍋を奪うと、草ばかりのかゆを碗に注ぐ。椀からは青臭い匂いしかしないが、食べられさえすればそれでいい。
へらを探そうと顔を上げると、烏丸が突き飛ばした女房が、尻もちをついてこちらを見ている。よく見れば、左馬介の女の鶴だ。金と一緒にこの女も奪ってやろうか? そんなことを一瞬考えたが、すぐに首を横に振った。
こんな陰気で、薹が立った女などいらない。手に入れた金で、もっと若くて気立が良い女を囲えば良い。だが左馬介にこれまでされたことを考えれば、このままにしておくのも癪だ。烏丸は殺気を込めた目で鶴を眺めた。しかし鶴は烏丸の態度に恐れることなく、冷めた目で烏丸を見つめ返す。
『左馬介と同じで、この女も俺のことを舐めているのか?』
烏丸の頭に血が昇った。食べるのは後回しだ。先にこの女を切ってやる。烏丸は腰に差した太刀へ手を伸ばした。そこで何かがおかしいことに気づく。鶴だけではない。女房たち皆が、こちらを蛇のように冷たい目で眺めている。それに男たちの気配がしない。
『他の者たちはどうした?』
林の中で意識を取り戻してからこの方、誰も人を見なかった。搦め手は全滅したが、流石に正面は全員がやられるとは思えない。逃げ帰ってきた者がいれば、先にここにたどり着くはず……。
なのに悪態の一つも、傷に苦しむ喚き声の一つも聞こえない。吹き返しの強い風が、廃寺の穴だらけの屋根や壁を通り抜ける音だけが響いている。その時だ。
「く、くる……」
烏丸の耳が微かな呻き声を捉えた。声は本堂の裏から聞こえた気がする。烏丸は椀を手にしたまま、本堂裏へ飛び出た。枯れたすすきが、風に揺れているだけで何もない。烏丸は恐る恐るすすきをかき分けて、奥へと進んだ。そこで目にしたものに驚く。
「何だこれは?」
ぽっかりと空いた草むらに、泥で汚れた男たちが、折り重なるように積み上げられている。そのどれもが全く動こうとはしない。ここまでたどり着いて死んだ者たちだろうか? それにしては目立った刀傷は見当たらなかった。
「ど、毒……」
再びうめき声が聞こえた。骸の山の端に横たわる男の手が、微かに動いている。
「とりかぶ……」
男のかすれるような声に、烏丸は自分が手にする碗を眺めた。慌てて背後を振り返ると、本堂裏から鶴がこちらをじっと眺めている。
『こいつは俺に毒を盛ろうとしたのか!?』
烏丸は太刀を手に、鶴に向かって突進した。
「おのれ、この蛇女めが!」
切り刻んでやる。そう思って太刀を振り上げた時だ。
ガン!
背中に何かがぶつかった。
『何だ、何が起きているんだ!?』
ガン、ガン、ガン!
それを確かめる間もなく、何かが烏丸の体を激しく打ち続ける。頭から流れ出た血が、烏丸の視界を真っ赤に染めた。その血が滴り落ちる先に、人の拳ほどもある礫が落ちている。
両腕で頭を防ぎつつ顔を上げると、烏丸はいつの間にか女房たちに囲まれていた。その全員が烏丸に向かって礫を投げてくる。
『に、逃げないと……』
礫に体を打たれながらも、烏丸は必死に手足を動かした。太刀を振り上げて威嚇しようとしたが、太刀はどこかへ行ってしまっている。
ドン!
再び頭に礫を受け、烏丸の体は仰向けに崩れ落ちた。起きようとしても体が言うことを聞かない。動けぬままに、雲が風に追い立てられるのを眺める。それを何かが遮った。女房たちが、烏丸を囲むように見下ろしている。
「お、お前ら、こんな事をして――」
烏丸の呼びかけに、女たちは全く表情を変えなかった。その全員が礫ではない何かを持っている。
『ま、薪……!?』
それを見た烏丸を死の恐怖が襲う。
「や、やめろ、やめてくれ!」
烏丸は必死に叫んだ。だが女房たちの表情は変わらない。冷たい目で烏丸を見下ろし続ける。
ドン!
女房たちが振り上げた薪が、一斉に振り下ろされた。
「お鶴さん、早くお行き――」
それが、烏丸の耳に届いた最後の言葉だった。
* * *
左馬介は夢を見ていた。すぐに夢だと分かる夢だ。死んだはずの男が、左馬介へ笑みを浮かべている。
「小次郎、やはり行くのはやめろ」
「左馬、これは母上の招きだ。それを断るなど、子の道に反する」
男は左馬介に対し、心配ないとでも言うように手を振って見せた。
「間違いなく、これは片目殿の陰謀だ」
「左馬、お前はいつも心配し過ぎなのだ。お前を含め、周りがその様な事を言うから、兄上との間に変な噂が立つ」
「お主がどうしても行くと言うのなら、俺が短刀を懐に控えの間に座る。そうすれば、向こうも滅多なことは出来ぬ」
「単なる食事だぞ。それに母上がいるから長くなる。武辺者のお前には退屈なだけだろう。そうだ!」
男が目を輝かせる。
「何だ?」
「瑞鶴を貸してやる。食事の間に攻めてみよ。中々の牝馬だぞ」
「そんな事をしている場合ではない!」
「左馬、小田原だけでなく、叔父上との間もきな臭い。まだまだ戦は続くだろう。お前は俺の側に張りついているのではなく、そこで手柄を立ててもらいたいのだ」
「手柄が何だ! 俺は――」
男は片手を上げると、左馬介の言葉を遮った。
「お前の攻め方がどうだったかは、俺が後で瑞鶴に聞く。手抜きなどするなよ。すぐに分かるぞ」
朗らかに笑いつつ、男が左馬介へ手綱を渡そうとする。左馬介はその手を掴んだ。全てが冷たく、凍り付く様に感じられる中、握った手だけが、まるで温み石の様に暖かい。
「行くな!」
男は左馬介の叫びを無視すると、その手を振りほどき、屋敷へ向かおうとする。左馬介は手に力を込めた。そこへ行ってはいけない。その先でお前を待っているやつは、お前が考えているよりはるかに恐ろしい男だ。あの片目が宿すのは、ほの暗い嫉妬の炎だ!
ザ――!
左馬介の耳に、水が勢いよく流れる音が響いた。周りは暗く、視界ははっきりとしない。体は自分のものとは思えないぐらいに重く冷たかった。どうやら三途の川を渡ろうとしているらしい。その先は既に決まっている。地獄だ。
だが左馬介の耳に聞こえる水の音は早く、大した流れとは思えない。自分が育った家の裏手にあった小川と同じだ。現世とあの世の間にあるのだから、向こう岸が見えぬほどの川だと思っていたが、実は違うらしい。
そんなことを考えている間にも、体からは僅かな震えすら失われていく。それでも先程見た走馬灯の続きだろうか、未だに手に温もりを感じた。
「左馬…様…さ…左馬介…様……」
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。暗くはっきりとしない視界の先に、黄色く光る灯りが見えた。
『蛍だろうか?』
今は秋の終わり。蛍が飛ぶ季節はとうに終わっている。いや、あの世には季節などないのかもしれない……。
「さ…左馬…介様…左馬介様……」
再び声が聞こえた。必死に目を凝らすと、女がこちらをじっと見つめている。先ほど蛍と思ったのは、その瞳に映る月の光だ。
「つ…鶴…か?」
「はい。鶴でございます」
そう答えると、鶴は左馬介の体に身を寄せた。その体はとても温かく、心地よいものに感じられる。
「う…海に…は…いけぬ…な……」
薄れゆく意識を必死に保ちながら、左馬介は鶴に声をかけた。
「鶴は…鶴は…海を見に行きます。左馬介様と一緒に見に行きます」
「う、海は…いい……広く…自由…だ……」
左馬介は自分の体が海の底へ深く、より深く沈んでいくのを感じた。それと共に、鶴の温もりもどこかへと去っていく。
「鶴は海を見に行きます」
月が青白く照らす左馬介の頬を、鶴が愛おしそうに撫でる。その背後では、女房たちが左馬介へそっと手を合わせた。
もう虫の音はどこにも聞こえない。
《完》
戦国の世の無名の女性たちを描きたいと思って、書き始めた作品です。
元々は「戦陣女郎」と呼ばれる、この時代に戦場で春を売る女性たちと、男たちとの間の話を、一話完結で書くつもりでした。その際に、どうして女性たちが故郷を捨ててそこに至ったのか、前日譚として思いついた内容です。
本編は内容的に、どう考えても作者の手にあまりそうなので、その背景である前日譚の方を書くことにしました。なので、この作品における作者的な主人公は、左馬介や朝日ではなく鶴です。
この時代、女性は社会的にとても弱い存在でした。その中で過酷な運命の元、物の様に扱われてきた鶴の再生と自立がテーマです。同時に、どんな時代でも女性が持つ、母性とでも呼ぶべき無償の愛も描きたいと思いました。
自分の拙い文では、それをお伝えできたとはとても思えませんが、その断片でも感じて頂けたなら、書き手冥利に尽きます。
もう一つのテーマは歴史上の敗者、あるいは弱者として一緒くたにされる、名もなき者たちの生きざまです。その背景として、太閤秀吉の小田原征伐後の奥州、いわゆる東北地方を選びました。これは自分が東北出身と言うのもありますが、奥州の地は中央からの征服の歴史であり、常に敗者の立場でもあります。
古くは坂上田村麻呂の蝦夷討伐、次が源頼朝による奥州合戦、太閤秀吉による奥州仕置と続き、最後が戊辰戦争になります。余談ですが、東北には関東にゆかりを持つ地名が多く存在します。これは頼朝の奥州合戦で、多くの地が関東の御家人たちに与えられた事によるものです。
秀吉が小田原征伐に向かう頃でも、奥州の地はまだまだ戦国の真っ只中であり、中央に比べると何十年も遅れていました。多くの鎌倉以来の名家は下克上にあって、早々に没落したり滅んだりしていましたが、奥州ではまだ残っていました。
本作でも使わせていただいた、秀吉の奥州仕置で取り潰された大崎家や葛西家なども、奥州合戦にその祖を持つ家です。実際、政宗は旧大崎領や、葛西領で一揆を画策していますので、弾正の米沢公からの密書の話も、その辺りをなぞっています。
最後に、本作は完全なフィクションですが、登場人物にはモデルになった方がおり、この場を借りてご紹介させていただきます。
・新城貞盛
新城盛継がモデル。伊達政宗が二本松城の畠山家を攻めた際に、畠山義継は政宗の父の輝宗を人質にとりますが、輝宗ともども撃ち殺されます。朝日の母の月夜はこの際に亡くなったという設定です。その後、子の国王丸を立てて伊達の猛攻から二本松を守り切った人物です。
・後藤清兵衛
鬼庭良直がモデル。本作ではその当人ではなく、弟の設定にしています。それでも年齢的にはちょっと微妙ですが、フィクションとして目をつむってもらえると助かります。
伊達政宗の父、伊達輝宗に抜擢されて評定衆になった人物です。輝宗が殺された後、二本松城を囲む伊達と南奥州および佐竹の連合軍との戦、「人取り橋の戦い」で、齢73にて伊達軍の指揮を取りました。
殿として踏みとどまり、相手に突撃することで、伊達政宗最大の危機を救って戦死します。その際は重い甲冑がつけられずに、軽装で戦ったという逸話も残っています。
良直が離婚した正室の直子が、再婚して生んだ子供が、政宗の参謀として有名な片倉景綱(小十郎)です。この直子が清兵衛が死に際に問いかける義理の姉「直」のモデルになっています。
・左馬介
架空の人物ですが、伊達政宗の弟、伊達政道(小次郎)の乳兄弟で、親友だったという設定です。伊達政道は小田原征伐の前に、政宗によって暗殺されました(この辺は諸説あり)。
政宗が政道を恨んでいたのは本当らしく、8代にわたって供養を営むことを禁じています。その辺りを加味して、本作では政宗が政道を激しく嫉妬していたという設定にしています。
・朝日
架空の人物ですが、太閤秀吉の奥州仕置で、小田原に参戦しなかった多くの家が取り潰されており、取り潰された家で一人娘の為、男のように育てられたという設定です。
本作の中で、貞盛が朝日の母親の月夜を回想する場面があり、「あれも最上殿と同じで」と言う台詞がありますが、この最上殿は政宗の母親の義姫の事です。戦場に赴き仲裁をするなど、かなり肝の据わった女性だったようです。
因みに、兄の最上義光の娘の駒姫は絶世の美女で、豊臣秀次に懇願されて輿入れしますが、秀次に会う前に、秀吉によって処刑されてしまう悲劇に見舞われます。
・小笠原甚左衛門
架空の人物で、宮本武蔵の不意打ちを鍋の蓋で防いだという逸話で有名な、塚原卜伝の弟子という設定です。でも武蔵との逸話は、年齢的にも無理の様な気がします(笑)。
卜伝は常陸国、今の茨城県の出身です。その当時、常陸の佐竹氏は南奥州の覇権を賭けて、伊達氏とやり合っていましたが、後に北条氏からの圧力で、佐竹氏は奥州から手を引きます。
また会津の蘆名氏の後継問題でも、佐竹氏は伊達と競い合いました。結局、蘆名氏の養子は佐竹から出ることになり、これが政道(小次郎)が暗殺される原因の一つだと言われています(蘆名内の伊達派は小次郎を推していた)。
なので卜伝も奥州との関わりがあり、津軽の方まで足を伸ばしたという逸話が残っています。それを背景に、弟子として登場させてみました。
・土佐守
こちらも架空の人物で、小坊主崩れが無常観を抱いて、人を殺しまくるという設定ですが、完全な創作です。
それ以外の大崎葛西の一揆や、その元になった木村親子、さらにその元になった秀吉の奥州仕置は、史実をそのまま使わせて頂いております。
本作の背景については以上です。最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。色々と至らぬ作品ではありますが、一言でも感想をいただければ、今後の励みになります。どうかよろしくお願い致します。
P.S. 作者の脳内エンドロールは芥川也寸志作曲、「トリプティーク」です。