未練矢
朝日の前に立つ鮮血に染まる姿は、とても人とは思えなかった。まさに鬼だ。その者が鉈のような太く厚い刃を振るうたび、人の一部だった物が辺りに飛び散り、豪雨がいくら洗い流しても、紅に染まり続ける。
「あぁあああああ!」
その男を前に、朝日は絶叫した。それが自分を奮い立たせるための鬨の声なのか、それとも恐怖の叫びなのかは分からない。だが声をあげないと体が、いや、心が震えて、自分自身が失われてしまいそうになる。
「ハハハハハ!」
降りしきる雨の向こうから、笑い声が聞こえて来た。
『鬼が自分を笑っている!』
血まみれの男が上げる不気味な笑い声が、これまで朝日が自分は武士だと告げた時に、相手が自分に向けてきた嘲笑と重なった。その瞬間、朝日の体の震えが止まった。代わりに、心の奥から怒りが湧き上がってくる。
『その笑い声を止めてやる!』
朝日は再び怒りの声を張り上げると、野伏に向かって突き進んだ。その袖を誰かが引っ張る。振り返ると、濡れた白髪を顔に張り付かせた老人が、朝日の腕を必死につかんでいた。
「姫様、ここは我らに、我らにお任せください!」
縁者なのだろうか? その顔はどこか清兵衛に似ている。
「姫様を守れ!」
朝日がそんなことを考えている間に、老人が声を張り上げた。その声に我に返ると、野伏が血煙を上げながらこちらへ突進してくる。槍が体を裂こうとも、決して止まりはしない。
「うおおおおおお!」
野伏の鼓膜を破きそうな怒声が、朝日の耳をつく。
「姫様!」「死ね!」
何人かの老人や少年が、朝日の前へ立ちはだかるが、野伏が太刀を振るう度に、躯となって地面へ倒れていく。
「おのれ盗人が!」
朝日の袖を抑えた老人が、太刀を手に立ち向かおうとした。だが野伏が体を一回転させると、老人の体は風に舞う木の葉のように吹き飛ばされる。私が守るべきものが、私のために死んでいく。それを侍と呼ぶだろうか?
「私は姫じゃない! 侍だ!」
そう叫ぶと、朝日は原の家に代々伝わる、粟田口国吉の一尺七寸八分の脇差を構える。
「原市之進朝日、参る!」
それを聞いた野伏、左馬介の顔から嘲笑が消えた。
「潔し!」
左馬介は朝日に一言告げると、肩越しに大きく太刀を振りかぶった。朝日は振り上げた脇差しを横手に返す。あの鉈の様な太刀をまともに受けるのは無理だ。ならば、それで頭を潰されようとも、この刃が先に届きさえすれば良い。
「ヤァ――!」
朝日が素早く振った脇差は、左馬介の胸元を捉えたかに見えた。しかし左馬介は鬼包丁を振り上げたまま、体を後ろへ反らして太刀を避ける。朝日の渾身の一振りは、左馬介の具足を切り裂き、その胸に浅い傷をつけただけだ。
左馬介はお返しとばかりに、上段から鬼包丁を振り下ろす。朝日はそれが振り下ろされる前から、そこから放たれる風圧を感じた。まるで時間が止まったみたいに、巨大な太刀がゆっくりと自分の方へ落ちてくる。
『ああ、自分の一生はこれで終わる。最後に一言だけでも――』
回顧の念を抱いた朝日の前に、先程の老人が飛び込んできた。
「お逃げ……」
老人は声を上げたが、言葉を発し終える前に、脳天へ鬼包丁が振り下ろされる。刃は老人の頭を押し潰し、体を真っ二つにした。上がる血しぶきの向こうから、老人を倒した刃が朝日の体へも迫ってくる。刃は朝日の山吹色の陣羽織を、その下にある柔肌を切り裂いていく。
「うぁあああ!」
朝日の耳に自分の上げた悲鳴が響いた。同時に、胸元に熱い何かを感じる。視線を向けると、あらわになった白い乳房の間に、一本の赤い線が引かれていた。そこから血が溢れるように流れていく。
「女か?」
刀についた血糊を振り払いつつ、左馬介は問いかけた。その足元では、朝日をかばった老人の体が、臓物を水たまりにまき散らして伏している。
「土佐と甚左の仇だ。女だろうと容赦はしない」
左馬介は鬼包丁を正眼に構えた。これが再び振るわれれば、老人同様に真っ二つにされる。だが朝日の腕は脇差を持つのが精一杯で、それを持ち上げる事すらかなわない。それでも朝日は目の前に立つ男の目をじっと見つめた。しかし左馬介は刀を振るうことなく、背後へ飛びのく。
ビュン!
老人の体から流れ出た血だまりの中に、一本の槍が突き刺さった。背後からは鬨の声も響いてくる。
左馬介は再び飛んできた槍を、鬼包丁で打ち落とすと、さらに後ろへと下がった。朝日は左馬介を追いかけようとしたが、足が言うことを聞かない。体中から力が失われていく。
「朝日!」
ぼんやりしていく意識の中で、朝日が一番よく知る声が聞こえた。
「朝日、しっかりせよ。目を閉じるな。意識を保て!」
貞盛は崩れ落ちる朝日の体を抱きしめつつ声をかけた。朝日の赤いはずの唇は紫色に変わり、その淡麗で色白な顔は雪の様に白い。陣羽織は胸から流れ出る血で真っ赤に染まっていた。
「うおおおおぉぉおおお!」
その先では槍に囲まれた左馬介が、狂犬の様な唸り声を上げている。
「焦るな! 二段で囲め!」
貞盛は左馬介を囲む男達に声を掛けた。
「さ、貞盛…様……」
朝日がぼんやりとした目で貞盛を眺める。
「朝日、気を確かに持て!」
「朝日は…朝日は…武士でした…でしょうか?」
「もちろんだ。お前は立派な武士だ。原の家が誇るべき侍大将よ!」
そう答えた貞盛の目尻から、この男が戰場では決して見せなかった涙が流れ落ちる。
「はい――」
貞盛の言葉に、朝日は小さく頷いた。雨に濡れた顔には、今までの張り詰めた表情ではなく、生来の優しい笑みを浮かべている。
「ですが…朝日は…朝日は、…もう少し、貞盛様のお側にいとう…ございました……」
「何を言う、お前はまだまだこれからの者ぞ!」
貞盛はそこで言葉を止めた。自分を見つめる朝日の目から光が失われていく。朝日を抱く貞盛の手が、全身が震えた。なんて愚か者なのだろう。自分はこの子に、この子の母にしたのと同じ間違いを犯した。
この子の母、月夜が殿と行くと言った時に、それを止めることが出来なかった。それで伊達の大殿もろとも、片目殿に撃たれた。この子も同じだ。たとえなんと言おうが、縛り付けてでも、ここへ連れて来るべきではなかった。
何が武士だ。何が侍だ。そんなものには、そんなものには何の価値もない。この子のひたむきに生きようとした人生よりも、価値があるものなど何もありはしない!
「この子を頼む。寂しくないように、声をかけてやってくれ」
貞盛は朝日の目をそっと閉じると、心配そうに見つめていた子供たちに声をかけた。朝日の体を丁寧に横たわらせ、おもむろに立ち上がる。
「よくも姫様を!」「じいさまの仇だ!」
貞盛の視線の先では、幾本もの槍に囲まれた野伏が、鉈の様な太刀を手に、死地を抜けようともがいていた。その体にはいく筋もの傷があり、豪雨の中でさえも、そこから血がとめどなく流れているのが分かる。
「一同、槍を引け!」
貞盛は腹の底からの大音声を上げた。足元で飛沫を上げる雨の音を、枝を揺らす風の音を圧して辺りに響き渡る。貞盛は刀の鯉口を切ると、野伏に向かって歩み寄った。その動きに合わせて、左馬介を囲む槍が道を開ける。
「これより先は貞盛が私戦である。一切の手出し無用!」
貞盛はそう告げると、腰の太刀を抜いて正眼に構えた。
「新城貞盛義兼、原市之進朝日が仇を打たせてもらう。その方、名は?」
「二本松の鬼殿か?」
左馬介はそう答えつつ、鬼包丁を上段に構えた。貞盛から見るに、振り上げた刀の重さすら持て余しているように思える。明らかに血を流し過ぎだ。しかし獣の様な目は闇を宿し、瞬きもせずに貞盛をじっと見つめている。
「昔の話よ」
貞盛の答えに、左馬介はニヤリと口の端を持ち上げた。
「だろうな。こちらもただの野伏よ。語る名などない!」
「では、名無しで死ね!」
そう答えるや否や、貞盛は一気に間合いを詰めた。
キ――ン!
二人の刃がぶつかる金属音が辺りに響く。
ヒヒィ――ン!
その時だ。左馬介が背にする逆茂木の向こうから、馬の嘶きが聞こえた。次の瞬間、雨飛沫の中を馬が逆茂木を超えて飛んでくる。馬上では陣羽織姿の男が手綱を握っていた。甚左衛門だ。甚左衛門は素早く馬から飛び降りると、左馬介の体を馬の背へ乗せる。
「甚佐!」
呆気に取られたまま、左馬介は甚左衛門に声をかけた。しかし甚左衛門は左馬介の呼びかけを無視すると、馬の尻を太刀で叩く。驚いた馬は前足を高々と掲げると、そのまま逆茂木の上を飛び越え、あっという間に村の外へと去っていく。
その場に残った甚左衛門は、太刀を片手に貞盛へ丁寧に頭を下げた。
「小笠原甚左衛門、若輩ながら殿を務めさせていただきます。いざお相手を!」
そう告げると右手で太刀を構える。その肩は血に真っ赤に染まっており、左手はだらりとぶら下がったままだ。
「一同手出し無用。新城貞盛義兼、お相手仕る」
貞盛は再び太刀を正眼に構えた。甚左衛門が左足を軽く引いて、刃を前へと差し出す。その構えを見た貞盛が、甚左衛門に向かって小首を傾げて見せた。
「鹿島新當流。卜伝殿の弟子か?」
「所詮は人を斬る為のものですよ。大したものではございません」
「相手にとって不足はない。いざ参る!」
キ――ン!
降りしきる雨の中、再び鋼が激突する音が辺りに響いた。




