鏑矢
夜半に降った秋雨のせいか、辺りはまだ朝靄に包まれていた。刈り入れを迎えた稲穂の間を、薄汚れて真っ黒になった男たちがうごめいている。男たちは、この朝もやに紛れて、村の中へと入り込んでいた。
既に田から水は抜かれていたが、収穫にはまだ少しだけ早い。鍬持ちたちの朝がいくら早くても、まだ誰も起きてくる気配はなかった。所々に置かれた案山子だけが、男たちを無言で眺めている。
男たちは、あぜ道の間を獣の様に駆けると、田の端で頭を垂れる稲穂に手を伸ばした。両の手でその実入りを確かめる。
「こっちはほとんど実が入っている。そっちは?」
「こっちも大丈夫だ。それほど待たずに、刈り取りを始めるだろう。今年は夏にやませが吹かんかったし、近頃じゃ一番ましだな」
「この冬は追い剥ぎをかける面倒などなしに、楽が出来そうだ」
「金に替えれば酒も飲める」
「ふふふ、そうじゃな」
男たちは互いに額を寄せ集めると、小さく含み笑いを漏らす。その間から、まだ少年と言ってもいい若者が、おもむろに立ち上がった。
「俺たちに持っていかれると分かっていながら、何ともご苦労なことだ」
少年が背中に背負った矢筒から、雉の羽をあしらった一本の矢を取り出す。
「おい烏丸、何をするつもりだ」
「ちょっと脅すだけさ」
「我らの仕事は物見だ。弾正殿から叱られるぞ!」
「弾正殿は俺を叱らない」
烏丸と呼ばれた少年は男たちの声を無視すると、矢を弓へつがえた。
「待て烏丸!」
他の者が制止するより早く、烏丸は雉の羽がついた鏑矢(警告用の音が出る矢)を、村の鎮守にある銀杏の神木へ向けて放つ。
ヒョウ――!
矢は甲高い音を立てつつ、木の幹に回されたしめ縄へ突き刺さった。
「あんた!」
横にある板張りの屋根の家から、女房らしきものの声が上がる。
「烏丸、逃げるぞ!」
それを聞いた烏丸は、まだあどけなさを残す顔に、イタチみたいな表情を浮かべて見せた。
「逃げる? 何を言っているんだ。ちょっとの間、ここを立ち去るだけだ」
烏丸は稲穂の先にある村の家々を眺めた。それはかつて自分が住んでいた村を、役立たずと言って、自分を追い出した奴らを思い起こさせる。
「せいぜい、震えて待つがいい」
そう吐き捨てると、烏丸は未だ濃く残るモヤの向こうへ、男たちの後を追って姿を消した。
* * *
「鏑矢を、放ってきただと!」
早坂左馬介は彫りの深い顔に青筋を立てると、少年を床へと放り投げた。烏丸の体は、廃寺の腐りかけた床に出来た雨漏りの上を、飛沫を上げて滑っていく。最後はボロボロの土壁へ、盛大にほこりを立てて激突した。
「くそ餓鬼、物見というのは遊びじゃないんだ」
左馬介は床に転がる烏丸を冷めた目で眺めつつ、腰に刺した、鬼包丁と呼ばれるだんびら(大刀)の柄へ手をかけた。男たちはその姿を固唾を飲んで見守っている。
「まだ子供だ。そのぐらいで許してやれ」
不意に聞こえた声に、左馬介は鬼包丁の束から手を離して背後を振り返った。そこに立つ、この荒れ果てた山寺を根城に、野武士たちを束ねる伊藤弾正を睨みつける。
「弾正殿は、この餓鬼に甘すぎですぞ!」
「烏丸には儂からもよく言っておく。あの辺りは昨年も襲っておるし、我らが物取りにかけるのは、鍬持ちたちだって、よく分かっておるだろう。大勢に影響はない」
そう言って髭面をニヤつかせる弾正の顔を、左馬介は呆れた思いで眺めた。この男はこの髭面と臂力だけで、ここを率いている。
「人というのは不思議なもので、今年も大丈夫ではないかと思うもの。それをこちらから出向くと、警告してやる必要などありませぬ」
「それはお主の言う通りだが、事前に女子供を逃してくれれば、余計な抵抗も無く面倒が掛からぬではないか?」
「弾正殿のおっしゃる通りだ。大物見をかけたと思えば良い」
弾正の横に立つ小柄な中年の男が声を上げた。弾正の腰巾着で、ここの副将を務める高橋玄蕃だ。玄蕃は主人に従う犬の如く、弾正に何度も頷いて見せる。
「子供を手にかけると、少しばかり寝付きが悪くなるしな」
ゴザに転がっていた男からも、声が上がった。
「本気で言っているのか? 去年もどこかの女房に縋る子供を、平気で切っていただろう」
その問いかけに、男が首を横に振って見せる。
「餓鬼のくせに大人の邪魔をしようとするからだ。おかげで、女房はうんともすんとも言わなくなって、色気も楽しみもありゃしない」
「お前が下手だったんだよ!」
どっと笑い声が上がる。それを聞いた男が、漆の剥げた鞘へ手を伸ばした。
「もう一回言ってみろ!」
「暴れたいのなら、今度の物取りまでとっておけ!」
玄蕃の声に、周りの者たちも、そうだそうだと激昂する男を宥める。左馬介は足早に本堂を出ると、自分が寝起きに使っている掘立て小屋へ向かって、苔むした階段を上り始めた。
「随分と機嫌が悪いな」
登り始めてすぐに、しわがれた声が聞こえた。左馬介が足を止めると、大きな楠木を背に、槍、いや、槍に見えるぐらいに、長い刀を肩にかけた男が、地面に座り込んでいる。
「土左か。しばらく見なかったが、何処へしけ込んでいた」
左馬介は無精髭に着流しを着た、年がいっている割には、痩せ気味の男に声をかけた。本名ではないだろうが、この男はどこかの城持ちみたいに「葛西土左守」を名乗っている。
「これだよ、これ」
土左が左馬介へ、茶色い瓢箪を振って見せた。中には液体が入っているらしく、"ちゃぷん”と言う音も聞こえて来る。
「酒か?」
「そうだ。米も切れかかっているが、酒もないと言うからな。街道筋まで行って何人か切ってきた」
「まさか腰に履いているやつまで、相手にしてはいないだろうな?」
「何か問題でもあるのか?」
「ここの仕業だと分かれば、親族が仇を討ちに来る」
左馬介の台詞に、土左はフンと鼻を鳴らして見せた。
「太閤だか太鼓だかよく分からん奴の仕置きに、どいつもこいつもおののいてやがる。こんなところまで、わざわざ出てきたりはしないさ」
そう告げると、土佐はひょうたんの中身を喉を鳴らして飲んだ。
「上方の腕じろ侍共に、尻尾を振って右往左往するなんぞ、頼朝以来のこの地の床几持ち達も、地に落ちたもんだ」
「何事も祇園精舎ですよ」
今度は若く張りのある声が響く。左馬介の行く手、坂の上から若侍姿の男が降りてきた。小笠原甚左衛門と名乗る男だ。甚左衛門も得体が知れない男だったが、土左と同様に腕が立つ。
それにほとんど乞食同然の男たちの中で、この男だけは装いが違った。長い髪を束ねて背に落とし、戦袴までつけている。ここへ流れ着く前は、どこかの殿様の小姓だったという噂もあったが、甚左衛門を一目見れば納得できた。
「甚左か? 酒を飲みつつ世を儚んでいるのに、茶々を入れるな」
土左が甚左衛門を見上げつつ、肩に掛けた刀を叩いて見せる。
「腰に履く長いのも種子島の前では形無しだ。しかも腰抜けばかりで、酒を手に入れるのも面倒になった。ちょっと前までは落武者狩りだけでも、十分に酒が飲めたのにのう」
そう告げると、鎖骨の浮き出た肩をすくめて見せる。甚左衛門はそれに苦笑いで答えると、今度は左馬介の方へ視線を向けた。
「何でも、弾正殿のお稚児が、村で大物見まがいの事をしてきたと耳にはさみましたが?」
「その通りだ。こちらを警戒して、刈り取りが遅れることだろう」
「兵糧がつきかけていると言うのに、全くもって余計なことをしてくれます」
「そう言うお前さんは、随分と顔色がいいようだが?」
土左の問いかけに、今度は甚左衛門が肩をすくめた。
「どう言う訳か、私の椀には、女房たちが少し多めに飯をよそってくれるのですよ」
「色男、ここに至れりだな」
「もっとも、私は女性に興味はありませんがね」
「これは怖い、怖いのう。寝込みを襲われないよう気をつけねばならぬ」
土左が芝居かかった口調で、両手で襟元を寄せる。
「心配しなくても、土左殿は私の好みではありません。左馬殿なら考えます」
「勘弁してくれ。俺に衆道の趣味はない」
「でしょうね。いい女房がいらっしゃる。そうだ、忘れていました。鶴殿が左馬殿を探していましたよ。あの稚児と揉めたことを耳に挟んだのでしょう」
「女房たちの噂話は、母衣武者よりも鳥よりも早い。何より、あれはいい女だ。左馬、お前が死んだら、俺がもらう」
「そうしてくれ」
土左はニヤリと笑うと、手にした瓢箪を左馬介へ投げた。
「残りで悪いが鶴殿と一杯やってくれ。俺はその辺で酔いを覚ます」
「酔い覚ましに何人か切ったりしないでください」
立ち上がった土左へ、甚左衛門が声をかける。
「なんぞ、不都合でもあるのか?」
「青蠅と、匂いがたまりません」
「確かにそうだな……」
二人は肩を並べて、本堂へと続く崩れかけた石段の坂を降りて行く。左馬介はそれを見送ると、自分の行く手を眺めた。坂の上では日暮れに帰る鳥達の姿と、白い煙の筋が見える。どうやら夕餉の支度を始めたらしい。
「戻ったぞ」
「おかえりなさいませ」
女が顔を上げて左馬介の方を振り返った。少しとうがたった上に、だいぶ日に焼けてしまってはいたが、女の顔には育ちの良さが十分に残っている。
この女、鶴は左馬介たちが去年襲った、寺社荘園の名主の娘だった。鶴は地侍のところへ嫁いだが、子が出来ぬために実家へ戻されたらしい。左馬介たちが村を襲った時、その寺社を庇護していた一族は誰も助けに来なかった。その一族は太閤秀吉の奥州仕置により、領地のほとんどを失っている。
今や、この奥州の地は上方から来た者たちのやりたい放題だった。兵を動かせば、正当な理由があっても、秀吉の「戦御法度」を口実に、どんないちゃもんをつけられるか分かったものではない。
鶴は燃え盛る屋敷の中で、ポツンと一人、馬屋の土間に座り込んでいた。それを見つけたのは、鞍の鐙を壊した左馬介が、水を被って、馬屋の中を覗いたからだった。そこで鶴を見た時、左馬介は鞍のことを忘れた。気づけば鶴を小脇に抱え、火の粉を払いつつ外へと飛び出していた。燃え盛る母屋をじっと見つめる鶴の瞳が、まるで玉の様に美しかったのを覚えている。
弾正は鶴を自分の女にしたがったが、左馬介は断固として自分の戦利品だと言い張った。弾正はそれに難色を示す。先ずは己のものにして、飽きたら誰かの褒美にするつもりだったのだろう。しかし普段は口を開かぬ土左が、「それはいい。お似合いだ」と左馬介に告げ、甚左も「拙者も、そう思いまする」と答えたところで、弾正は何も言わなくなった。
この野武士団の中で、最も腕が立つ三人を、敵に回したいと思うものはいない。以来、左馬介は鶴を自分の女房にして暮らしている。無理やり連れて来られたにも関わらず、鶴はよく働く女だった。
「土左から酒をもらった」
「土左様からお酒を?」
鶴が左馬介が手にする瓢箪へ視線を向ける。
「姿が見えぬと思っていたら、街道筋まで出張っていたらしい。つまみになるものはあるか?」
「菜の物でよければ、湯通ししたものに塩を振ります。それに僅かですが味噌もございます」
「菜でよい」
鶴は湯通した菜に塩を僅かに振ったものを、欠けた皿の上に乗せて左馬介の前へ差し出した。その横に欠けた茶碗を添える。
左馬介は無言でそれを受け取ると、菜を口の中へ放り込んだ。続けて、瓢箪から注いだ酒を喉を鳴らしつつ飲み干す。空になった茶碗へ鶴が酒を注いだ。
鳴り響く虫の音と酒が回るのを感じながら、左馬介はなんで自分はここにいるのかを考え始めた。もう幾度も同じことを考えているし結論も出ている。俺は死ぬべき時に死ねなかった。だから乞食同然に生きている。
『仏が与えた罰なのか?』
茶碗の中に映る、無精ひげの男が首を横に振った。神も仏もこの世にはいない。これは俺が俺自身に与えた罰だ。左馬介は自分の体が揺れるのを感じながら、目の前にある女の顔を見つめた。鶴の手が左馬介のほほをそっとなでる。その黒い瞳が映すのは、親、兄弟、隣人、その全てを手にかけた男だ。
『どうして俺を殺さない?』
その理由は未だ謎のままだ。だがそれを考える前に、左馬介の体がとても柔らかく、とても心地よいものに包まれる。酒に酔った左馬介は、鶴の太ももを枕に深い眠りへと落ちていた。