生涯で一度の恋愛
死の反対は生と思われるか否か、はたまたどちらも表裏一体であるか。
哲学的思考は日に日に、文学的思考に変化を遂げている。(少なくとも私の中で)
なぜならそれは、生命や倫理感といった比較的軽薄なもので図るにはあまりにも陳腐であるからだ。
一つに人は死を恐れる。それはもちろん本能である故、ひと時の小鳥のさえずりをまだ聞き足りないと思うが故。至極当然でいわゆる“普通”の考えである。しかし人間はやはり自己中心的であって、いかんせん救いようがない生き物だと毎日頭を悩ませる。それは生きる為だけに他の生物の屍の山を作り上げている。残酷か、または摂理か。私には到底理解す気もなければ理解する頭もない。しかしそれを軽視や冒涜するほどに浅はかでもないのだ。では仮に自然の摂理だったとしよう。人間は生き残るがゆえに他の尊い生物の上に立たなければならぬ。そんな簡単かつ残虐的なことに人々は日々目をつむっているのがこの時代のこの世界。私には理解できぬことが一つだけある。「死は平等であるかどうか」、このことについて倫理や道徳を問うことはしたくない、先述したとおりである。私はこの題に並々ならぬ情熱があるわけでもなければ生業として励んでいるわけでもない。ただ何となく、夏のあつさにやられた夕暮れと眠い目をこすって目覚めた朝のような、言葉にするのが困難なあの無気力さに度々調子をくるわされるものでね。
死は恐ろしい。生きとし生けるもの、その万物に訪れる終着点。それは人と家畜では平等でないと思う私だ。肉を熱い鉄板の上で跡がつくまで焼き、魚の臓器を引きずって、野菜を粉々に切り刻む。今あなたは何を想像しただろう。目の前に出てくる美味しいごちそうが浮かんだであろうか。少なくとも私はそれを聞いて澄んだ気持ちにはならない。皆もそうだろう。しかし日々それに悩まされないで生きているのは本質から目を背けるからだ。生物を殺し、調理し、体内に取り込むことが普通だと、今から何千年前からも続いてきた弱肉強食の世界ではそういわれる。しかし人は自らが絶命するのを変に恐れる。もちろん恐れないのは異常だ、私だって怖い。その恐ろしさの根源は何か、「愛情」だ。
両親、友人、仲間、恋人、血を分けた自らの子孫。これらの人間に与えた愛情、はたまたうけてきた愛情。それらはすべて生にあり、生に帰還する。死んでいては受けも与えもできぬことだから。私は人間が大嫌いだ。死を恐れるその浅はかな思考が。しかしこの時代にも愛は不変で愛は強い。それ故に死を恐れる人間が私は大好きだ。
「死は愛と相反し、愛は死に帰還する。死と愛はまるでにつかない双子のよう」
私はそういう。故に人は生涯をかけて死と恋をする。