第5話 松坂の過去2
次に俺達は、波が穏やかな落陽前の海岸に辿り着いた。人の気配も少なく、夕日が海を鮮やかに照らす幻想的な景観は、カップルにとって絶好のデートスポットだ。
その中に一組のカップルがいる。片割れが昔の俺だ。この日のことは、今でも鮮明に覚えている。俺は22歳だった。隣にいるのは、当時の彼女の翔子だ。
翔子は俺の所属していた音楽事務所の事務員だった。彼女とは仕事を通して縁ができ、そしていつからか恋仲になっていた。
「ロマンチックね」
翔子が夕日を見つめながら呟いた。
「……ああ」
昔の俺はやや落ち着かない様子で答えた。
落ち着かないのには訳があった。俺はこの日、翔子にプロポーズをしようと心に決めていたからだ。ズボンの右ポケットにはお揃いの結婚指輪を忍ばせていた。
「あのさ……あの……」
昔の俺は次の言葉が出てこない。――翔子にプロポーズするつもりだったのだ。
「打ち寄せる波の音も素敵ね」
そんな昔の俺をよそに、翔子は波の音に夢中だ。
「うん? ……まあそうだな」
昔の俺は翔子の隣に移動し、一緒になって波の音に耳を立て始めた。――ヘタレて、次の言葉が言えそうになかったので、仕方なく、だ。
「まあ、悪くないな。波がまるでお前の声の様に聞こえるよ」
「ぷっ、何それ。ちょっと変な人」
翔子は微笑みを浮かべる。
「それじゃあ、帰りましょうか。明日は互いに朝から忙しいのだし」
「……ああ」
この日……いや、その後も翔子に結婚指輪は渡すことは無かった。俺達二人は次の年に破局を迎えたのだ。原因は互いの多忙さによるすれ違いといったところだ。
翔子は俺と別れた後、すぐに事務所を辞め、そのまま地元の田舎に帰ってしまった。その約2年後に彼女は結婚、同時期に一児の子供を儲けた。子供を産んだ5年後に離婚をし、今に至るまで再婚はしていないみたいだ。
こういった情報を俺が知っているのは、翔子が今でも、事あるたびに電話を寄こしてくれるからだ。俺の方からはしないのに……全く、律儀でいつまでも良い女だ。
「結局、渡せず仕舞いだったな」
「そうじゃの。他に良い人は見つからなかったのかの?」
「ああ。これまでに何人もの女と付き合ったが、翔子より素敵な女は見つからなかったよ」
「そうか。――過去を修正するということはじゃな、お前さんが彼女に指輪を渡した過去を作れるということでもあるのじゃ」
「指輪を渡す……結婚か……」
結婚なんて一大イベントは、人生においてその影響は計り知れない。
もし、俺と翔子が結婚したことになれば、今いる彼女の子供は一体どうなるのだろうか。そして、彼女は今よりも幸せなのだろうか。その答えを、俺は果たして知るべきなのだろうか。
――俺はパンドラの箱の前で、それを開けようかどうか逡巡しているのかもしれない。
「まあ、最終的に答えを出すことじゃからな。それでは、次の場面に行こうかの」
「……そうだな」
<お願い>
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