3 魔王の記憶
魔王だった記憶はないという俺の言葉に、急速に顔色を悪くしていく千聡だったが。わずかの時間を置いて、声を震わせながら言葉を発する。
「あの、魔王様はもしかしてお怒りなのでしょうか? 先程私が不用意な行動を取ったから……いえ、御前に参じるのが遅くなってしまったから。あるいはこの世界に飛ばされる原因となった勇者との戦いにおいて、我々があまりに無力だったから……」
(勇者? 我々?)
なんかまた新しいワードが出てきたな。やはり魔王の振りをするのはやめて正解だったようだ。
「戸惑ってはいるけど、怒ってはないよ。本当に記憶がないの、千聡と会うのも今日が初めてだよね?」
「――この体でお会いするのは初めてですが。私は参謀として124年間お傍にお仕えする栄誉を賜っておりました、アーネットです。……本当にご記憶がないのですか?」
「……うん、ごめん。全然覚えてない」
「歴史上初めて魔族を統一した事も、魔族全ての命運を一身に背負って勇者との戦いに臨まれた事もですか?」
「うん」
「そんな……では、この傷もご記憶にありませんか!」
「――ちょ、千聡!?」
俺が見ている前で、千聡はおもむろに上着のボタンを外しはじめたかと思うと、肩口を大きくはだけさせる。
とっさに顔を逸らしたが。悲しいかな本能というのは正直で、横目でバッチリ見てしまった。
――雪のように白い肌に、ほっそりとした首筋。きれいな鎖骨のライン……そして、左肩に刻まれた痛々しい古傷の痕。
「これは私が魔王様に拾って頂いた日。己が力を過信して惨めに失敗し、全てを失い、全てに絶望して生きる意思をなくし。道端に座り込んでただ死を待つだけだった私に、魔王様がつけてくださった傷痕なのです。魔王様は私の肩に剣を突き立て、『痛いか? ならばそれは、おまえの体がまだ生きようとしている証だ。死ぬ事はいつでもできる。とりあえずその傷が癒えるまでの間、余に仕えてみよ』とおっしゃってくださいました。あのお言葉のおかげで、魔王様が生きる意味と目的を下さったから、今の私があるのです。この体にもこの傷痕が受け継がれていると気付いた時、どんなに嬉しかった事か……」
涙声で一気に語る千聡だが、残念ながら俺が返せる答えは一つしかない。
「ごめん、覚えてない」
「そんな……まさか本当に記憶を失っておられるなんて……」
崩れ落ちるようにガックリと両手を床に着いて、表情を絶望に染めて涙を流す千聡。なんだかすごく心が痛む光景だ。
いっそ、『ゴメン今の嘘。ちゃんと覚えてるよ』と言ってあげたくなるが、それは誰も幸せにしない嘘だろう。
すぐにバレて、千聡はより一層悲しむ事になる。
「え、ええと。人違い……って事はないかな?」
千聡のあまりの悲しみように、思わず俺にとって最も望まない結末に繋がる言葉を言ってしまう。
たとえ千聡とこれっきりになってしまうとしても、千聡が悲しんで泣いている姿をこれ以上見たくなかったのだ。
だが千聡は顔を上げると、あふれる涙を拭おうともせずに言葉を発する。
「それだけは断じてありえません! 臣アーネット、不肖の配下ながら、主君たる魔王様を見間違う事だけは絶対にありません。いくら姿が変わっておられようとも、その身に纏うオーラは魔王様そのものです。貴方様は間違いなく、私の主君にして魔族の王。魔王アドラスティア様なのです……」
「う、うん……」
なんか元気になってくれたっぽいのはいいが、言う事は相変わらずだ。
多分『アーネット』というのが前に言っていた別世界での千聡の名前で、『アドラスティア』は俺だろうか? なんか強そうだな、さすが魔王。
そして、俺オーラなんて出てるのだろうか? わりと存在感薄い方だと思うんだけど……。
そんな事を考えていると、どうやら気を取り直したらしい千聡が、強い目をして言葉を発する。
「魔王様がご記憶を無くしておられるのは残念でなりませんが、それでもこうして再会が叶った今日のこの日は、この世界に生まれ変わって最良の日です。ご記憶は私が必ず取り戻してご覧に入れますから、どうかその日まで私をお傍に置いて下さいませ。今は頭のおかしな女の戯言だとお感じでしょうが、貴方様は本当に魔王であり。私がいるべき場所はその足元にしかないのです!」
そう言って、千聡はまた土下座ポーズで勢いよく頭を下げる。頭が床に当たって『ゴン!』と大きな音を立てたのも気にせず、そのままの姿勢で言葉を続ける。
「魔王様がご記憶を無くされたのは、おそらく我々がこの世界に飛ばされる原因となった時。勇者との戦いにおいて魔王様がご自身の右腕と引き換えに聖剣を破壊なさった時に、あまりに多くの魔力を消耗しすぎたためだと思われます。それはすなわち、勇者との戦いにおいて有効な策を講じられなかった、参謀としての私の落ち度です。お詫びのしようもございませんが、その責はご記憶が戻った暁にいかようにも償いますから、どうかその時まではお傍にお仕えする事をお許しください。参謀としては使えないとおっしゃるなら、召使でも。奴隷待遇でも構いません。誓ってご迷惑はおかけいたしませんから。ですからどうか……」
頭を床につけたまま、必死に懇願する千聡。
ここまでされて断れるほど俺は鬼ではないし。なにより一目惚れした美少女が傍にいてくれるというのだ、断る理由なんてありはしない。
今は夏休みだし、ちょっと変わった女の子の夏休みの遊びなのかもしれないけど。それでも俺にとっては、最高の夏の思い出になるだろう。
そんな事を考えながら、俺は『千聡の好きにしてくれていいから、とりあえず頭上げて……』と、変わり者妄想少女をなだめるのだった……。
ここまでプロローグになります。
この後は以前と同じペースでの投稿……できたらいいな。