6月 2人の女賢者
「本当に感心するわぁ……」
ミランダ・ニコラスはでかいトランクを押しながら、独りごちた。
『ブリッツにナビをさせれば、間違いない』
幼い彼が喋り始めた頃には、もうそれはニコラス一家の常識となっていた。
父親のクリスチャンや姉のミランダがどれだけ道を間違えてもブリッツは決して道を違えない。それどころかブリッツの欲望のままに案内されたとしても旅の終わりには家族みんなが得をするような結末を迎える。
(そういえば、乗船前に美味しいお肉が食べられたのも、父さんのオルガンが聞けたのも、別れ際に父さんの機嫌がちょっと良くなってたのも、ちゃんとありがとうが言えたのも、お小遣いを余分に貰えたのも……全部ブリッツのおかげだっけ?)
ミランダは口をとがらせながら、先程までのできごとに思いを巡らせる。彼女は可愛い弟に深く感謝しながらも、ほんの少しその類い稀な才能をうらやましいと思っているのだ。
ブリッツはすごい。それに比べて自分はどうか、などと考えないではない。ただし、そんなに長くは続かない。ミランダはどっちかというとくよくよしない性分なのだ。それにこの件に関して言えば、悪いことばかりでもない。
(父さんだってしばらく私と離れて暮らせば、ブリッツの方が跡継ぎに相応しいって気づくわよね)
クリスチャンは優しい男である。しかしこと娘に関しては不器用極まりない父親だ。にも関わらず、娘に仕事を継がせたいというその熱意だけがいかんせん強すぎる。恋と都会を夢見るローティーンのミランダには、ちょっとばかりウザい存在である。
しかも言い返せばすぐさまへそを曲げるし、黙ってるとつけあがるし面倒くさいことはこの上ない。……決して悪い父親ではないのだが……むしろ、それさえなければ良い父親なのだが。
ミランダは長いため息を漏らした。
エラクシャクから3日間、フェリーはまずホルゲ郡シールスの港を目指し、その1日後にはレチェメリア郡サンマリの港に到着する。ミランダの目的地はサンマリからほど近い、オロイサンという街である。
ミランダが乗船して最初にしたことは、なんと二段ベッドの上段を確保することだった。ミランダが利用する安い3等客室は8人部屋。二段ベッドの利用は必須なのである。
はじめてのはしごを上るベッドにワクワクし、喜び勇んで場所取りしたものの、この三等客室に入った乗客はたったの3名だった。しかもミランダの他はおばちゃんとバックパッカーのお姉さん、いずれも二段ベッドの下段を選んでいた。
「部屋に帰ったら、すぐに腰掛けられるし、横になれるし、下の段も意外と良いのよ」
おばちゃんは、上段を選んだミランダの気持ちを慮りながらも下段の利点を教えてくれた。
同室の2人はいい人で、貴重品は自分の体から決して離さないことを教えてくれた。他人と共同生活をする3等客室はセキュリティがザルなのである。
「何かあったらアタシら、疑うのも疑われるのもまっぴらゴメンだからさ」
「そうですよ。どれだけ仲良くしてても貴重品が無くなったとなると、人間関係は簡単に壊れてしまいますからね」
「そうさ。だから、周りの人間はある程度最初から疑っておくんだね。目の前に金が落ちてたら拾わない奴はいないってさ」
「あらまぁ、疑いの目で見られれば誰も気持ちよくは思わないものですよ。私の場合は誰もが等しく神様の子どもで、礼を欠く人でない限りは善人として見るようにしています。ただし善人だって、お金の誘惑には弱いのです。ですから、自分の隙が子羊たちの誘惑にならないように、はじめから大切なものを大切に扱うまでのことです」
どうやら、安全は自己責任ということらしい。
ミランダは、村民全員が顔見知りの限界ド田舎から出て来たので、防犯という観念がよく理解できなかった。だいたい隣の家まで歩いて3時間はかかるのである。わざわざ危険な雪原の中に泥棒をするために出て行くという発想はない。
しかし都会に来ては、この2人の女賢者には従うべきであろう。これは、ミランダ自身が都会の女になるための第一歩なのである。幸いミランダの荷物は大部分がトランクの中にあり、貴重品はお気に入りのショルダーバッグにまとめて入っている。
乗船直前に渡されたキルトのガマ口を除いて、だが。
残念ながらキルトのガマ口は嵩張りすぎてて入らない。仕方ないのでついてたストラップでショルダーバッグと一緒に左肩から斜めがけにした。本当なら首から財布をぶら下げるなんてダサい真似はしたくなかったのだが。
「このフェリーは親切なスタッフも多いし、防犯カメラもついてる。あんたみたいな世間知らずの田舎娘に無体を働く奴はたぶんいないだろう。だけど、肩掛け鞄は、意外とひったくりに遭いやすいから気をつけなよ。とくにその財布の紐は、街ではナイフでピッと切られて一瞬で持って行かれちまう」
「街に降りたらキョロキョロしないこと、それは「この街に不慣れです。狙って下さい」と言っているようなものですよ。必ず背筋をピンと伸ばして自信を持ってお歩きなさい。それから、いつも利き手をさりげなくショルダーバッグの上にかぶせて隙が無いことをアピールすべきだわね」
世話焼きの二人は、ミランダには想像も附かないような防犯の心得を教えてくれた。首から財布を下げるのは、見た目だけじゃなく、防犯的な意味でもアウトらしい。しかしショルダーバッグにキルトのガマ口をしまえるようにするためには、少し荷物を整理する必要がありそうだ。
まずは、ガマ口の中の小銭を使って嵩を減らすこと。
それから、
「――あ、いけない」
ショルダーバッグを開けるとそこには先ほど、クリスチャンが食べ損ねたサンドイッチが入っていた。
(これは、あとで、私がたべるか)
ミランダは出航前に食べたサンドイッチの味を思い出して、思わず生唾を飲む。
もう船は出航しているしどうせ父親に返すわけにはいかない。仕方ないからミランダは父親の代わりに美味しいサンドイッチを食べてあげようと思った。
夕方にはバックパッカーのお姉さんが甲板に誘ってくれた。
屋外に出ると、金色の太陽があと少しで海に沈もうとういう時刻だと分った。
お姉さんは甲板の真ん中にあるベンチにミランダを座らせると、自分だけ甲板の端の方に行って、知らないおじさんたちと一緒にタバコを吸い始めた。怖そうな顔をしたおじさんの集団に、細身の若いお姉さんが1人で堂々と入っていく姿はなぜかとても勇敢に思えた。
ミランダは未成年だし、タバコはどっちかと言えばキライな方だ。だが、お姉さんはミランダの憧れる都会の女の姿を体現しているように見える。
ミランダは1人ベンチの上で、夕焼け空を見ながらサンドイッチを食べた。
甲板の風はとても気持ちが良かった。お姉さんのように仲間はいないが、1人というのもなかなか大人っぽくて良い気分である。
夕焼け直後の空が一番青い時間に差し掛かると、寒そうに両腕を抱えたお姉さんが戻ってきて一緒に部屋に帰った。
……その後、ショルダーバッグのサンドイッチ分だけ空いたスペースにガマ口を突っ込んでみたが、やはり中には入らなかった。
ミランダは船を降りるまでの間、なるべく船内の売店で小銭を使う事を心に決めた。ただ、ロドリカ国ではスナックが驚くほど安いのである。よっぽど大量にポテトチップスやジュースを買っても、お金の方はなかなか減らない。
ちなみにその日の夜、船内の食堂に行ったら、夕飯には美味しくない謎の揚げ物料理が出た。なんというか、油が胃にたまる感じがするのである。ミランダは料理をほとんど残して、フルーツゼリーだけ食べて部屋に戻った。
これもまたブリッツのおかげだったのか……、夕方に大きなサンドイッチを食べたばかりだったので、翌朝まで腹ペコで苦しむことはなかった。
「本当に感心するわ、ブリッツ」
とくにする事もなかったので、船内では寝て、食べて、おやつを買って、また食べて、日に一度はシャワーを浴びて、を繰り返した。
売店には暇つぶし用のペーパーバックも売られていたので、都会の流行小説を読もうと買ってみたのだが、船で揺られながら活字が読めるほどミランダは海に強くないと分かっただけだった。
それでもおやつだけでは間が持たないほどに暇だったので、サンドイッチを包んでいた竹の皮を、はさみで紙幣のサイズにそろえて切ったりもした。そう、別に意味はない。珍しい物だから、洗って干して、嵩張るからガマ口に入るサイズに切ってみただけだ。
そのようすを見たバックパッカーのお姉さんが、とても残念なものを見るような目でミランダを見た。なんでも棄てないで残しておくのが、彼女の故郷のお婆ちゃんとかぶっていたらしい。
お姉さんには船の中に友だちが何人かいるようだったが、暇つぶしならと、ときどき旅の話を聞かせてくれた。大きな滝の話、渓谷の話、獰猛な熊の話、……それから旅先での恋の話も……恋の話が盛り上がってくると、決まっておばちゃんが邪魔をしに来た。
「お待ちなさい。その続きは大人になってからの方が良いわ」
そんな、おばちゃんも一回だけ長い話をしてくれた。
それは昔、良家の娘が貧しい農夫と駆け落ちをした話だった。
乗船から3日目、お姉さんとおばさんはシールスの港で降りた。この三等客室には入れ替わりで3人の派手な女の子たちと、一組の母娘が乗船した。
5人にはそれぞれグループがあり彼女たちはその仲間内だけで会話していたので、ミランダとは挨拶以外の言葉を交わすことがなかった。
乗船から4日目、ミランダに変化があった。
少し太ったこと?……いや、ローティーンのミランダにとって、少し太ったことぐらいは些事だ。ちょっと運動すれば、すぐやせるに決まっている。
実はミランダ、首からキルトのガマ口をぶら下げるというダサい格好がすっかり平気になってしまったのである。まだ最初の頃はショルダーバッグと一緒に斜めがけしていたのだが、今は本当にへその前にぶら下げている状態だ。いつも見えるところに財布があり、片手が塞がっていても簡単にお金が取り出せるというのは、とても便利なのである。
クリスチャンの渡してくれたチップは50タラ近くあったが、今ではもう5タラ程度、ガマ口はショルダーバッグにしまえるほど萎んでいた。
でも便利だし、おばさんとお姉さんのように親切に指摘してくれる人ももういなかったしで、ミランダは首から財布をぶら下げた状態で都会の港サンマリに降り立った。
サンマリは都会である。まず、……
「人が多い」
どれくらい多いかというと、エラクシャクの収穫祭ぐらい人が歩いている。アルチークだって都会だったというのに、とにかく人が多い。それから、……
「暑い」
都会に来てはキョロキョロするな、はじめて来た町だとバレるな等の有り難い教えは記憶の彼方へと忘却されていた。無理も無い。ミランダは今、思ってることが全部口からダダ漏れてしまう程のカルチャーショックを受けているのだ。
考えられるだろうか。半袖を着ているのに暑いのである。もう6月も終わりだというのに、エラクシャクの夏の一番暑かった日より、今が暑いのだ。とにかく暑いのだ。
ミランダは、気がつくと首からぶら下げた財布でアイスクリームを買っていた。
バリッとビニール袋を破いて、二枚のクッキーに挟まれたピンク色のアイスクリームを取り出す。
アイスクリームからは白い冷気が出ていた。
そして、口をあけた一瞬の事だった。
ミランダの視界の片隅で金属的な銀色の光が瞬いた。
彼女にはそれが何かは分らなかった。しかし、アイスにかぶりついた時には既に、ガマ口の紐は切られ見慣れたキルトの柄が体の前から消えていた。
ガマ口が盗まれたのだ。
ミランダは震えた。こんなに体にぴったりくっついていたものが、一瞬でなくなってしまったのだ。
『とくにその財布の紐は、街ではナイフでピッと切られて一瞬で持って行かれちまう』
バックパッカーのお姉さんの言葉が今になって生々しく耳に蘇る。
周りには沢山の通行人がいるにも関わらず、誰もミランダを助けてくれる気配がない。自分にとっては大事件なのだが、ここでは当たり前の風景の中に溶け込んでいるようだ。誰もミランダを見てないし、財布を盗まれた人がいるなんて思ってもいない。
(……ナイフ、怖い)
ミランダは見回して犯人を探すこともしなかった。出来なかった。
見てしまったら、犯人が戻って来てしまう気がしたのだ。そして、今度は殺されてしまうような気がしたのだ。
(……私、刺されてないよね)
首筋がじんじんした。恐る恐る触れてみたが血は出ていなかった。ひったくられた瞬間、ストラップの摩擦が擦れただけみたいだ。
ミランダは恐怖で何も言えなくなったまま、残ったショルダーバッグを胸に抱きしめ、震える体でトランクにもたれかかった。
(……これが都会、……怖い)
かくして、サンマリの治安の悪さを目の当たりにしたミランダは、その後2人の女賢者の言葉を何度も反芻し、自分の緩みきった心を戒めることができたのである。
もう殆ど、中身が残っていなかったガマ口で、勉強出来たのは有り難いことだ……と、思うことにした。
本当のミランダの財布はピンクレザーの二つ折りで、ショルダーバッグの中に入ってるので、其れに比べれば大した価値の物は盗まれていない。
「ほ、本当に感謝するわ。ブリッツ」
ブリッツのおかげで手に入った余剰のお小遣いは、大部分がミランダのおやつと消え、残りは都会の洗礼の『勉強料』として支払われた。しかも、それが囮となったので、本物の財布の方は狙われずに済んだのである。
ちなみに、ガマ口に入ってた「竹の皮」が、まさか買い物を遠くから見ていた犯人に札束と間違えられてたなんて、ミランダは一生気づかないだろう。