どうやら俺が転生したイケメン騎士は、ウブすぎて婚約者と手も繋げないらしい
《前回のあらすじ》
妹の書いた異世界恋愛小説の脇役キャラ、エーベルハルトに転生した俺は自分の死を回避しただけでなく、悪役令嬢ドナテッラの冤罪による処刑も未然に防ぐことに成功した。
これをきっかけに恋に落ちた俺たちではあるが、エーベルハルトはイケメンキャラでありながら、25歳にして女の子と手を繋いだこともない、超☆恋愛初心者なのだった。
《前回の登場人物とそのときの役割》
○エーベルハルト・ブルメンタール(25)・・・主人公。騎士団所属、王太子護衛騎士。白銀の長髪。濃い緑の瞳。すっと通った鼻筋にやや薄い唇。酷薄そうに見える面立ちの美丈夫。
○ドナテッラ・ナルディーニ(18)・・・悪役公爵令嬢。王太子の婚約者。髪はダークブラウンできつい縦ロール、美人だが意地の悪い顔、派手で悪趣味な服。
○カルステン(18)・・・王太子。
○ルフィナ・・・男爵令嬢。カルステンの恋人。ピンクブロンドのふわふわな髪、砂糖のように甘い可愛さ。
○カランドラ大公・・・宰相代理。
○モンテメッツィ子爵・・・かつて騎士団長だったおじいちゃん。エーベルハルトを養子にする。
○前世の妹・・・素人小説投稿サイトに作品をアップしているが、人気はあまりない。
◇プロローグ・挙式一週間前◇
「エーベルハルト。いい加減、愛しの婚約者との間に進展はあったのかね」
俺からしたら爆弾なみの威力を持つ発言が投下された。
ここは聞こえなかったふりを……
「あるはずがないではありませんか」
俺に代わってギュンターが答える。何故お前が口を出す。お前はエーベルハルトなのか。その名前を持つのは俺だ!
「まったく。勇猛果敢な騎士も、ドナちゃんの前じゃ赤子、いや芋虫なみだからな」とモンテメッツィのじい様が笑う。
おい。養子に向かって芋虫はないんじゃないか?あんたの跡継ぎが人間でなくていいのか?
「この顔、この出で立ちで手繋ぎすらまだなんてな。ウブにもほどがある。はっはっは」
大口を開けてそう笑うのは、国王ヨハンネス・カランドラだ。先ほど『進展うんぬん』と尋ねた御仁だ。昨年までは大公に過ぎなかったのだが、前国王が己の悪事により処刑されたため、棚ぼたで即位した。
生粋の王族で外見こそはダンディオヤジなのだが、ちょっとばかり変わり者だ。前国王の負のイメージを払拭するためにと親しみやすさを売りにして、貴族から城の下働きにいたるまで、交流を図っているのだ。その雰囲気はまるで親戚のおじさん。
そんでもってしょっちゅう俺の勤務中に、俺を養子に迎えたモンテメッツィ子爵、俺の婚約者であるドナテッラの父親ナルディーニ公爵、その嫡男ギュンターとサロンに集まって、俺を肴に盛り上がっている(ちなみに今回公爵は欠席だ)。
以前の俺は王太子専属の護衛騎士だったが、彼はあれこれ悩んだ末に父親の犯した罪を代わりに償うと宣言して、出家してしまった。
かつては彼を敬愛していた俺としては、父親の分までこの国に対して責任を持つと言ってほしかった。
そんな訳で主をなくした俺は、新国王の専属となった。ご指名だそうだ。
最初こそは感動にうち震えたものだが、すぐに奴の真の意図を知り、震えの種類は怒りに変わった。
奴は、俺の恋愛を観察したいだけなのだ!
「仕方ありませんよ。『エーベルハルトは結婚式までに婚約者殿と手繋ぎができない』に、近衛騎士団員の大半が賭けるほどのウブっぷりですからね」
共に勤務中の同僚ライナーがしたり顔で言う。
「さすがだ」とうなずく国王。
おい。何が『さすが』なんだ。
「ダンスで手を重ねることには慣れたらしいですよ」ギュンターが助け船を出してくれる。「自慢気に言われました。婚約して何ヵ月経つと思っているのだか」
まだ6ヶ月だ!
「結婚式は来週なのに。そんなふうで初夜は大丈夫かね」とじい様。
「無理でしょう。鼻血を出してぶっ倒れるに騎士団全員が賭けたぐらいですからね」とライナー。そりゃもう賭けが成立していないじゃないか。「だから俺は大博打を打つことにしました」
「ほほう。ではうまくいくと?」ニヤニヤの国王。下世話だぞ。
「いえ。緊張のあまり、エーベルハルトの心臓がキュッ!と逝くに」
「勝手に殺すな」
思わずライナーにツッコミを入れる。
「みな心配をしているのだ」急に真面目な顔になった国王が重々しく言う。「くれぐれも花嫁に恥をかかせるな」
「そうだぞ。ドナテッラがついに『手を繋いでくれないのは私に魅力がないからかしら』と悩み始めたのだ」
「本当ですか、義兄さん!」
「本当だとも。昨夜もしくしく泣いていた」
「泣いて!」
愛しのドナテッラが泣いている?
俺に勇気がないせいで?
なんてことだ。
「義兄さん、どうしたらドナテッラと手を繋げるでしょうか」
「……お前、その質問何度めだ」
はぁっとため息をつくギュンター。
「仕方ないじゃないですか。彼女の花の顔を見ているだけで心臓が苦しくなるし、俺の武骨な手では彼女の白魚のような繊手を握りつぶしてしまいそうだし……」
「騎士を辞めて詩人にでもなったらどうだ?」と国王。
「エーベルハルトに恋愛経験がないのは知っていたが、ここまでヘタレだったとはなあ」
ライナーの言葉に、俺以外の全員がうなずいた。
だって、しょうがないじゃないか。
俺は立派な騎士になるため剣一筋だったし、前世の『俺』は非モテだった。両方の人生合わせて50年弱、女の子に縁がなかったのだ。
あれこれしたいとの妄想は得意だが、リアルではどうふるまえばいいのかさっぱりわからない。
ドナテッラを好きすぎて、嫌われたり失望されたりすることをしたくないのだ。
だけどそのせいで彼女が泣いているのならば、なんとか行動にうつさないといけないぞ。
◇◇
その翌日、非番だった俺はいまだ着なれない貴族の正装をしてナルディーニ公爵邸を訪れた。ドナテッラの好きな花束と、美しい絵が描かれた絹の扇を手土産にした。
内緒だが、扇を選んでくれたのはギュンターの奥さんだ。彼女はあまりに俺が奥手なので、こっそり応援してくれている。
応接室で寛ぎながらプレゼントを渡すとドナテッラは、
「まあ、素敵」
と嬉しそうに声をあげ、傍らの義姉エリツィアに見せた。彼女は本当ね、と初めて目にしたかのように振るまってくれる。いい人だ。
「エーベルハルトの贈り物が日を追うごとに洗練されていくわ」
にこりとする我が愛しの婚約者。
「そ、そうかな」
ドキリとしたせいで、噛んでしまう。ドナテッラは王太子の妻に選ばれただけあって、とても頭がいいのだ。もしかしたら手助けしてくれる人がいると気づいているのかもしれない。
だけれど嬉しそうな顔をしてくれているから、それでも構わないのだろう。
というか彼女のほうこそ、日を追うごとに素晴らしくなっている。
妃教育から解放されたことと王太子との関係に悩まなくなったことで、顔つきがずいぶんと柔らかくなった。
趣味の悪い派手な服もきつい縦ロールも見なくなった。あれらは彼女にとっての鎧だったらしい。今は巷で流行っている髪型と服装で、悪役令嬢の貫禄はない。
ころころとよく笑うし、元からの美しさとあいまって、悩ましいほど可愛らしい。
……ああ、ここでこの気持ちをうまく口に出せるスキルがあればよかったのに。
褒めたいのに、どうしても言葉にできない。恋愛初心者にしても、ひどすぎる。
いや、そんなことを言っている場合ではなかった。彼女を泣かせないという強い意思をもって今日は来たのだ!
「昨日、義兄さんに聞いた。俺が君と手を繋ごうとしないから、泣いていると」
ドナテッラが可愛らしく瞬きをする。
「違うんだ。決して君の魅力がないのではない!むしろありすぎて、緊張するのだ。手は繋ぎたい。君に触れたいとめちゃくちゃ思っている!……いや、これは気持ち悪いな、すまん」
背中を冷や汗が流れていく。
「君を好きすぎて、変なことをして嫌われないか、失望されないかと不安で動けなくなるんだ。まさかそのせいでドナテッラが泣いているとは思いもしなかった。本当にすまない」
卓を挟んで向かいの長椅子に座る彼女は、また可愛らしく瞬きをした。その隣でエリツィアがこらえきれなくなったかのように、口元を手で隠して笑っている。
なんだ?そんなに俺はおかしいか?と不安になる。
「エーベルハルト」
俺の名を呼ぶドナテッラは真顔だ。やはり何か失敗をしたのか。
「ごめんなさい。ギュンターはあなたを騙したのよ」
「へ?」
「わたくしは泣いてなんていないし、そもそも手繋ぎを気にしていないわ」
「……そうなのか?」
エリツィアがうなずく。「彼を許してあげて。あなたがいまだにぎこちないから心配しているのよ。結婚式で誓いのキスの前に卒倒でもしたらどうしようって」
ライナーといい、ギュンターといい、俺をなんだと思っているんだ。確かに恋愛初心者ではあるが、叩き上げの騎士でもあるのだ。そう簡単に倒れたりはしないぞ。
「ドナテッラの前でそんな粗相はしませんよ」とエリツィアに自信をもって答える。
それよりも気になるのは、彼女が手繋ぎを気にしていないと言ったことだ。彼女はそれを望んでいないのか。さすがにへこむぞ。
と、ドナテッラはやおら立ち上がると、俺の隣に座り直した。急なことに心臓がうるさく騒ぎ始めた。
「エーベルハルト」
「何かな」
「わたくしも手を繋ぎたいとは思っているのよ」
しっかりした口調に反し、ドナテッラの頬は真っ赤で恥ずかしさを無理に隠しているかのような顔をしている。
俺の鼓動はますます早くなる。
「わたくしからそうしても構わないのだけど、あなたがものすごく努力をしているようなので待つことに決めたの」
「そうなのか。俺、ものすごく格好が悪いな」
女の子になんて決意をさせているのだ。うぅ。情けなさすぎる。
「格好悪くなんてないわ。それだけわたくしを大切に思ってくれているのでしょう」
「見ていれば分かるもの」とエリツィア。
「ドナテッラは格好いい。俺よりずっとしっかりしている」
「だけど怒ってはいるわ」
「え?」
告げられた言葉にびくりとするが、彼女は笑みを浮かべている。
「わたくしがちょっとしたことで、あなたに失望したり嫌ったりすると思っているのでしょう?そんなにわたくしを信用できないのかしら?それともエーベルハルトは、わたくしに気に入らない点を見つけたら即、嫌いになるのかしら?」
「そんなことはない!」
勢いこんで答える。ドナテッラはにこりと微笑んだ。
「わたくしも同じ不安を抱えたことがあるから、あなたの気持ちは分かるわ。だけれどもう少し、わたくしを信頼してくれてもいいのじゃないかしら」
……ああ、そうだ。確かにこの不安は彼女の思いを信頼していないことになるだろう。
「そんなつもりはなかったが、結果的には同じことだった。すまない、情けない男で」
「大丈夫よ。あなたは最初に正直に言ってくれたもの。女の子と手を繋いだこともない。スマートさが欠片もない交際になること間違いなしだけど、構わないかって」
「まあ、そんなことを?」エリツィアが会話に入ってくる。
「そうなのよ。正直な方でしょう?あれでますます好きになってしまったわ」
くすくすと笑うドナテッラ。
嬉しさと彼女の可愛さの相乗効果で、心臓がヤバいことになっている。
「だからわたくしは何も焦っていないし、泣きもしないわ。あなたのペースで構わないから、わたくしを信頼してね」
ドナテッラ!君はなんて可愛くて格好いいのだ。それに比べて俺の情けないこと。見てくれだけはイケメン騎士なのに、中身は中学生以下だ。
ぐっとヘソの下に力を入れ、思いきってドナテッラの両手を取り握りしめた。
彼女は驚いたように目をぱちくりとする。
「ドナテッラ。格好悪くてすまん。俺は君を信頼しているし、君が待たなくていいようなデキる夫になると約束をしよう」
「まあ。ありがとう。嬉しいわ」
頬を真っ赤にした彼女は、なんと、繋いだ手を持ち上げると、俺の指先に軽くキスをした。
「あらあらドナテッラ」エリツィアが言う。「積極的なのは個人的には好きだけど、保護者としてはアウトと言わざるを得ないわ……って!エーベルハルト、大丈夫!?」
「大変!」とドナテッラも俺の手を振りほどいて、どこからかハンカチを取り出して差し出した。
あまりにもドナテッラが可愛らしすぎて、鼓動が限界マックスまで早くなってしまった俺は。まるでマンガのようにボタボタと鼻血を垂らしていた。
「す、すまん」
絹の美しいハンカチを借りて鼻に当てながら、情けなさに泣きたい気分になる。
妹よ。エーベルハルトをもうちょい恋愛経験のあるキャラにしてくれても良かったんじゃないか?婚約者に手にキスされただけで鼻血を出す騎士なんて、どう考えても推してくれる読者はいないぞ。
いや、妹のせいにしてはいけない。
俺は愛しのドナテッラのために、もっと洗練されたイケてる騎士になるのだ。
◇1・新婚旅行はスマートに◇
「皆様、見えて来ましたよ」
ガラガラと響く車輪の音に負けない大きな声が、外から掛けられる。
「どれどれ」と身を乗り出して馬車の小窓から外を見るのはギュンターだ。「ああ、本当だ。この丘の上がナルディーニ家の本邸だ」
彼に顔を寄せてエリツィアも外を見る。
「このルートから帰るのは、私たちの新婚旅行以来ね」
「あれはいい旅行だった」
並んで座っているふたりは思い出しているのか、いちゃいちゃしている。
「ほほう。どう『いい旅行』だったのだね?そこのところを詳しく、このじいに教えてほしいものだ」
そうにやつくのは、モンテメッツィのじい様だ。
三人はすっかり盛り上がっている。
俺はそっと隣にすわるドナテッラを見た。目が合う。
「わたくしたちの新婚旅行なのに、ごめんなさいね」
「いや。こっちこそ義父付きだしな。それに助かっているじゃないか」
そう、この旅行はドナテッラと俺の新婚旅行だ。彼女の実家ナルディーニ領と俺が養子に入ったじい様のモンテメッツィ領を巡り、縁戚に挨拶したり本邸の使用人たちと顔合わせをする。
通常は若い夫婦だけで行くものなのに見ての通り、こぶつきだ。
腹が立つ……とはならない。
何しろ俺は騎士ではあるけれど生粋の平民だった。ドナテッラと結婚するためにモンテメッツィ家に養子に入り、貴族のマナーやら常識やらを学んだけれど、所詮付け焼き刃。だから心配した義兄夫婦とじい様がついて来てくれたのだ。
彼らの存在のありがたさは既に実証済みだ。本邸に来る前に寄ったナルディーニ公爵の妹夫妻の屋敷では、俺はものすごく見下された扱いを受けかかった。
仕方のないことだ。もし俺が本当にモンテメッツィの血筋だったとしても、子爵家にすぎない。王族と血縁関係にあるナルディーニ家の令嬢の嫁ぎ先には、相応しくないのだ。
地方に暮らす親戚にはあの事件の重大さは伝わっていないらしく、恩人といえども元平民なんてと思われてしまう。
そんな差別、俺は構わないがドナテッラが嫌な思いをするのは申し訳ない。
そこに次期公爵であるギュンターがさりげなく、俺がいかに大事な義弟であるかをアピールして相手を牽制してくれた。
俺をウブすぎるとからかうこともあるけれど、良い義兄だ。ちなみに妹の小説では名前しか出てこない、存在感ゼロのキャラだった。
ドナテッラは苦笑を浮かべ
「助かっているのは事実だけれど、ギュンターたちのほうが新婚旅行みたいなんだもの」と言う。
確かに彼らは親の目が届かない旅行にハイテンションになっているようで、いちゃいちゃラブラブ。宿屋なんかでは彼らが新婚旅行だと勘違いされるほどだ。
「よし、負けずに新婚旅行感を出そう」
そう言うと俺は勇気を振り絞り、新妻の手をそっと握った。ナルディーニ家の応接室で鼻血を吹き出したときに、固く決意したのだ。俺はスマートでイケてる夫になると。そしてこの旅行では、まあまあ上手くいっている。心臓はすぐに早鐘を打つし、顔に血がのぼるけれども。
ドナテッラは嬉しそうな顔をしてから、
「わたくしはこっちが好き」
と指と指を絡める恋人繋ぎに変えた。
ああ、可愛い!
「『ああ、可愛い!俺のドナテッラは世界一可愛い。俺を尊死させる気か』」とギュンターが言った。「どうせエーベルハルトはそう思っているのだろう?」
義兄はにやりとする。
「『トウトシ』とは何だ?」とじい様。
「よく分からないが、ドナテッラのあまりの素晴らしさに、あの世に逝ってしまいそいになることらしい。よく彼がそう言って悶えている」
「悶える?そのなりで?気持ちわ……むにゃむにゃ」じい様が言葉を濁しながらも、蔑みの目を向ける。
「何で暴露する!」
俺はギュンターを睨んだ。ふたりだけの秘密にしてくれる筈だったのに、ドナテッラにドン引きされたらどうしてくれるのだ。
「もう結婚したのだから、いいじゃないか。これからは夫婦ふたりきりのときに本人相手に惚気てくれ」
そうねとエリツィアが賛同する。「身悶えするエーベルハルトを見てみたいけど」
恐る恐る隣を見ると、ドナテッラは笑みを浮かべていた。引かれていないことに安堵する。
「ええと、あれよ。あなたがよく使う言葉」と彼女が首をかしげる。「……ああ、そうだ。『ギャップ』ね。仕事一筋でストイックでどんな時も冷静と言われる近衛騎士ブルメンタールが、こんな可愛らしい人だとは思わなかったわ」
「か、可愛い?俺が?」
うなずくドナテッラ。
「君には格好いいと思われたい」
思わずこぼれる本音。
「あら、格好いいとも思っているわ。仕事中のあなたは素敵だもの。わたくしと一緒にいるあなたが可愛いの」
「そんなことはない!俺と一緒にいる君のほうが可愛らしい!」
「いい感じに惚気が始まったな」と、じい様。「楽しませてもらうかね」
俺は義父をひと睨みしてから、
「陛下に俺のレポートなんぞを送るのはやめてくださいよ」と釘を刺した。
「そんなことは、せんよ」
「どうだか。前科があるじゃないですか」
俺がそう皮肉るとじい様は、大口を開けて笑った。
「しょうがないわ。皆が気になっていたことだからな」
そうそうとうなずくギュンター。
酷い話なのだ。挙式を終え、初めてドナテッラと共に朝を迎えた素晴らしい日のことだ。
浮かれまくった俺が階下に降りていくと、応接室にじい様、ギュンター、ライナーが集まって談笑をしていた。こんな午前中から珍しいと思っていたら、俺に気がついたライナーが
「チクショウ、外した!」
と叫んで天を仰いだ。
この時点で、さすがの俺も気がついた。
「で?」とギュンター。「鼻血を出して倒れたか?」
「出してませんよ!」
「つつがなく終えられたか?」とじい様。
「当たり前!」
「ならば報告せんとな」じい様はそう続けた。
「報告?……どこにだ?」
恐る恐る尋ねると、
「陛下に決まっている。ワクワクして待っているぞ」とじい様は当然のように答えた。
「父もな」とギュンター。
「だけどじい様のひとり勝ちだ!」とライナーが再び叫んだ。
聞けば、近衛の間でだけのはずの俺のもにょもにょに関する賭けが部外者オーケーになり、かなりの参加があったという。
というのもじい様が、『つつがなく終える』に大金を賭け、一気に参加希望が増えたのだそうだ。
ギュンターとナルディーニ公爵が一番人気の『鼻血を出して倒れる』に。国王は『心臓がキュッと逝く』に賭けたという。
俺をネタにするのは百歩譲って許すとして、ドナテッラを巻き込むのだけはやめてほしいと懇願した。みな、分かった分かったと答えていたが。
あまり信用できない。
この旅行に出立するとき、義父がじい様に『手紙を忘れずにと陛下からの伝言だ』とこっそり伝えていたのを聞いてしまったからだ。
まあ、それだけエーベルハルトが愛されキャラという設定なのかもしれない。前世の妹は、俺を気に入っていたから。あいつの好みは独特だった。
……それに実を言えば、『つつがなく』ではなかった。緊張のあまり俺は過呼吸になりかけた。幸いすぐに落ち着くことができたけれど、一生ものの不覚だ。
だからこそこの新婚旅行は格好良くスマートな俺をドナテッラに見せたいと強く強く思うのだ。
◇◇
ナルディーニ本邸には使用人だけでなく、公爵の留守を預かる弟家族も住んでいたが、みな俺を温かく迎えてくれた。こちらでは恩人との認識が深く浸透しているらしい。
ひととおりの挨拶を終えて与えられた客室に入ると、どっと疲れが出た。長椅子にどっかりと座る。
やはりどんな対応をされるかが気がかりで、知らぬうちに神経を張りつめていたようだ。
「大丈夫?」とドナテッラが尋ねてくれる。「温泉はやめにして、晩餐まで休みましょう」
この地は古代から温泉地として栄えているそうで、丘の麓には公共浴場があるという。今日通ったルートではないので見ていないがきっと、あれだ。昔映画で見た『テル○エ・ロ○エ』みたいなものに違いない。
そしてこの本邸にも源泉掛け流しの露天風呂があるという。公爵家の人間はもちろんのこと、訪れる客もみな入りたがる素晴らしい風呂だそうだ。
だから晩餐前に、みなで旅の垢を落とそうと共に入る約束をしている。
……ぶっちゃけ、面倒くさい。今すぐベッドにダイブしたい。それぐらいに疲れている。
さっきは屋敷の人間が心配でと言ったが俺は、公爵家の若夫妻との旅行にも神経を使っていたのだろう。常に敬語の会話に貴族的振る舞いというのは無心じゃできない。
だがここで休むのは格好が悪い。
「いや、行くよ。心配しないで仔猫ちゃん」
……仔猫ちゃん?
自分の口が放った言葉に驚く。
俺は今、『仔猫ちゃん』と言った気がする。その証拠にドナテッラも目を見張って驚きの表情だ。
仔猫ちゃん。何がどうして、そんな単語が口をついて出て来たんだ。
「大丈夫?ハニー」とドナテッラ。「『ハニー』?」
ドナテッラも自分の言葉にびっくりして、顔を真っ赤にしている。
なんだかよく分からないが、彼女の『ハニー』は可愛いぞ。
「いやだ、疲れているのかしら」
「多分な」と俺は片手を彼女に向けて差し出した。「時間まで一緒に休もう。こっちへおいで、俺のお姫様」
!?
いや、どうした、俺。
お姫様?
こっちへおいで?
いつから俺はこんな恥ずかしいセリフを脳内以外でも言えるようになったんだ?
ドナテッラは真っ赤な顔でさかんに瞬きを繰り返している。
俺は立ち上がると、
「仔猫ちゃんは焦らすのがうまいな」と片手で彼女の手を取りもう片手は腰に回し、百戦錬磨の強者のようなスムーズさでドナテッラを誘導して座った。俺は椅子に。彼女は横座りで俺の膝に。
心臓がバックバクいっている。なんだ、どうした俺。スマートになりたいとは願っていたが、あまりに急すぎやしないか。
「ど、ど、どうしちゃったの、スイートハニー?」
普段は落ち着いているドナテッラが噛みまくり、しかも自分の言葉に泣きそうな顔になっている。
「ウ、ウェルカムドリンクのアルコールのせいかな」と俺。
「な、なるほどね」とドナテッラ。
ふたりで恐る恐る顔を見合わせて、よく分からないまま微笑みあって。ぎこちなく唇を重ねた。
そのあとは……。
新婚夫婦らしく、いちゃいちゃした。
鼻血は出さなかったし、過呼吸もなし。
突然の『仔猫ちゃん』発言は置いておいて、まあまあスマートな夫と言えるんじゃないかな?
しかも今までになく甘々で大胆な俺たちだった。
新婚旅行、サイコーだな。
◇2・湯けむり温泉殺人?事件◇
ただ今俺は、義兄ギュンターに腹やら二の腕やらを触られまくっている。腰に巻いたタオル以外は素っ裸状態で。
「凄いな、この筋肉は。どうやったらこんな身体になるのだ」
「そりゃ俺は騎士ですからね」
目前の鏡に映った自分の身体を見ながら、つい、にやける。
ここはナルディーニ邸の露天風呂に通じる前室だ。更衣室兼洗い場とのことで猫足付きバスタブが置かれていて、そこで体を洗ってから露天風呂に行くらしい。
生粋のお貴族様であるギュンターが、そこで使用人たちに体を洗ってもらっていた。
後からきた俺はそれを横目に服を脱ぎ始めたのだが、気づけば何故か筋肉鑑賞会が始まっていたのだ。
「僧帽筋からの三角筋が素晴らしいよ。ここがしっかりしているから近衛の制服がキマるのだな」
やはり腰タオル姿のギュンター。その後ろでは二人の従者がうなずいている。
「そりゃ王族を守るのが俺たちの仕事ですからね。真面目に訓練していれば自然とこういう身体になるのですよ」
前世の俺はこんな身体ではなかった。インドア派で中高とも帰宅部。体型は推して知るべしだ。それに比べて筋肉フェチの妹が作った推しキャラエーベルハルトはいかにも騎士という、素晴らしい身体だ。
「私も悪くはないと思うのだ」とギュンター。「乗馬とクローケーで鍛えているからそこそこ美しいシックスパックだし、大臀筋も引き締まっている。だが悔しいが、お前の前では霞んでしまうな」
「いやいや義兄さんの筋肉もなかなか。まさかこんな細マッチョだったとは。大腿筋がキレてますね」
……ん?『キレてますね』だって?
自分の発した言葉にまた戸惑う。
そんな俺をギュンターの従者のひとりがバスタブに追いたてた。
「俺は自分で洗うから!」
彼の持つ泡だらけの海綿を奪い取る。どうしても他人に体を洗われるのは苦手だ。
そこへじい様がやって来た。
「うん?ギュンターはなかなか良い身体じゃないか。意外だな」
「ええ、わりと自信があったのですがね。エーベルハルトと比べると、悔しいですよ」
「そりゃあいつは本職の現役だからな」
ふたりは楽しそうに筋肉談義をしている。
だが、よくよく考えるとおかしい。騎士団の宿舎なんかではしょっちゅう半裸の奴らがうろちょろしていて、お互いの身体を自慢しあっている。
が。これまで、細かい筋肉の名称を耳にしたことがない。多分だが一般的な知識ではないのだろう。
「おおっ!」
叫び声に目を向けると、半裸のじい様が腰に手を当て自慢げに胸を反らしていた。
「子爵もなかなか凄い!この胸筋の張りはとても60代には見えませんよ!」
確かにギュンターの言う通り、じい様の身体は現役の騎士並みだ。
「奥さんはわしの筋肉が大好きでな。あちらに行ったときによぼよぼの身体では嫌われしまうわ」
「もしかして本部に来ては訓練に混ざっていたのは、俺たちの指導でなくて」俺が言いかけると、じい様は大きくうなずいた。
「この身体を維持するためだ!」
「奥様を愛してらっしゃるんだ」とギュンター。
「わしの唯一の人だからな」
じい様の奥様は何十年も前に若くして亡くなったと聞いている。その後、後添いをもらうこともなく、ひとり娘を育て嫁に出し、今にいたるらしい。
というか思考が飛んだ。
別のバスタブに入り体を洗われるじい様とギュンターの筋肉談義を聞きながら、違和感がどんどんと膨れ上がる。
さっき俺は『キレている』と言ったが、そんな言葉も宿舎で聞いたことがない。
思い出すのは前世の妹がネットで見ていたボティビルの大会で、飛び交う掛け声だ。
筋肉フェチの妹は、テレビのサッカー試合中継を見ては『○○の下腿三頭筋ヤバい。触りたい!』と叫び、『前腕筋の動きをナマで拝みたい』とクライミングの大会を見に行く。そんな変態だった。
さっきからの筋肉談義は、どこか妹を彷彿とさせる。この世界がアイツが書いた小説だからだろうか。だが現在は完結後の世界だし、殺されるはずだった俺が生きているのだから小説とまるっきり同じ世界ではないかもしれない。
はっきりとした答えが出ずにもやもやしたものが残る。
とはいえまずはじい様とギュンターと温泉を楽しもうと前室を出た俺は、目の前に広がる光景に唖然となった。
ここはヨーロッパ風異世界だ。露天風呂だってきっと神殿風。大理石で出来ていて、シャラランとした雰囲気のはず。そう思っていた。
それなのに目前にあるのは石で縁取られた湯船と竹垣で、カポーンという鹿威しの音が聞こえてきそうな和テイストだったのだ。
「素敵だろう?」とギュンター。「異国風なのだ。麓の施設と同じようではつまらないからと、遥か東にある国の露天風呂を真似て作ったらしい」
「これはおもしろい」じい様が満足そうにうなずいた。
と。
カポーン!
と小気味良い音が響き渡った。
まじか。鹿威しが実際にあるらしい。
ただ、風呂以外はこの国でポピュラーな生け垣や花、半裸の女性 (女神か?)の彫像などでヨーロッパ風だった。
「昼間だと隣丘や遠くの山も見えて絶景なんだ」とギュンターが言いながら、風呂に入る。
「凄いですね」と相槌をうちながらも、俺はすっかり混乱していた。
物語のエンディング後なのに、どうして前世の妹や日本の存在感が急に強まったんだ?昨日まではそんな気配はなかった。
湯に入り肩までつかる。
「はぁ~っ」
思わずため息がこぼれた。
久しぶりの日本の風呂の感覚だった。俺好みの温度、足を伸ばせる広さ。前世はよくスーパー銭湯に行ったのだ。
あぁ、身体も気持ちもほぐれる……。
……じゃなかった。こんな風呂、明らかにこの世界で異質だって!
ひとつ考えられる可能性がある。妹はエーベルハルトを気に入っていた。『ヒロインを庇って死ぬ』というのがあいつの萌ポイントなのだが、一方で『惜しい人を亡くした』などとのたまってもいた。自分で殺しておいて!
とまあ、そんな妹なのだ。もしかしたら『エーベルハルト生存 if』的な番外編を書いたのではないだろうか。彼女が登録していた小説投稿サイトには、時たま『ifバージョン』ありの作品があったから、妹も真似をした可能性がある。
そう考えればさっき俺の口が勝手に『仔猫ちゃん』と言ったり、モテる男みたいにスムーズにドナテッラをリードした理由がつく。
チャラ男の亡霊に乗り移られたのかとも考えたけど、風呂がこれなら『ifバージョン』のほうがありえるだろう。
問題はこの話のストーリーと結末が分からないことだ。また俺が死ぬ話という可能性だってあるのだ。
と。竹垣の向こうから、ドナテッラとエリツィアの声が聞こえてきた。
「その間仕切りは来客時のみ設置する」ギュンターが俺を見てにやにやする。
見ると確かにそれは湯船を跨ぐように置かれ、足は固定されていなかった。
「夫婦で入るときは男女別にしなくていいからな」とギュンター。「ぜひドナテッラと楽しい露天風呂ライフを送ってくれ」
なんだ楽しい露天風呂ライフって!?
「ほうほう。ではギュンターが新婚旅行のときは?」とじい様。
「もちろん楽しみましたよ」と大きくうなずく義兄。「今回も堪能する予定です」
「ほほほう!」
ドナテッラと一緒にお風呂!考えただけで鼻血が出そうだ。抑えようとしてもあれこれ妄想が広がってしまう。
「冷えたスパークリングワインとチーズが最高に露天風呂に合うのですよ」
そう言ったギュンターの声にはっと我に返る。
おぉっと。そういう楽しみ方だったか。
自分の考えたことの不健全さに冷や汗が出る。
「おやおやエーベルハルト。真っ赤じゃないか。もうのぼせたか?」とじい様。
「先ほどからやけにおとなしいな。旅疲れが出たのか?上がるか?」ギュンターも心配げに俺を見る。
「いや、大丈夫です。確かに少し疲れてましたが、この湯に入ったら疲労が消えていくような感覚が」
「そうだろう、そうだろう。この温泉には疲労回復の効果があるのだ」
「良い温泉でしょう!」竹垣の向こうから、エリツィアが話しかけてきた。「ぜひエーベルハルトもドナテッラと一緒にたくさん入ってね!」
「ありがとうございます」
浴場で壁を隔てた女湯にいる人との会話!なんてベタでドキドキな展開だ。これでドナテッラと会話なんてしたら、俺はまた鼻血が出るかもしれない。
「ほら、ヘタレ。ドナちゃんに話し掛けんかい。きっと待ってるぞ」とじい様が小声で煽る。
そんなことを急に言われても。
ちょっとばかり考えて
「ドナテッラ!こちらはいい湯だ。そっちはどうだ?」
と無難に尋ねた。その途端にじい様が吹き出す。何でだ?
「こちらもいいわよ」と楽しそうな新妻の声が帰って来た。
「繋がっているからな」とギュンター。
はっとする。
そうだった。なんてアホな質問をしたのだ。スマートでイケてる夫になかなかなれない。
「案ずるな、エーベルハルト。彼女が話していただろう?」ギュンターも小声になる。「普段は有能な近衛騎士のお前が見せる、抜けている態度が可愛いって」
「そうそう」とじい様。
「ドナテッラはカルステンの婚約者だったときは辛いことばかりだった。だからこそお前が、自分の前だけでは素を見せてくれることが嬉しいのだよ」
うなずくじい様。
「私は妹の夫がお前で良かったと思っている。父も母もだ」
「義兄さん……」感動で胸が熱くなる。普通に考えたらあり得ない身分差婚なのに、掛け値なしに歓迎してくれているのだ。「ありがとう!」
うむと首肯する義兄とニコニコ顔のじい様。
……いや、待てよ。なんだこのいい雰囲気は。まさか俺かギュンターの死亡フラグじゃないだろうな。
そんな不安を感じていると。
「きゃあぁぁぁっっっ!!!」
絹を切り裂くお手本のような悲鳴が竹垣の向こうで上がった。
「ドナテッラ!」
俺は素早く立ち上がると庭をまわって彼女の元に駆けつけた。
「どうした!?」
「剣を持った人影が!」
彼女が庭木の向こうを震えながら指差している。
その方向に走る。まだ近くにいるならば、絶対に捕まえる!俺のドナテッラを入浴中に襲うなんて許せん!万死に値する!
絶対に生きて帰さん!
だがいくらも行かないうちに、庭木の影に大の字になって倒れている男を見つけた。足で揺すってみても反応がない。後頭部からは血が流れ、そばには木製タンブラーが落ちていた。
「どうした!」
じい様がやって来る。俺は屈んで男の生死を確かめた。
「気を失っているだけだな。まだ若い。というか子供か?」
暗いからはっきりしないが15、6歳ぐらいに見える。傍らに落ちている剣は見るからに安物だ。
「縄をもらってくる。お前はこいつを見張れ。ドナちゃんたちにはギュンターがついている」とじい様。
「承知した。だがこのタンブラーは一体どこから」
「ドナちゃんが咄嗟に投げたと話していた。いい音がしたから当たっただろうとな。素晴らしいコントロールだ」
「さすが俺のドナテッラ!こんな非常事態に果敢に立ち向かえるなんて、なんて格好いいんだ!」
じい様がくふふと笑う。
「お前は素っ裸だがな」
はっとする。いつの間にか、湯に入るときも腰に巻いていたタオルがなくなっていた。
「ほれ、拾っておいたぞ」
差し出されたそれをいそいそと身につけながら、いつから外れていたのか、まさかドナテッラとエリツィアの元に駆けつけた時からかと恥ずかしさで身悶えしたくなる。
が、まずはこのネズミだ。一体何者で目的は何なのか。
そして今が妹の新しい小説の進行中であるならば、どんなストーリーなのか。
ドナテッラの入浴シーンに鼻の下を伸ばしたり、身悶えしている場合ではないのだ。気を引き締めなければならない。
◇◇
捕縛した少年は、とりあえず応接室の中でもっとも狭い部屋に入れられた。馬小屋か物置小屋で十分だと思ったが、次期公爵様も尋問したいとごね……主張するのでそこになった。
俺とじい様、ギュンターの三人で少年を囲み、念のために廊下ではふたりの使用人が扉を守っている。
何しろナルディーニはただの公爵家ではない。現当主は宰相で、しかも前国王の処刑理由のひとつは彼に対する暗殺未遂罪だ。少年といえども油断はできない。
ただ、彼が持っていた剣は剣身に刃こぼれが目立ち、手入れされていないのは明らかだった。物置から引っ張り出してきたか古道具屋で買ったかした品に見える。
少年自身、衣服は薄汚れているが顔立ちは整っているし、身体は華奢で手はどう見ても剣技を習っている者の手ではなかった。
ここが城ならば不審者には水をぶっかけ目を無理やり覚まさせるところだが、ギュンターのお好みではないようなので自然に目覚めるのを待った。
ギュンターはこの人の良さでありながら、危うく悪徳宰相一家として処刑されるところだったのだ。このへんの裏事情はきっと妹のシナリオ外だったのだろうけど、酷すぎる陰謀だ。未然に防げて本当に良かった。
やがて少年は目を覚まし、強情なヤツとのすったもんだのやり取りを経てその目的がドナテッラにケガを(できれば顔に一太刀!)負わせることだったと分かった。
更にまた長く無意味な抵抗を経て、最終的にじい様が往年の迫力で少年を震え上がらせ、今回の襲撃がルフィナの復讐であると分かった。
ルフィナ。妹が書いた異世界恋愛小説『純な野ばらは王子に愛される』のヒロインで、ドナテッラの婚約者であるカルステンと恋仲になる男爵令嬢だ。
「頭が沸いているのか!?」俺はつい怒声を上げた。「ドナテッラの婚約者を奪ったルフィナが何故被害者ぶる!!」
少年は首を縮めたものの、反抗的な目付きは変わらなかった。
「奪われるほうに問題があるのだろう!性格最悪のどうしようもない女だから王太子はルフィナを選んだんだ!それなのに!」
「何を言う!ドナテッラは素晴らしい女性だ!それを知ろうともせずルフィナも殿下も自分たちに都合の良い解釈をして、不実な恋に溺れていただけじゃないか!」
その一端を担っていたのは俺だけど。だからこその怒りが湧き上がる。
まあまあとじい様が俺を下がらせた。
「お前は誰で、どうしてルフィナの復讐を目論んだ」
少年はぐっと唇を噛んだ。
「ルフィナはドナテッラが婚約者の不貞に苦しんでいたと知って、号泣して土下座をしたのだぞ?知らぬのか?」とギュンター。
そうなのだ。
ドナテッラはカルステンにしたのと同様に、ルフィナに対しても慰謝料を請求した。その際に自分も彼が好きだったこと、王妃教育で感情を表に出してはならないと命じられていたこと、彼らの関係に夜も眠れないほど苦しんでいたことを伝えたのだ。
するとルフィナはぶるぶると震え出し、ドナテッラはカルステンに興味のない嫌な女なのだと思っていた、申し訳ないと地面に頭を擦り付けて謝ったのだ。
つまりは、相手が傷ついていなければ何をしてもいいと思っていたわけで、自分の行為が相手への刃になっていたと知って初めて己が悪人になることが怖くなったのだ。
ルフィナも、俺も。
だけどドナテッラは許した。
ルフィナはまだ16歳。間違いをおかすこともあるだろう。
彼女はそう言って、慰謝料以外の罰は望まなかった。慰謝料だって男爵家の資産を考慮した額だった。
ドナテッラはそんな素晴らしい女性なのだ。なぜ復讐の標的にされるのか、全く分からない。
「知っているとも!」少年はますます険しい顔になり怒鳴った。「ルフィナは純粋だから悪女に騙されてしまったんだ!おかげで罪悪感にさいなまれて苦しんでいるんだぞ!」
「それはいい。ドナテッラもたったひとりで苦しんだのだからな」ギュンターが冷めた声で言い、それから何故か俺の肩に手を置いた。「だが彼女は真面目な良い娘だった。だからちゃんと彼女を理解し幸せにしてくれる者が現れたのだ」
ギュンター!
また感激で胸がいっぱいになる。俺はいい義家族に恵まれた。
「何が真面目な良い娘だ!」だが少年にはギュンターの言葉は届かなかったようだ。「王太子もそいつの奸計に騙されて出家したのだろう!ルフィナは愛する男にも去られ、地獄の苦しみと絶望の中にいるのだ!」
ギュンター、じい様、俺は顔を見合わせた。なんだか面倒になってきたのだ。
王太子カルステンの出家は、ただの逃げだ。婚約者に真正面から向き合わず彼女を傷つけていた自分から。そして父親の犯した罪の重みから。
多分本人は、自分が逃げたとの自覚はないだろう。婚約者と国民への贖罪のために神に仕える身となると考えているのだ。
俺もドナテッラも含めて、周囲は出家に反対したのだ。王太子としての責任を果たしてほしい、と。
そのことを少年に話したところで、受け入れはしないだろう。
「で、お前はルフィナの代わりに復讐しに来たのか。彼女を守る騎士のつもりなのか」じい様が平坦な声で尋ねた。
「ルフィナは俺の全てだ!清らかで慈愛に満ちた天使なのだ!彼女を苦しめる悪女を許せるはずがない!世間が見逃すならば、俺が成敗するのだ!」
「ドナテッラは悪女」とじい様。「悪女だからか弱き女が全裸で入浴しているところに乱入して、切りつけても構わぬというのか。随分と卑怯な手口だが、お前の天使様はそんなことを許すのか?だとしたらそれは堕天使だな」
少年は頬をひきつらせた。自分が卑怯だとは思っていなかったのだろう。
「……ルフィナは関係ない。俺が家出して、勝手にやったことだ」
結局最後まで彼は謝罪しなかったし、名も明かさなかった。知らせを受けてやって来た警ら隊に身柄を引き渡し、精神的に疲れた俺たちはそれぞれの部屋に引き上げた。
◇◇
部屋に入るとドナテッラが駆けよって来た。
あの少年は彼女を害するつもりだったのだ。なんだかよく分からない様々な感情が渦巻いて、気づけば俺は彼女を強く抱きしめていた。
「どうしたの?」
「……君にケガがなくて良かった!」
本当に、本当に、だ。
「……ちょっと腕を緩めてくれる?」
「ああ、すまん!」
慌ててそうすると、ドナテッラは腕を伸ばして俺の背中にまわした。強く抱きしめられる。なんて嬉しいことをしてくれるのだ!
「わたくしこそ、ありがとう。駆けつけてくれて」
「当然のことだ」
「裸足で追ってくれたわ。ケガしなかった?」
「そんな柔な足じゃない」
「格好良かったわ!」
「全裸だったのに?」
「心意気がよ」
俺たちは顔を見合せて笑い、それから自然にキスをした。
ちゅっちゅちゅっちゅと繰り返し、
あとは、まあ。
新婚夫婦だし。
騒ぎで遅くなったせいで食堂での晩餐はなくなり、代わりに軽食が部屋に運ばれていたのだが。その存在をすっかり忘れてしまった俺たちだった。
やはり新婚旅行は最高だ!
◇◇
翌日目覚めると新妻も同じタイミングで起きたようで目が合った。
俺は彼女の額にキスをする。
「昨夜は最高に可愛かったよ、仔猫ちゃん」
はいっ!?また俺の口が勝手におかしなことを!!
「素敵な夜だったわ、ハニー」とドナテッラ。「ハニー!?」
どうやらまた、小説の強制力的なものが働いているらしい。
だがいい。俺は愛しのドナテッラとラブラブしたいのだ。
「おいで、仔猫ちゃん」と格好つけて彼女を引き寄せる。
と、ノック音がして俺たちは光速で離れた。
扉が開き、使用人が顔を出す。
「ああ、お目覚めになりましたか。昼食に下りられるのでしたら、そろそろ身仕度を始めさせていただきます」
「昼食?もうそんな時間なのか?」
「はい。ギュンター様から、昨晩の一件で疲れているだろうから起こさないようにと言いつかっていたのですが、まずかったでしょうか?」
「ああ、構わない。問題ないし、起きる。あと15分ぐらいしたら、もう一度来てくれるか?」
パタムと閉まった扉を見て、
「10分はいちゃいちゃできる」とドナテッラに言うと、彼女はもう!と怒りながらも再び俺のそばに来てくれた。
あぁ、なんて可愛いんだ。
「今のうちにドナテッラを補充」
彼女の額、瞼とキスをする。
「ん。くすぐったい」と甘い声を出すドナテッラ。
大丈夫かな、俺。どう考えても幸せすぎる。やっぱり死亡フラグなんじゃないだろうか。
それでも欲のほうが大きいので彼女をたっぷりと堪能し、後ろ髪を引かれながらベッドを出た。
とりあえず適当な服を身につけ手付かずの軽食でもつまもうとして、そばに置かれた手紙が目に入った。
昨日、この部屋に入った時に使用人から渡されたものだ。すぐにいちゃいちゃし始めたせいで存在を忘れていた。
手にとって見る。宛名は俺。差出人は……『妹』とある。どういうことだ。エーベルハルトに妹はいない。ついでに姉も兄も弟も。両親もすでに鬼籍だ。
不審に思いながら開封し、便箋を見て驚きのあまり心臓がキュッと逝きそうになった。
『
バカ兄貴へ。なに勝手に死んだり、ひとの小説に異世界転生したりしてるんだ。次に会ったら絶対にしばく。
とはいえ年齢=彼女いない暦の兄貴がスマートな新婚生活を送れるとは思えないので、優しい妹がプレゼントをやろう。ありがたく思うように。
なんと、エーベルハルト主役の番外編『ワクワク新婚旅行はお色気も危険もいっぱい!』を書いた。危険については心配ないから。ルフィナのヤンデレ義弟(遠縁から迎えた養子)が逆恨みでドナテッラをつけ回すだけ。アホなので、実際に危害を加えることはできないよ。
で、怪しい陰に怯える新妻と彼女を守るイケメン夫は、気分が盛り上がってラブラブいちゃいちゃ。
R15の限界に挑む濃厚ないちゃがあるよ!それからラッキースケベも盛り込んだ。
ぜひドナテッラとのラブラブ新婚旅行を楽しんで!
』
なんだかよく分からないが、やはり小説が進行中だったらしい。しかも危険はないようだ。
ほっと胸を撫で下ろす。
「何の手紙?」
ガウンを羽織っただけのドナテッラがそばにやって来た。あまりの色っぽさに心臓がうるさくなる。可愛かったり色っぽかったり最高の奥さんだ。
俺は手紙に目を落としてから、妻に笑みを向けた。
「古い知り合いだ。しばらく会っていなかったんだが俺の結婚を知って、祝いの手紙をくれたんだ」
「まあ。嬉しいわね」
「ああ」
だがこの手紙だと、あの少年のストーキングは新婚旅行中続きそうな言い回しだ。
「そういえばあのタンブラーは?」
「わたくしたちは入浴前も最中も、水分をたくさん取るようにしているの」
なるほど。そういえばギュンターがワインがどうのと話していたな。
「だけどよく犯人に命中させられたよ」
するとドナテッラはいたずらっ子のような愛らしい表情をした。
「秘密だけど、ギュンターよりクローケーが得意なのよ。力加減も距離感のつかみも上手いのだから」
「さすが俺の仔猫ちゃん」
「ありがとう、スイートハニー」
またしても妹のシナリオ通りの展開にならなかったということかな。それともあの少年が警ら隊から逃げ出して、つけて来るのか。どのみち俺たちの新婚旅行はラブラブらしい。
愛しのドナテッラにキスをする。この一日でだいぶスムーズになった。イケてる格好いい夫といってよいレベルだと思う。きっと『仔猫ちゃん』『ハニー』呼びのおかげだ。
センスは悪いが効果はあった。ありがとよ。
違う世界にいる兄孝行な妹に礼を言う。
この言葉がきちんと届いているといいなと思いながら。
お読み下さり、ありがとうございます。
今作品の
『温泉、花嫁に危険が迫る、全裸騎士』
は、前作でいただいたご感想を元にしています。
このご感想を下さった方、素晴らしいアイディアをありがとうございました。