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木枯らしの吹いた日、外套を貸した話


木枯らしの強く吹いた日、彼は一人の女学生に逢った。

木製で屋根のついた簡易的なバスの待合所で、二人は同じ小説を読んでいた。

その日は昨日までのうららかな日と打って変わってやたら陽も冷たく、寒風が吹き付けていた。うっかりだろう、女学生は薄い羽織と襟巻は着けていたが、それでこの風が防げるはずもなく指先が細かく震えていた。元から白いのであろう頰は血の気が無く、唇は冬の群青の空を思い出させるほど青ざめていた。

あまりの痛々しさに見ていられず、少しの迷いの後、彼は彼女の肩に自分の学生服の外套を黙って掛けた。

弾かれたように顔を上げ、目を落ちそうなほど見開く彼女に彼は「…いい小説、ですよね…」と言い残すと待合所に背を向け、風の中に飛び出して行った。背後で彼女が何か言ったようだったが、彼の耳には何も届かなかった。


翌日、同じ場所、同じ時間に彼は例の女学生を探した。ところが何日行っても何週間してももう一度彼女に会うことは出来なかった。それもそのはずで、彼女はこの近辺に住んでおらず、祖母の入院した大学病院に見舞いに行った帰りだったのだ。

そんな事を知らない彼はただ相手が自分に言いし得ない恐怖でも感じてしまったのだろうと考え、彼女の事など記憶から消してしまおうと努力していた。だが、努力すればするほど見開いた彼女の瞳の色を、震えていた指先を、吹いていた木枯らしの音をありありと思い出すことが出来た。友人から古い外套を借りていたが、寒風がいやに体にしみた。



一方の彼女は外套を返す相手が分からず困惑していた。

偶然行ったバス停で、偶然隣りで同じ本を読んでいて、偶然外套を貸してくれた人など探しようがない。ましてや、あの周りは学校が林立している。流行りの同じ外套を持つ人は沢山いるだろう。

すでに遠くの家まで帰って来てしまったので、軽々しく例のバス停に行けるはずもない。

あの日、帰ってきた娘が男物の学生服外套を羽織っていたのを見て両親がどれだけ驚いた事か。一体誰の外套だ、何があったんだ、変なことをされてないかとか、これだから都会はとか、何でちゃんと上着を持って行かなかったんだとか、心配されているのか叱られているのかよくわからない質問攻めにあった。

そういう事の後だと返したいと言い出す気分にもなれず、部屋の隅に畳んだ外套は悶々と眺めるだけになっていた。


転機になったのは、何気なく広げた外套に名前の刺繍と手書きの学校名を見つけた事だった。そこそこ有名な大学の名と、彼の名であろう「伊藤」の字。確かにあの学校ならばバス停に行く途中で見た覚えがある。門の外から見えたのは丸裸になった樹木たちと地面に積もる茶色の絨毯だけだったが。

数日前からまた一段と寒くなった。私の所為で彼が困っているのではないかと思うと、名も居場所も知っているのに雨止みを待つ人の様に動けずにいる自分が何とも情けなく思えてくるのだった。

自分が行けないなら彼の通う学校に小包の形で送ればいい、そうも考えた。でも、あの日待合所でそっと盗み見た彼の横顔と、緊張した彼の声は日を追うごとに何故か輪郭をはっきりさせている。普通ならば薄れるはずなのに。もう一度、彼に会ってみたい。会って直接お礼を言いたいという思いが木枯らしの先にある落ち葉の山のように増していった。増すだけ増して行き場のなくなった想いがどうなるのか彼女は知らなかった。ただ抑え、閉じ込める事しか知らなかった。



バス停で彼女に会った日からふた月が過ぎた。いつまでも友人の外套を借りているわけにも行かないと思い、彼は実家宛に外套を買いなおす代金を請求しようか、それとも家庭教師か何かで稼ごうか悩んでいた。友人からは別に返さなくていいと言われていたが、残念ながら型紙が古い。馴染みの本屋に行くだけでも少し悲しくなるのだ。


だが、あの女学生の肩に外套を掛けたことは一切後悔していない。このまま永久に返される事が無くても、彼女が意図的にこちらを避けているのだとしても。少なくとも彼女を最悪の状態から救えたという自己満足がある。……いや、そう思わなければこのふた月の間、始終呼び起こされる記憶のざわめきに耐えられなかっただろう。


まぁ、外套の事は後で考えよう。今日は図書館と本屋巡りのせいで時間が遅くなってしまっている。下宿先に迷惑をかけぬうちに帰らなくては。

そう考えた彼はいつものバス停へ向かった。今まで幾度となく行き、ここふた月の間はどこか気の張り詰めた場所に。ほの暗く光る街灯一つと屋根付きの小さな待合所にはこの時間だというのにちょっとした人だかりができていた。彼は不思議に思い早足で近づくと人だかりにいた友人の一人が彼の名を大声で呼んだ。早足から小走りになった彼は待合所の腰掛けに黒い物体が置かれているのを見た。人をかき分けてよく見ると「伊藤様へ」と書かれた紙が添えられている。「お前のあの外套だよな?」と覗き込んでくる友人に曖昧にうなずくと彼は畳まれた外套に手を伸ばした。添えてある紙を避けると、丁度“伊藤”と刺繍されている箇所が上に来ていた。広げて見ると端の方に手書きで学校名が記されていた。間違いなく自分の筆跡だった。

思わず、その外套を抱きしめていた。我ながら女々しいと思ったが今は構わないことにした。


「じゃ、この手紙もお前宛てってことか。」

いつの間に取り上げたのか、ニヤリと笑う友人の指先には添えてあった紙が挟まれていた。紙を広げてみるとこんな事が書いてあった。



前略、伊藤様

先日は外套をお貸し下さり誠に有難う御座いました。

早くお返しせねばと思っておりましたが、あいにく都合がつかずこのような時期になってしまい、誠に申し訳ありません。

ささやかですが、お礼としてりんどうのしおりを添えさせて頂きました。

使っていただければ幸いです。

草々不一

多実子

追伸、貴方はりんどうの様な方だと思いました。



女性の綺麗な文字だった。そして、彼女の名が多実子だという事に何かの巡り合わせの様なものを感じた。貴女はーー貴女は野菊の様な人だと思った。貴女が僕をりんどうに例えたように。初めて逢ったあの日から自分の恋路はきっと始まっていたのだ。しおりには空へ真っ直ぐ咲いたりんどうの絵が描かれていた。

ふと、気づいた。手紙には「多実子」としか書かれていない。苗字も通う学校も住所も何もない。家の家紋もない。折角の巡り合いも相手が何処の多実子なのかわからなければ続く筈がない。

書かなかったのは彼女の不注意だったのだろうか。もう会わないという彼女の意識なのだろうか。僕には確かめようがない。それでも、一度は想い想われたのだ。皮肉なものだ…そう思うと急に可笑しさが腹の辺りから込み上げて来た。可笑しさは身体の中心を貫いて顔にも広がっていった。

先程まで真剣な目つきだった彼が風に吹き飛ばされた枯葉のように無気力に笑う。その様子に友人と野次馬達が呆れた視線を向けていた。




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