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第22回 戦う決意

 熱いシャワーが顔に降り注ぐ。

 目を瞑る紅葉の顔をシャワーが流れ、首筋を通り膨よかな胸の谷間を滑り落ちる。

 紅葉は細い躰つきをしているが、腹筋は硬く引き締まり、脚は伸びやかな跳躍を予感させ、シャワーノズルを持つ腕も無駄な脂肪ひとつ付いていない。

 それでいて膨よかな胸と小ぶりだが形のいいヒップが、男を誘惑するに足りる色香を備えていた。

 気持ちよくシャワーを浴びていた紅葉がびくりと躰を震わせた。

 玄関の閉まる音がしたような気がしたのだ。

 お湯を出したままシャワーノズルを下にして、紅葉は聴覚を研ぎ澄ませた。

 特に変わった音はしない。シャワーが床のタイルで弾ける音だけが聴こえる。

 念のためシャワーを止めて確かめようと紅葉が蛇口に手を伸ばした瞬間、風呂のドアが力強く開けられた。

「きゃーッ!」

 悲鳴をあげた紅葉。

 帽子を目深に被った男がそこにはいた。

 驚いた紅葉はとっさに持っていたシャワーを男に向けた。

 顔面にシャワーを浴びた男に驚くべき現象が起きた。

 男の顔が白い煙を立てて、ぐずぐずと溶けはじめたのだ。

 なにか起きたのか紅葉はわからなかったが、その隙に男を突き飛ばして紅葉は風呂を駆け出した。

 紅葉は脱衣所に置いてあったバスタオルを手に取り、躰に巻きながらそのまま狭い廊下を駆ける。

 紅葉の向かっている場所はただひとつ――〈般若面〉のある寝室だ。

 寝室に飛び込んだ紅葉はすぐさま〈般若面〉を手に取った。

「お姉ちゃん!」

 駄目だ反応がない。

「お姉ちゃん起きて!」

 深い眠りに落ちている『姉』が起きることはなかった。

「お姉ちゃん!」

 叫んだ紅葉は迫る気配を感じて振り返った。

 寝室の入り口に立つ男の姿。シャツをぐっしょりと濡らし、その上にある顔は溶けたように崩れていた。鼻は曲がり、口はひしゃげ、瞼が重く垂れ下がっている。

「よくもやってくれたな!」

 怒鳴る男の声に紅葉は聞き覚えがあった。あの公園で自分を襲った奴だ。

 深夜の公衆トイレでの出来事を思い出した紅葉は身震いをした。

「今日こそお前を犯してやるぜ!」

 両手を広げて襲い掛かって来る男を紅葉は躱わし、近くに置いてあった通学鞄を拾った。

 すぐさま鞄の中から取り出したのは催涙スプレーだった。

 再び襲い掛かって来る男に向かって紅葉は霧状のスプレーを噴射した。

「クソッ、なんだこれは!?」

 眼を押さえて怯む男を尻目に紅葉は寝室を飛び出し、後ろを振り返ることなく素足のまま玄関を飛び出した。

 誰かに助けを求めるか?

「……駄目」

 他人を巻き込むわけにはいかなかった。

 片手で躰に巻いたバスタオルを押さえ、濡れた髪を揺らしながら紅葉はマンションの廊下を走った。

 エレベーターが見えたが、密室に入るのは危険と判断して紅葉は階段を使った。

 一瞬、階段を下りかけ、引き返して階段を上る。

 階段の隙間から廊下を見ると、あの男が走っているのが見えた。早くに逃げなければ掴まってしまう。けれど紅葉は下ではなく上に逃げたときから決心をしていたのだ。

 いつも『姉』ばかりに頼っていられない。自分の身は自分で守らなければならないと考えたのだ。

 階段の途中にあった格子扉をよじ登り、六階建ての屋上までやって来た。

 月下の照らす屋上で紅葉は男を待ち構えた。

 少し冷たい夜風が吹き、バスタオルを巻く紅葉の躰を冷やす。

 男は来た。

 紅葉は両手を腰の後ろに回して鞄を隠す。

 ここまで走って来た男は紅葉を見つけてからはゆっくりと歩き、その時間を楽しむように紅葉に近づいてくる。

「もう逃げ場はないぜ」

「逃げる気はない!」

「俺にヤられる覚悟ができたのか?」

 紅葉はゆっくりと首を横に振った。

「いいえ、あなたを殺す覚悟をしたの」

「アッハハハハッ……オレを殺すだって?」

 男は腹を抱えて大笑いをした。それが紅葉に訪れたチャンスだった。

 背中に隠し持っていた鞄の中から口径の大きい銃を抜いた紅葉。

 銃声は通常のものよりも重かった。

 発射された弾は男の足元で炸裂し、緑色のゲルを撒き散らした。

 男は驚いてコンクリから足を上げようとしたが、足とコンクリにへばりついたゲルで足が上がらない。

 そう、紅葉が撃った銃は死傷させるための物ではなく、敵の身動きを封じるための物だったのだ。

「クソッ、動けねえ!」

「逃げようとしても無理、それは生きているから」

「なんなんだこれは!?」

「魔導街で買ったスライム弾。帝都警察も犯人捕獲に使用しているものなの」

 男の足に付いたゲル状のスライムはぶよぶよと蠢き、少しずつ躰全体を包み込もうとしていた。

 紅葉は手に持っていた鞄を放り投げた。

 鞄の換わりに持たれていたのはケースに入った裁ち鋏だった。

 両刃の裁ち鋏をケースから抜いた紅葉の手は震えていた。

「ごめんなさい」

 紅葉は裁ち鋏を高く振り上げ、一気に迷いを振り払って男の胸に突き刺した。

「ぎゃぁぁぁっ!」

 心臓を突き刺された男の躰が大きく痙攣した。

 紅葉は裁ち鋏を男の胸に刺したまま動けなかった。手が自然と振るえ、刃の隙間から滲み出す黒血が男のシャツを浸蝕していた。

 男の筋肉が脈動した。

 刺さっていた裁ち鋏が筋肉に押し戻される。

 裁ち鋏が抜かれた傷口から血が吹き出し、紅葉の白いバスタオルを紅く染めた。

 なにが起きたのか理解するまで時間はいらなかった。

 男の躰に変異が起きていた。

 紅葉は『姉』に聴いていた話を思い出した。

 筋肉は膨れ上がり、男は雄叫びをあげながら自らのシャツを引き千切った。

 慌てた紅葉は裁ち鋏を構えなおして男に突き刺そうとした。だが、裁ち鋏を持った手首が男の巨大な手に止められてしまった。

「たっぷりとお礼をしてやるぜ」

 より野太くなった声を出した男は紅葉の躰に巻かれていたバスタオルを剥ぎ取った。

 露にされる紅葉の肉体。

「いやーッ!」

 紅葉は残っていた手を振り回して男の頬を引っ掻いた。

 頬の肉が剥ぎ取られた――違う。紅葉は剥ぎ取った男の皮を握り締め、それがなんであるか瞬時に悟った。

「変身マスク!」

 闇市などで売られている変身マスク。芸能人や他人に被るだけで簡単に変身できる魔導具だ。ただ、そのマスクは水――特に湯に弱く、汗を掻いたり湯をかけられえるとすぐに溶けてしまうのだ。

「気づいたってどうにもならねえよ、今からお前はオレに犯されるんだ!」

 男の股間はパンパンに膨らみ、窮屈そうにズボンの下で脈打っている。

 裸にされ、全身を舐めるように見られ、紅葉は声を出さずに大粒の涙を流した。

 それでも負けるわけにはいかなかった。

 紅葉には男の股間目掛けて足を大きく蹴り上げた。

「ギャッ!」

 男は短い悲鳴を上げて紅葉の手首から不意に手を離した。

 地面に両手を付いてしまった紅葉が逃げようとしたとき、近くで花火が打ち上げらたような音がして、爆発と共に男の躰が遠くへ吹っ飛ばされた。

 地面に伏せていた紅葉が顔を上げると、月下を浴びるひとりの少女がハンドバズーカを構えていた。

「アリスちゃん!」

 紅葉はその名を呼んだ。

「こんな夜更けに裸で月光浴でございますか?」

 アリス流の毒のこもった冗談だった。

 自分に近づいてくるアリスに紅葉は眼を丸くしてしまっている。

「どうして……ここに?」

「紫苑様の言いつけで紅葉様の周りを見張っておりました」

「じゃあ……どうして……もっと早く助けに……」

 緊張の糸の切れた紅葉は号泣した。

「武器を取りに行っておりました」

 悪戯にアリスは艶笑してすぐに無表情に戻して屋上の先を眺めた。

 アリスの視線の先ではフェンスが内側から押されたように壊れている。

「どうやら落ちたようでございますね」

 それはバズーカを喰らった男のことだった。

 ほっと胸を撫で下ろす紅葉の耳に狂気に満ちた雄たけびが聴こえた。

 男がフェンスをよじ登ろうとしていた。

「てめぇら、ただじゃ置かねえぞ! ボロボロになるまで犯してやる!」

 フェンスをちょうど登り終えた男にアリスがバズーカを構えた。

「丁重にお断り申し上げます」

 発射されたバズーカの弾は高速で男の腹に当たり、爆発と共に巨体は虚空へ堕とされた。

 バスタオルを巻き直した紅葉はすぐさま屋上から地上を眺めたが、夜の暗闇と植え込みのせいでよく見えなかった。

 後にアリスが地上に確認に向かったが、そこには血を引きずった痕が残されていただけで、男の屍体はそこにはなかった。

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