第21回 偽りではなく黙秘
そこが自宅の玄関だと気づいた紅葉は力なく床に倒れた。
伸ばされた手の先には〈般若面〉が転がっている。
ただ、ここまでの記憶がまったくない。
父が彫った面を探すため〈般若面〉を被った。
そこからここまでの記憶がない。けれど、そのことを考える余力が今の紅葉には残されていなかった。
躰が鉛のように重く、間接や筋肉が激しく痛む。
意識が薄れていくのを紅葉は感じた。
目に見える廊下が徐々に闇に覆われていく。
そして、紅葉は闇に堕ちた。
ケタケタと耳障りな嗤い声で紅葉は瞳を開けた。
紅葉の目の前には『名無し猫』が鎮座していた。また、この夢の世界に来てしまった。
「もういい加減にして、あなたの顔なんて見たくない」
紅葉は不安を覚えていた。ここ連日のように現れる『名無し猫』。前はこんなことなどなかった。数ヶ月に一度、姿を見せればよいほうだった。
「見たくない、会いたくない、死んじまえなんて言われても俺様は消えないぜ」
ケタケタ嗤う『名無し猫』。
紅葉は耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
「もうあなたの話なんて聞かない。あなたになんか惑わされない」
「耳を塞いでも無駄だぜ。この世界は夢だ、物質界の常識には囚われない。俺様の声はお前の魂に直接届くんだ」
「なら黙って」
「ヤダね。俺様はお前の知りたいことを教えてやるために、わざわざ現れてやったんだぞ?」
なにかと尋ねようとして紅葉は口を噤んだ。ここで尋ねたら相手のペースに乗せられてしまう。
しかし、結果は同じだった。『名無し猫』は訊きもしないのに勝手に話しはじめたのだ。
「いいこと教えてやるよ。お前、〈般若面〉を被ってるときの記憶がないだろ?」
「…………」
紅葉は黙り込むことに決めた。
「そのときの記憶がお前の中に眠ってるって言ったらどうする?」
「――ッ!?」
思いもしなかったことに紅葉は表情を驚かせてしまった。
「お前って本当にわかりやすい奴だな。顔にすぐ出す癖は直した方が身のためだぞ」
「うるさい、あなたには関係ないでしょう」
「ケケケッ、せっかく忠告してやってるんだぞ。けどな、眠ってる記憶の話は気になるんだろう?」
「……本当にそんな記憶あるの?」
相手のペースに乗せられまいと思っていたのも、ここが限界だった。
『名無し猫』はケタケタと嗤い言った。
「ある。無意識の中の意識に埋もれた記憶だ。その記憶、欲しくないか?」
「なにが目的?」
「俺様の善意だ」
「嘘、絶対に嘘」
『名無し猫』がなにも企んでいないはずがない。きっとなにか紅葉を陥れるなにかがあるのだ。
「どうする?」
と尋ねる『名無し猫』に紅葉は首を横に振った。
「欲しくない」
「そりゃ残念だ。まあいいさ、そのうち姉に訊けばいいことさ……ケケケッ」
そう、『姉』に訊けばすべて済むこと。〈般若面〉を被って記憶のないときのことは、いつもそうやって『姉』に話を聞いてきた。
「でもな、言葉はすべてを正しく伝えるわけじゃないぜ」
『名無し猫』はそう言ってケタケタと嗤い、耳障りな音を聴きながら紅葉は目覚めた。
気がつくとそこは自宅の玄関だった。さっき気を失った場所と同じ場所だ。
紅葉は重たい躰に鞭を打って立ち上がり、廊下に落ちていた〈般若面〉を手に取った。
〈般若面〉に触れたのに、エネルギーを吸われることもなく、『姉』の意識も紅葉に流れ込んで来なかった。
「お姉ちゃん?」
声をかけても返事はなかった。
「お姉ちゃん?」
ぐっと引かれるように紅葉はエネルギーを吸われ、思わず床に膝を付いてしまった。
《ごめんなさい、少し眠っていたの》
『姉』は完全な眠りに落ちていたのだ。紅葉が〈般若面〉を被って戦ったあとにはよくあることだった。
人に触れられることによって、その者のエネルギーを吸って『姉』は覚醒める。その覚醒めるというのは、外部との接触ができる状態のことをいい、覚醒めていないときも『姉』の意識はちゃんとある。その意識すらもない状態――生物でいう眠りの状態にあるときは、〈般若面〉に触れてもなんの反応も起きないのだ。
「お姉ちゃん、なにがあったの?」
《あの情報は本当だったわ》
「お父様の面が見つかったの?」
《ええ、失敗作だったわ。それを被った奴が中途半端な出来損ないの怪物になったから、アタシがそれを倒し面を……破壊したわ》
『姉』の記憶に蘇る紅い影。
――この仮面、私が貰い受ける。と、その男は言った。
駆け巡る戦慄。
そして、男は呉葉に尋ねたのだ。
――お前の被っている面はなんだ?
復讐の相手を目の前に、呉葉は必死になって逃げることしかできなかった。
「お姉ちゃん?」
黙ってしまっている『姉』に紅葉が声をかけた。
「他には?」
《えっ?》
「だって、盗まれたお父様の面は一つじゃなかったのでしょう?」
《……燃えてしまったと思うわ。犯人が乗っていた車が爆発して、きっとなにも残っていない》
果たして本当にそうなのか自信はない。今、『姉』の頭を渦巻いているのは恐怖だ。紅い影への恐怖以外、なにかを考える余裕はなかった。
《ごめんなさい紅葉、とても疲れてしまったわ。あなたも疲れているでしょう、今日はゆっくりおやすみなさい》
「……うん」
吸われていたエネルギーが止まった。『姉』が眠りに落ちたのだ。
紅葉は『姉』に疑問を覚えたが、それを訊くことはできなかった。
『名無し猫』の言葉が紅葉を不安にさせた。
あのとき言った『名無し猫』の言葉の意味を理解したのだ。
紅葉は『姉』の語ったことしか知らない。
『姉』が敵の肉を切り裂いても、その感触を紅葉が知ることはない。
もし『姉』が嘘を付いても、紅葉は嘘を真実として思い続けるかもしれない。
紅葉は深く深呼吸をして首を振った。
『姉』を信じなくてどうすると紅葉は思ったのだ。常に自分のことを考え、守り続けてきてくれた『姉』。『姉』がいなければ、今まで生きてこられなかった。
「だからこれからもお姉ちゃんのこと信じる」
紅葉は新たに誓いを立て、眠りについた『姉』をいつもの場所にそっと置いた。
そして、べたつく躰と今の気分を流すためにシャワーを浴びることにした。
呉葉が妖物と戦っているほぼ同時刻のこと――。
その仮面を手に入れたのは偶然だった。
薄暗くなりはじめた繁華街を雅はお兄ちゃんを車椅子に乗せて進んでいた。
お兄ちゃんは帽子を目深に被り、ミイラ男のように全身に包帯が巻かれ、その上から服が着せられていた。それだけではない、躰中には呪文の書かれた呪符が張られていたのだ。
異様な雰囲気を醸し出しているが、変わった格好をしている者などこの街にはいくらでもいる。ただ、その二人の雰囲気はこの街でも特異なモノであった。
胸焼けを起こす瘴気と腐食臭。危険なモノがいると、誰もが二人に道を開けた。
車椅子を押す雅の手が止まった。
露天に並べられえるガラクタが目に留まった。
銃器やネックレスやノートパソコンなど、拾った物を修理して店に並べる露天商だ。
その中で雅の興味を惹いたのは、不気味な異形を模った仮面だった。
「その仮面どうしたの?」
と、雅が訊くと、露天商はすぐに答えた。
「帝都警察のパトカーに追われてた奴らが落としていったらしい。俺はそれを譲ってもらったんだ」
「その仮面を売ってください」
「金なんていらない。この仮面、手に入れたときには思わなかったんだが、だんだんと気味悪くなってきた。この仮面をただでやるから、お前たちも早くどっかに行ってくれないか……商売の邪魔なんだ」
露天商の声は震えていた。
辺りの人々が露天を避けて大回りに歩いている。それに気づいた雅は仮面を受け取ると、俯いてお兄ちゃんを乗せた車椅子を押した。
仮面を手に入れた雅は潜伏先の安ホテルを探し、部屋に入るとすぐにカーテンをすべて閉めて電気を消した。
薄暗い部屋の中にお兄ちゃんの声が響き渡る。
「その仮面を被ってみたい」
雅は包帯の上から仮面をお兄ちゃんの顔に被せた。
暗闇の中で雅は眼を見開いた。
闇の中にあっても、すぐ近くで見ていた雅にはわかった。
仮面が包帯ごとお兄ちゃんの顔と融合したのだ。
雅はお兄ちゃんの頬に触れた。
皮膚の感触が指に伝わった。けれど、そこにあるのはもうお兄ちゃんの顔ではない。不気味に嗤う異形の顔。
そして、異形の顔についた魚のよう口が言葉を発したのだ。
「……も……みじを……犯……行く……」