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第20回 焔の記憶

 父は姉だけに業を教えた。

 決して呉葉が長女だったからではない。

 のちに呉葉はなぜ妹に父は業を教えなかったのか、その理由は身をもって知ることになった。

 妹は確実に父の『血』を引いていたのだ。それだけならば父は最高の後継者として妹に業を教えたかもしれない。けれど、きっと父は妹――紅葉の秘めた闇に気づいていたのだ。

 呉葉が叔父によって殺されたのち、紅葉は復讐の面として〈般若面〉を彫った。のみを握ることすら父から固く禁じられていた紅葉が、一心不乱で三日三晩の時を費やし眠ることなく彫り上げたのだ。

 そして、妄執が彫り上げた〈般若面〉に呉葉が宿った。この出来事を父が知れば、職人としての喜びと、ひととしての悲しみを覚えたに違いない。

 しかし、この時すでに父は姉妹の前から消えてしまったあとだった。


 ――首都京都。

 一〇年ほど前の心も凍てつく寒さの厳しい夜だった。

 崩壊は突然に訪れた。

 最初に聴こえたのは家中の窓ガラスが四散する音だった。

 続いて母の叫びが聴こえた。

 幼い姉妹はベッドで抱き合って震えた。

 家で尋常ではないことが起きているのは明白であった。

 空気に溶け込む氷の魔性が、暖房のついていた部屋を極寒の地へと変貌させ、じめじめと陰湿な『何か』が部屋中を飛んでいた。

 震え上がる姉妹の部屋のドアが優しくノックされた。その優しさが逆に恐ろしく感じられ、道化の皮を被った悪魔が扉の先にいるのではないかと思わせた。

 ドアが再びノックされるが、姉妹に鍵を開ける気は毛頭ない。

 ノブがガチャガチャと音を立てて回され、静かになったかと思うと、鍵は己の存在理由を忘却し、ドアはゆっくりと開かれたのだった。

 黒い影が足を伸ばし、ドアの隙間を抜けて部屋に踏み込んだと同時に、姉妹は思わず咽返ってしまった。

 視覚では感知できない妖気が部屋を満たし、その人影はベッドで震える姉妹の前で軽く会釈をした。

「影山彪彦と申します」

 鴉みたいなコートを着た男は丸いレンズのサングラスを掛けおり、口元は天使みたいな柔和な笑みを浮かべていたが、決して油断のできない魔性の雰囲気を醸し出していた。

 特に油断ならないのは、笑みを浮かべる影山彪彦と名乗った男はではなく、その肩に乗る漆黒の鴉が姉妹を獲物として見ていることだ。

「脅えないでください。わたくしもこの子も子供が大好きです」

 彪彦の言葉とは裏腹に鴉の眼つきは鋭い。

 呉葉は妹の体を抱え込んだ。

「あなた何者なの、妹になにかしたらただじゃおかないわよ!」

「元気の良いお嬢さんですね。わたくしたちは魔導結社D∴C∴の団員、あなた方のお父様に用があって参上いたしました」

「お父様に?」

 と、呉葉が尋ねたとき、別の部屋で母の悲鳴が聴こえた。

 すぐに立ち上がろうとした呉葉を彪彦が手を突き出して制止させた。

「できれば動かないでもらいたい。先ほども言いましたが、わたくしは子供が大好きです。他の仲間はどうだか知りませんから、あなた方が顔を出せば殺されますよ」

 彪彦は微笑んだ。その微笑のなんと残酷なことか。姉妹は震え上がって互いを支えあった。

 紅葉はいつの間にか眼に涙を溜めて肩を震わせていた。恐怖に蝕まれながらも、紅葉は声を必死に押し殺していた。そんな妹の頭を呉葉は撫でた。

「大丈夫よ、紅葉のことはアタシが守るわ」

「……お姉ちゃん」

 涙ぐむ子供を前にした彪彦は握っていた拳を開き、手の中から魔法のように二粒の飴玉を出した。

「ささっ、どうぞお食べください」

 呉葉は飴玉が乗せられた彪彦の手にゆっくりと手を伸ばし、いきなり叩いた。

 床に転がるキャンディーを見て彪彦は残念そうな顔をする。

「キャンディーはお嫌いですか。わたくしのお手製のスペシャルデリシャスなキャンディーだったのですが」

 彪彦の肩に乗っていた鴉が床に降り、落ちていたキャンディーを上手に嘴で摘むと、袋に入ったまま二個続けて呑み込んだ。

 と、同時に紅葉は呉葉の手を握ってベッドから飛び降りた。

「お姉ちゃん来て!」

 部屋を駆け出して行った姉妹の背中を見ながら鴉はため息をついて見送った。

 紅葉に引っ張られながら呉葉は廊下を走り、階段を駆け下りて暖炉のあるリビングまで走った。

 そこで姉妹の足が不意に止められた。

 鮮やかに紅いインバネスを纏う背中から伸びた男の腕。その先にはなんと全裸の母が首を絞められていたのだ。

 意識を失ったようにがくりと首から力の抜けた母を、インバネスの男は物を扱うように軽く押し飛ばし、母は人形のように床に転がった。

 大男に後ろから羽交い絞めされていた父は全てを目撃して絶叫した。

「うあぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 姉妹は声が出なかった。

 床に横顔を押し付けた母の顔が蝋人形のように瞬きもせずにこちらを見ている。

 ――死んでいる。

 そして、母を殺した男は紅いインバネスを翻して振り返り、世にも美しく恐ろしい艶笑は姉妹の目に焼きついた。

 姉妹はこの男のことをヒトではないと思った。

 あんな妖艶な闇色をした瞳を持っている者は魔性だ。人間の皮を被った悪魔だ。

「ぎゃぁぁぁぁぁっ!」

 絶叫をあげた紅葉が紅い男に向かって飛び掛った。

 呉葉も我慢できずに飛び掛った。

 だが、姉妹の抵抗も虚しく、男が腕を払っただけで姉妹は揃って後方に吹き飛ばされてしまった。

「娘たちに手を出すな!」

 父は必死に大男から逃げ出そうとするが、羽交い絞めにされた躰はまったく動かない。

 姉妹は互いに支え合い立ち上がり、再び母を殺した男に飛び掛ろうとした。

 しかし、その前に突如として立ち塞がる長身の影。

「おやめなさい」

 肩に鴉を乗せた彪彦であった。

「死を急ぐことはありません。ねえ蘭魔さん?」

 彪彦に顔を向けられたインバネスの男――蘭魔は冷たく言い放つ。

「恐ろしき血を受け継ぐ者。そのような存在はこの世にただひとりでいい――殺せ」

 その言葉を聞いて父が叫ぶ。

「逃げろ、逃げろ呉葉、紅葉!」

 今度は姉が妹の手を取って逃げた。

 玄関に向かって走る姉妹の前に火柱が立ち塞がった。

 後ろに引き返そうとしたが、気かつけば辺りは火の海に包まれていた。家中に火がつけられたのだ。

「お姉ちゃん!」

 紅葉は泣き叫んだ。

「大丈夫よ、心配いらないわ」

 呉葉は紅葉の手を引いて、炎から逃げるように二階へと追いやられた。

 火の手は階段のすぐそこまで迫っている。

 灼熱の熱気が辺りに立ち込め、煙まで下から上がってくる。

 追い詰められていく姉妹。

 そこに更なる追い討ちが立ちはだかる。

 炎を纏った猛犬――ファイアードッグが姉妹の行方手で待ち構えていたのだ。

 狭い廊下で逃げ場などなかった。

 ファイアードッグが鋭い牙を剥いて飛び掛ってくる。

 迫る脅威に呉葉は紅葉の手を引いたが間に合わなかった。

 眼を大きく見開いて動けない紅葉。

 地獄の炎が紅葉の顔の横を擦り抜ける。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 妹の悲痛な叫びが呉葉の胸を打ち砕いた。

「紅葉ッ!」

 顔面を押さえて床でのた打ち回る紅葉を抱きかかえた呉葉は絶句した。

 赤く腫れ上がり醜悪に変わり果ててしまった妹の顔半分を見て、呉葉は無言のまま号泣した。

 しかし、ここで動かなければ殺される。

 呉葉は痙攣する紅葉を抱きかかえ、強引に走らせて近くの部屋に逃げ込んだ。

 そこもすでに火に包まれ部屋は燃え崩れ、後ろからはファイアードッグがゆっくりと威嚇するように追ってくる。

「絶対、絶対……生き延びて復讐してやる!」

 呉葉は叫び、紅葉を抱きかかえながら割れた窓から地面に飛び降りた。

 落ちて来るように迫る地面。

 必死に呉葉は紅葉を抱き庇いながら地面に着地し、激突の衝撃と共に稲妻が落ちたような激痛が足を襲った。

「ぐッ……」

 呉葉は地面に倒れながらも紅葉を庇った。その代償は右足の骨折だったが、この程度で済んだのは奇跡だったかもしれない。

 しかし、奇跡は儚くも終わりを迎えようとしていた。

 意識のない紅葉を抱きかかえた呉葉の耳に届いた唸り声。

 背後から迫る殺気。

 呉葉が振り返ると、そこにはファイアードッグたちが群を成し、姉妹との距離を少しずつ狭めていた。

 歯を食いしばる呉葉は折れた足を強引に動かし、激痛に耐えながら紅葉を抱えて引きずった。

 ファイアードッグとの距離は三メートルを切っていた。

 追い詰められた姉妹の行く手には崖があり、その下には大きな川が流れていた。

 家の真横を流れる川での家族との温かい思い出。

 しかし、今そこに流れる川は冬の凍てつく寒さを孕んでいる。

 呉葉の眼に映る炎の山。

 火の粉を上げる家が激しく燃え散ろうしていた。

 あの家での思い出はすべて灰へと変わる。

 意識のない紅葉を呉葉は強く抱いた。

 ファイアードッグが喉を鳴らして襲い来る。

 そして、姉妹は凍てつく川へと身を投じたのだった。

 水しぶきを上げて姉妹を呑み込んだ川の水が、抉るように冷たく躰を刺す。

 ――凍える水の中。

 呉葉は紅葉を強く抱きしめて、ただ生きたいと願った。

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