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第1回 叫びの雨

「ぎゃぁぁぁぁっ!」

 苦痛に震える叫びは、灰色の空から降りしきる豪雨に掻き消された。

 アスファルトを殴っては四散する雨粒たち。

 左右を囲む高いビルの壁。

 帝都エデンの裏路地はいつもより濃厚な狂気を孕んでいた。

 廃気に汚染された滴が長い黒髪を滑り落ちた。

 長い髪から覗く形相は人に非ず、〈般若面〉をつけた少女がそこにはいた。

「貴様のようなゲス野郎は殺してやる!」

 狂気で毒づく少女の罵声が眼前の怪物に浴びせられた。

 壁にもたれ掛かり、ぐったりと座る少女の前には、人の顔を持った怪物が舌なめずりをしていた。顔は人であるが、ひと目で異形だとわかる。五本の指は赤紫の触手であり、一メートル以上もあるそれで少女の躰をまさぐる。

 学園の制服が濡れて少女の躰に張り付く。雨に濡れて透けた服から白いブラと肌が見え、生肌に張り付く服に不快感を生じる。だが、目と鼻の先で行なわれる恥辱を前に、そんなことなど忘れ去られた。

 触手は少女の胸部を鷲掴みするように巻きつき、ナメクジのようなねっとりした粘液を先端から噴出している。

 少女は動けなかった。

 決して恐怖心のためではない。

 股関節の骨を脱臼させられ、起死回生しようにも動くに動けない状態だった。それに加え、一〇本もの触手が四肢を拘束して放さない。

 躰の自由を奪われ、抵抗のできない少女にできることは、ただ叫ぶことであった。

「殺してやる、殺してやる! 性器を切り落とし、目玉を抉り出し、舌を引っこ抜いてやる。貴様は苦しみながら地獄に堕ちるんだ……キャハハハハ!」

 その言葉の虚しさを発した本人にはわかっていた。相手に罵声を浴びせたところで、少女――妹を助けらないことを『姉』は痛感していた。

 触手が伸び、〈般若面〉を外そうと力が込められた。

「やめろ面に触れるなぁぁぁぁっ!」

 悲痛な『姉』の叫びに怪物が耳を傾けることはない。

 めりめりと悪寒の走るなにかが剥げる音がする。

紅葉もみじの顔は貴様のようなゲスが触れていいものじゃない!」

 同時に轟く雷鳴。

 雷光が妹の名を呼んだ〈般若面〉に翳を落とし、その形相をより怨念の宿ったものにした。

 触手は震撼する紅葉の腕を押さえ、〈般若面〉を剥ぎ取ろうとする力を強める。

 めりめり……めりめり……と、〈般若面〉と皮膚の間で奇怪な音が立てられ、それは皮膚をも剥ぎ取ってしまいそうな行為に思えた。

「殺してやるーーーッ!」

 『姉』の悲痛とともに、〈般若面〉は引き剥がされた。

 尋常な感覚を持ち合わせている者ならば、その『顔』を見て眼を剥くか、もしくは背けただろう。

 鬼女の憤怒と嫉妬を表し、二本の角と裂けた口から牙を覗かせる〈般若面〉。その下の素顔は醜悪で悲惨なものだったのだ。

 顔半分は端整で才女の相を見せているのだが、その半顔は大火傷を負ったように、皮膚が赤くケロイド状に爛れていた。

 女性ならずとも、人前に晒すことを躊躇う傷痕だろう。それもまだ思春期の中にいるうら若き乙女だ。傷痕は顔だけでなく心にも深い傷を残しているに違いない。

 触手は〈般若面〉をガラクタのように地面に投げ捨てた。

 雨に打たれる〈般若面〉の眼から一筋の雫が零れ落ちる。その色はなぜか紅く染まっていた。

 気を失っている妹が恥辱されるのを近くで感じながら、無力な自分を『姉』は呪った。

 呪われた運命を背負い、妹と共に地を這って死に物狂いで生き延びた。それもここで終止符が打たれてしまうのか――しかし、悪魔に魂を売ろうとも『姉』は諦めを知らなかった。

 人生で幾度も味合わされた姉妹の屈辱。それには常に血が付き纏った。

 ――復讐に捧げた血の制裁。

 『姉』は妹を守るためにこの世に黄泉返った。

 全ては妹と復讐のために……。

 だからこそ、こんなところで妹の貞操を奪われるわけにはいかなかった。

 一緒に戦うと決めた。今までも怪我を負わせれたことはあった。しかし、妹の心にこれ以上の傷を負わせるわけにはいかない。

 『姉』は神ではなく、悪魔の顕現を祈った。

 忍び寄る風が裏路地を抜けた。

 雨音の中にあって、その足音は死の叫びのように甲高く響き渡った。

 茶色いローブを頭からすっぽりと被った長躯の美影身。そのローブの奥で白い仮面が嘲笑っていた。

 ――傀儡士紫苑くぐつししおん

 この界隈では名の知れた殺し屋だった。

 少女の躰に跨る怪物に向けて、紫苑の指先から神速で輝線が放たれた。

「ぎゃぁぁぁぁっ!」

 怪物の奇声が木霊し、指から伸びていた五本の触手が同時に切断され、鰻のように地面の上で暴れ踊った。

 白い仮面の奥から中性的で澄んだ――それでいて相手を威嚇する低い声が発せられる。

「理性を失った怪物が……目障りだ」

 紫苑が鼻で嗤った瞬間、憤激した怪物がヒトの面から舌をだらしなく垂らし、狂気の形相で襲い掛かってきた。

 刹那、紫苑の放った煌きが宙に傷をつくり、それは叫び声のような風を鳴らしながら徐々に広がりを見せた。

 宙にできた闇色の裂け目からなにか聴こえる。

 悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。

「〈闇〉よ、喰らえ!」

 怪物を指さし紫苑が叫んだ。

 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出す。

 まさにそれは闇色の風。

 〈闇〉は生き物のように動き、怪物の足を掴み、腕を掴み、胴をも掴んだ。

 自由を奪われた怪物は残った指から五本の触手を紫苑に目掛けて放つ。

 白い仮面の奥で紫苑はなにを思う?

 紫苑の放った輝線は怪物の眉間から股間まで奔り、その躰を真っ二つに断ち割ってしまったのだ。

 怪物を丸呑みにした〈闇〉が恐怖を叫びながら裂け目に還っていく。

「これで終わりだ」

 紫苑が呟くと、〈闇〉の還った裂け目は完全に閉ざされた。

 なにが起こっていたのか、『姉』は見ることはできなかった。

 しかし、感じた。

 恐ろしい力を持った者が圧倒的な力で怪物を葬ったことを――。

 もしかしたら本物の悪魔かもしれないと『姉』は思った。

 悪魔は代償になにを姉妹から奪う?

 紫苑の仮面は壁にもたれ掛かり、気を失っている少女に向けられた。だが、その視線はすぐに地面に投げられている〈般若面〉に向けられる。この〈般若面〉から凄まじい妄執に駆られた怨念を感じ取ったのだ。

 紫苑は直感した。

 ――この面は憑いている。

 ゆっくりと繊手を伸ばし、紫苑は鬼気を纏う〈般若面〉を拾い上げた。

 その刹那、紫苑の脳に直接流れ込んでくる濁流にも似た意識。

《助けて頂戴、お願い。妹の命だけでも助けて頂戴!》

 それは悲痛に懇願する女の声だった。

《アタシの魂ならくれてやる。だから頼む……妹は……妹は助けてやってくれ!》

 紫苑の仮面は『姉』の声を聴きながら、壁に持たれる妹――紅葉の顔を見ていた。

「姉妹の魂……私が預かろう」

 この日、姉妹は紫苑に拾われた。

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