歩き巫女、たづ(3)
死霊が倒されたのを確認すると、彼女はすぐさま少年の母親のもとへと駆け寄った。
しゃがみ込み、脇に短剣を置いて覗き込む。
首筋に指を当てて脈を取って、頬に手を添え眼球や口中を診る……それから彼女は少年を振り返った。
「もう、お母さんは大丈夫よ。じき目を覚ますわ」
猿彦の戦闘が終わると同時に、彼女の背後へと歩み寄っていた僕は、そっと女性を覗き込んで感嘆の溜息を漏らした。
先ほどまで水面に揺れる月の如く不気味に白んでいた肌には血の気が通い、唇は色を取り戻していた。顔つきも先ほどとは全く異なり、穏やかな表情になっている。
「凄い」
あれだけ魂深く根をはっていた死霊らを切り離してしまうなんて……猿彦の隣で三年ほど過ごし、退魔に関することは見聞きしてきたつもりだったけど、彼女のような能力は見たことも聞いたことも無かった。
「それで、あなた……あなたたちは誰?」
短剣を拾い、立ち上がったたづさんは、歩み寄ってくる猿彦に目をやり、ついで僕を振り返って誰何した。
「あ……えっと、僕たちは…………元重さんの使いで。別段、怪しい者ではなくて」
そのきりりとした眼差しは僕を正確に認識していて、観世家の人以外にこうして話しかけられることなどほとんど無かった僕は、一瞬、気まずくて言葉に詰まる。が、幸運なことに彼女は元重さんの名前を聞くと愁眉を開いた。
「元重さん……? でも使いって?」
〔文を届けにきた〕
たづさんの目前までやってきた猿彦が、ヤスケを片手に抱くと、託された文を胸元から取り出す。
「彼は猿彦。元重さんの弟です。僕は敦盛と言います」
〔そいつは俺の持ち霊だ〕
「持ち霊……そっか。あなた、舞々なのね」
頷くと、たづさんは手渡された文に素早く目を通してから、丁重に頭を下げた。
「あたしはたづ。文、確かに受け取ったわ。わざわざありがとう。……それに、さっきはとても助かった」
〔あ……当り前だ。俺は舞々だからな〕
真っ直ぐに謝意を述べられるとは予想もしていなかったのだろう。猿彦は苛立たしげにそっぽを向くと、気にするなと言うようにヤスケを左右に振った。
「あの……」
と、今まで母親を立ったまま見下ろしていた少年が、たづさんの剣を持つ手を掴んだ。
「ん? どうしたの?」
俯き、黙りこくった少年の顔は、乱髪がかかって見えない……
なんだか様子がおかしい。あれほど母親を心配していた割には、喜ぶでもなくて。
「その剣は………霊と魂がどれほど絡み合っていても、分離することができるんですか?」
と、唐突に口を開いたかと思えば、突拍子もない問いを口にした。
「……え、ええ。一応は」
「そう……それは素晴らしい。本当に。本当に素晴らしい」
夢見るような声が唇から漏れ出る。たづさんが掴まれた手を見下ろして顔を顰めた。と、
「欲しい」
突如、少年の唇から、男のものではない、可憐な少女の声が零れた。
「え?」
「おくれよ、その剣」
少年が顔を上げる。
「それをおくれ」
その目に煌めく、人外の光。
――憑依されている!
猿彦が即座に動いた。
横たわる女性を飛び越え、たづさんを左手で力強く脇へと押しのけると、ヤスケを突きだす。
その衝撃で、たづさんの手から落ちた剣……しかしそれは、地に触れる直前に、ぼろり、と崩れて消えてしまう。
「……消えた? 何故」
少年が呻いた。猿彦の一撃を飛び退き避けた彼は、目を細めて剣が消えた辺りを凝視した。臨戦態勢の猿彦など気にも止めていない様子だ。
〔大人しくしてりゃ優しくしてやるぜ……!〕
猿彦は、更に一歩踏み込みヤスケを振るおうとした。その瞬間、少年の楽しげな眼差しが、猿彦を射貫く。
「……笑止」
少年が右手を前へと突き出した――次の瞬間、その手のひらで緑の光が爆発。
〔んなッ!?〕
「猿彦!!」
猿彦は後方へと吹っ飛ばされた。鞠のように転がり、境内を囲う石壁に激突する。
それを見届けもせずに、少年はたづさんへと身体を向けた。
「女。剣は何処じゃ?」
本堂の方へ後退りするたづさんに、少年は何事もなかったかのような涼しげな様子で迫る。
「渡すならば、お主まで殺そうとは思わぬ。わらわは慈悲深いでな」
不気味さと、凄みが滲む可憐な少女の声で少年は問い詰めた。
「あなた、一体……」
「何処にあるのか、とわらわは訊いておる」
本堂へと続く階に踵をぶつけて、転びかけたたづさんは、咄嗟に欄干へと手を伸ばした。不安定な体勢のまま、少年を見遣り、絞り出すように告げる。
「剣は…………渡せない」
「ならば仕方なし。言いたくなるよう、可愛がってやるまで」
細首に伸ばされた手から身を捩って逃げようとする彼女は、髪をむんずと掴まれ引きずり倒された。
僕は慌てて辺りを見渡し、憑依するのに適当な身体がないかを探した。猿彦ですら軽々といなす奴に、僕の力がどこまで対抗できるかは知れなかったけれど、何もしないではいられない。
けれど残念なことに、辺りには先ほど除霊した女性の身体しかなかった。疲労した身体に、再び霊体が憑けば今度こそ命が危ない。
「ぐぅ……ッ」
苦しげな呻き声にはっとして振り返れば、少年が馬乗りになって、たづさんの首を締め上げていた。
あああ、迷ってる暇はない。とにかく止めなくちゃ!
「やめてよ! 君、ねぇ――――」
僕が二人に駆け寄った時だった。
頭上を……黒い影が、過ぎった。
「無駄だと言うておろうが」
少年は忌々しげに舌打ちし――――地を走り迫る影にはっと天を仰いだ。いつのまに戻って来たのか、高々と跳躍した猿彦がヤスケを振りかぶっていたのだ。
僕は大慌てで脇へと転がった。
びゅっと空を斬る音。散る閃光。
〔ちぃっ!〕
咳込むたづさんのすぐ脇に、ヤスケを打ち下ろした猿彦は、母親の上を飛び越え避けた少年が更に人外の身軽さで二歩、三歩と境内の中央まで飛び退るのに、盛大に舌打ちした。
〔ちょこまかと……ッ!〕
「まだ、力の差が分からぬか! こぞ――ッ!?」
間を置かずに追ってきた猿彦を迎え撃たんとした少年は哄笑と共に身構えた……のだったが、突如、ガクリと膝を折った。
「く……まさか、こんな時に」
少年の憑依が解けかけているようだ。
身体が合っていないからか、憑依してから日が浅いからか、はたまた身体の持ち主の抵抗が激しいからか……今までの経験からこのどれかだろうと察しはつくが、はっきりとした理由は分からない。けれど、こんな美味しい隙を猿彦が逃すはずがなかった。
〔力の差が何だって? おい〕
問答無用でヤスケを振るい、張り倒した少年を、更に猿彦は足蹴にした。
「ぐっ……」
少年が身体をくの字に折り曲げて、蹲る。それをヤスケが迷い無く打つ。
……憑依が不完全な霊の自由を奪うのは簡単だ。身体の方を動かなくすれば、どれだけ霊力の高い死霊や怨霊だとしても反撃できない。けれど。
「猿彦! やり過ぎだ!」
ごつり、とたった嫌な音。黒い染みがヤスケに飛び散ったのを目にして、さすがに僕は、止めに入った。
「ちょ……猿彦! 猿彦――――痛い!」
大杓文字に抱きつき止めようとするも、相棒は僕ごとをそれを振り下ろす始末。
駄目だ。先ほど吹っ飛ばされたのが相当頭にきているのだろう。
「猿彦! 猿彦、落ち着いて!!」
このままじゃ少年の命が危ない。焦りが募る――と、振り下ろされたヤスケがぴたりと途中で制止した。
「……わらわを打ち倒す、それも良いじゃろ」
少年が荒い息の下、指先で杓文字をつまみ、止めていた。
〔ああ?〕
「――――ただし、お主にできるのならば」
ぐぐぐ、とヤスケを押しのけ、額から血を流した壮絶な様相で彼は言う。訝しげにする猿彦だったが、
「まだ気付かぬか。わらわが持っている貴様の大事なものに」
その言葉に、途端、杓文字を握る力が弱まった。
〔ま、さか。てめぇ〕
刹那、猿彦の全身がぶるりと震えた。ヤスケの文字にも、焦りが滲む。
「久しいな。そちらの顔のが似合っておるのではないか? え? 元次」
そう猿彦の本名を舌に乗せ、少年はもの凄い力で一気にヤスケをどけた。ついで素早く立ち上がると、身体が傾いだ猿彦の狩衣を掴み、引き寄せがてら腹部に膝をねじ込む。
「猿彦!」
痛みに前屈したところを、更に脇腹を蹴りあげられて、猿彦はぐったりした。それを重ねて痛めつけようとした少年は、はっとして退き、間合いを開ける。猿彦が印を結んでいたのに気付いたのだ。
〔いやンなるな……勘が良すぎて〕
誘き寄せに失敗した猿彦は、苛立たしげに地に落ちたヤスケを蹴り上げた。
〔だが、まぁ、いい〕
ヤスケを掴み取り、ぶん、と重い音を響かせて再び構える。
〔……待ってたぜ。この時を――黒翁!!〕
黒翁とは観世の守護神。
猿彦はそれを継承する儀式に失敗し、顔を失う怪我を負ったと聞いている。しかし、そんな神の名がどうして、今……?
〔お前を観世に連れ帰る〕
「おぬし、わらわを捕まえる気か? ふ……ふふ、ふ……やれるものならやってみやれッ!」
言って、少年は人間離れした速さで、猿彦に飛びかかる。猿彦はそれを避けるでもなく、真っ正面から受け止めた。両者がぶつかると、目を焼く光が炸裂し、爆音が轟いた。
再び始まる凄まじい攻防を、わけも分からずはらはら見守りながら、僕は考えを巡らせた。儀式が失敗した理由も、その守護神がどうなったかも詳しくは知らない。けれど、猿彦の態度を見る限り、あの少年に憑いているのが……黒翁、に違いない。
「…………あれってさ、つまり、憑依霊なわけでしょう?」
と、その時、たづさんが僕の隣に立った。
指跡の残る首筋をさすりながら、戦況を眺め、目を細める。
「依代から叩き出した方がやりやすくなるわよね」
「確かにその通りですけど……」
憑依された人は、霊にとって隠れ蓑であると同時に、盾でもある。舞々は原則、憑依された人間を助けるために霊と戦うのだ。だから彼女の言う通り、憑いているのが死霊だろうが神だろうが、身体から叩き出してしまった方が全力でもって潰しにいける。しかし。
「除霊するつもり……なんですか?」
僕は問いを口にせずにはいられなかった。その除霊が難しいのだ。そもそも目まぐるしく動く二人に、どうやって近づくというのか。
「言ったでしょ? あたしの『魂切りの剣』は、融合した魂を分離することができるって」
「でも……」
「ま、見てらっしゃいよ」
悪戯っ子のように片目を瞑って、彼女は胸元で印を結んだ。
彼女の身体が淡く発光し始める。風、そして雷鳴が轟き、再び辺りが暗くなる……と、異変に気付いた猿彦がこちらを見て何事か言った。早くて読めなかったけれど、たぶん〔余計な事はするな〕というような制止の言葉に違いない。
「あ、あの、たづさ……」
「行くわよ」
それを伝える前に、彼女はふっ、と息を吐き出すと、自身の右手を胸元に突き入れた。
ぬちゃり、とした音がたつ。
「たっ、たたたたづさん……!?」
ぎょっとする僕の目の前で、彼女は自身の体内から剣を引き抜いた。
「夬夬!」
ついで、彼女は呪を唱えてそれを投げつける。
剣は見事に憑依された少年へと向かい――――しかし、咄嗟に伸ばされた猿彦の右腕が庇うかのように、それを受けた。
「はあ!? なにしてんのよ!?」
事態を把握できずに、僕らはきょとんとしてしまった。そこにヤスケがびゅんッと空を切って飛んでくる。
ごんっ
ヤスケに顔面を殴打され、僕の目の前に星が散った。なんとか気が遠くなるのを足を踏ん張って耐え、ヤスケに目を落とす。と、そこには、焦りまくった文字列が踊っていた。
〔やめろ除霊! 今逃げられたら、俺の〕
その言葉は途中でかき消えた。丸腰になった猿彦の腹部に、少年が拳を突き入れたのだ。
くの字に身体を折り曲げる、猿彦。ニヤリと笑む少年の、振り上げた掌に集まる光。
「猿彦、危な――――――ッ!」
思わず上げた僕の声は、突然第三の方向――山門の方から飛んできた赤いカマイタチの轟音に、かき消された。
「ぎゃぁぁぁぁッ!」
咄嗟に庫裏の方へ飛び退った猿彦とは対照的に、少年は突如襲ってきた風の刃に反応できず、まともに喰らった。
背中から鮮血が飛び散り、叩き落とされた蚊のように、力なく地に沈む。
「何してんの? さっさと終わりにしなよ。彦兄」
打ち杖に纏わり付いたカマイタチの残滓を払いながら、声の主が颯爽と門をくぐって現れた。
嗜虐心を煽る美しい嘲笑を浮かべているその人は、猿彦の弟、元雅くんだった。
「ようも……」
血反吐を吐き、顔を上げた少年が、見るものを焼きつくしかねない視線を彼に向ける。少年の背後に揺れる、地獄の業火を思わせる冷たい怒気。
「ようも、わらわの前に顔を出せよったな、元雅ぁっ!!」
少年は喉を引き裂く怒声を絞り出すと、地を蹴って元雅くんに飛びかかった。
それを不遜な態度で見やった元雅くんは、打ち杖を唇に当て、艶然と笑む。
「狗の悪さを糺すのは、主の役目って決まってるだろ」
ついで彼は、腰元から面を取り出し顔にかけた。きり、と気品に満ちた、誇り高さの伺える美女……〈増女〉の面だ。
ぶわっと元雅くんの白練りの狩衣が膨らんだかと思うと、足元から鮮やかな赤色に染まる。頭頂で纏めた髪が解き放たれ、逆立った。
徐々に面が、変化し始める……
白い肌は赤く染まり、眉間に怒りの皺が縦に深く走った。カッと刮目した金泥の瞳、引き延ばされた口元から、恨みの吐息が漏れる。顔に張り付く、長く黒々とした髪がさらに恐ろしさを際立たせていた。
――舞々の神髄、憑依。
元雅くんが持ち霊を降霊させたのだ。
「狗……狗とのたまうか!! 貴様、絶対に許さん!」
「お前、少しは僕の妹の可愛さとけなげさを見習った方がいいよ。じゃないと……消しちゃうよ? まぁ、消すけど」
彼は杖を繰り出し舞い始める。
緋色の風が鋭く吹き荒れた。
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