「裏切らない」(5)
「猿彦…………」
縁側から地に降りて歩み寄れば、彼は背からヤスケを引き抜き、背を向けたまま言った。
〔ったく。あのトサカオンナ……人の言うこと、ひとっつも聞きゃしねー〕
ヤスケを脇に挟んで、猿面をかけながら、いつもの軽口を叩く。
〔あいつ、馬鹿だ〕
やがて僕に向き直った猿彦は、ぽつりと続けた。
〔馬鹿だ、って思った。前だったら。だが……今は違う気がする〕
僕は頷いた。
彼女は精一杯に生きて、消えた。
その存在は消えてしまったけれど、彼女の意思は……彼女が守ったものは、彼女が猿彦の中に残したものは、明日へと続いていくのだ。花は咲き、やがて散り……けれど、その種子は決して消えないように。
――僕らはここにいる。存在している。
過去から今、今から明日へと歩いている。全てのことは、続いていく。僕らは迷い、模索して、それでも歩むのを止めない。なぜなら、此処にいるから。この存在が、全ての物事を価値あるものにする、証明だから。
猿彦はもう逃げないだろう。
僕はそれを見守っていけることを、誰にともなく感謝したい気持ちになった。
「………たづちゃんは」
不意に室から出てきた元重さんが、僕の脇をすり抜け草鞋を引っかけると庭へ降り立った。
〔消えた〕
「そうですか……」
元重さんが俯いたまま歩みを止める。ややあってから、彼は顔を上げると問うた。
「教えてくれませんか、猿彦」
背中からでは彼の様子ははっきりとは分からない。けれどその背はとても痛ましく、小さく見えた。
「私には君が分からない。………殺されるとは、思わなかったんですか」
〔思わなかった〕
猿彦はにべもなく答える。
「何故……」
元重さんは、小さく目を見開いた。
「……もう、バレてしまったんです。未だに、『良い兄』を私に押しつけるのは止めてくれませんか。私は君を殺そうとした人間ですよ」
彼はそっと自身を抱いて続けた。
「黒翁に再会した時、私がまず感じたのは保身のための恐怖でした。君に何もかも全部ばれてしまったら、と。私は人殺しの自分を忘れかけていたんです。『良いお兄さん』の毎日がとても心地良くて……」
一旦言葉を切ると、力なく首を振る。
「でも、それだけじゃなかった。君に顔が戻るということが、私の内で初めて現実味を帯びて……身体が凍りました。どれだけ君の苦しみを知ろうと、どれだけ良い兄を演じようと、五年前の妬みはちっとも晴れてはいなかったんです」
ぶるり、と身体が震わせて、彼は続ける。
「私は、愚かで傲慢です。償おう、君のために生きようと決めたはずなのに……取り返しがつかない罪を犯したくせに、希望もない未来は嫌だと思っている。明日が良い日であればいいと望んでいる。納得できない。自業自得だとしても、認めたくない。どうして選ばれたのが私ではなかったんですか。何故、私は父上の子ではないんですか。……どうして、どうして、私は、君にあんなこと…………!」
髪を振り乱し、彼は猿彦に詰め寄った。
「君が憎くて仕方がない。私がこんなに惨めになるのは、君のせいだ。君さえいなければ、君さえいなければ――なのに! なのに、私は。私は…………っ!」
彼は声を詰まらせると、力なく項垂れた。
「もう、自分で自分が分からないんです。君を、憎んでいるのか、大切に思うのか。悩んで悩んで、けれど、答えは出ずに……疲れてしまった」
いつもと変わらない声。いつもと変わらない穏やかさ。けれど、その時、なんとなく不安なものが、僕の胸中に沸き上がった。
「不謹慎ですけど……五年間、楽しかったんですよ。猿彦。――本当に」
決意の滲む声が告げる。と、同時にその右手が鞘走った。
逆手に持った短剣に、生まれたばかりの陽光が白く反射する。
彼は迷いなく刀剣を自身の首へと振り下ろした。
ヤスケが地に放られ、からりと音を立てる。
猿彦が手を伸ばす。
けれど、その手は、
――――――間に合わない!
「刀が、動か、ない……? まさか」
しかし刃は元重さんの首をかっ斬る前に制止した。
「よ、良かった……」
僕は安堵に戦慄く溜息を漏らし、握った剣を見下ろした。それは、彼が舞々だった頃、使っていた神器だった。
……危なかった。
自分が怨霊だとかそんなことさえ忘れて飛び出したものの、彼が手にした剣が、僕でも触れることのできる神器でなければ、確実に彼の命は自ら絶たれていただろう。
「敦盛くん? は、放しなさい。放しなさ―――っ!!」
暴れ出した元重さんから剣を取り上げれば、すぐ側まで迫っていた猿彦が、彼の頬を拳で打ち付けた。
吹っ飛んで地に蹲った兄を、荒く肩で息をつく猿面が見下ろす。
猿彦はヤスケを目で探したが、すぐに取りに行くのをやめた。代りに僕に来るよう顎をしゃくって命じる。
僕は素直に従った。
「あんたが、ここまで馬鹿野郎だとは思ってなかった」
僕は一言一句違わず、猿彦の声を口にした。
「あ、つもりくん……? いや、猿彦?」
元重さんはびくり、と顔を上げた。脳内では、僕の声は弟の声に聞こえているに違いない。
「なあ。兄弟ってのは、バカマサとしいみたいなのをいうのか? 俺はあんたが、あんな風にべたべたしてきやがったら、正直、気持ち悪いわ」
面をかけたまま、そう吐き捨てると、猿彦は兄に人さし指を突きつける。
「あんたは俺が嫌いなんだよ。だが、ほんのちょびっと好きな部分がある。それでいーじゃねぇか。面倒臭ぇ」
元重さんがぽかんとする。
僕は元重さんの矛盾を思って目を閉じた。
きっと……一人の人間を、好きだと言い切るのが難しいように、嫌いだと言い切るのも難しい。だから、彼の混乱は、普通のこと。
好きか嫌いか……それは決めつけることじゃない。嫌いだって思う彼もいて、でも、それが全部ってわけじゃない。猿彦に生きて欲しいと思ってる元重さんも確かに存在する。それが、彼が猿彦と共に生きた五年間……
「あと。今みたいな事は二度とすんな。終わらせるのは、誰にだってできるんだよ。これは、とある阿呆帝の受け売りだけど」
「貴方はそれで良いんですか? ……私は猿彦、君から最も大切な――舞々である事を奪ってしまったというのに」
「あー……それな。別に大した事じゃねぇよ」
猿彦は大げさに肩を竦めてみせた。
「ってか、顔がなくたって舞々できるって気付いたし――あ。お前が使えるって言ってんじゃねぇからな」
(…………じゃぁ、どういう事だよ)
どうせ僕じゃ力ある怨霊には太刀打ちできないけど。それなら、どういう意味なのか。
元重さんも僕と同じことを思ったのだろう。訝しげにするのに、猿彦は胸を張って言った。
「持ち霊を増やす」
(はい?)
「ですが、その顔では……」
「そこが俺様の力の見せ所だろ。敦盛を従えてるようにこの俺様の人格で協力をあおぐ」
人格? ……僕の聞き間違いだ。そうに違いない。
「んで、黒翁にも勝る神とか怨霊探し出して、バカマサ以上の力を手に入れて、もう一回、大夫に返り咲いて見せる。あいつ、俺に完膚無きまでに打ち負かされてぇみたいだし。それに、こんくらいの不利な条件があった方が、力の差、歴然としてて気持ちいいだろ?」
くっくっく、と腰に手をやり、猿彦は低く笑った。
「猿彦、それは……」
「ああ。俺、もう一回大夫目指す事に決めた。っつーわけで、顔が無くなった事なんぞ、俺にとっちゃ屁でもねぇから」
言って、彼は力強く頷いた。
「…………だからもう、自分、責めんな」
それから元重さんの手を取り、兄を立ち上がらせた猿彦は、そう呟くように吐き捨てると、さっさと憑依を解いた。
元重さんがぽかんとする。
その頬に、つ……、と、一筋、光るものが流れ落ちた。
〔つか、もう暫く俺の顔戻ってこねぇし。まだ、あんたに死なれちゃ困るし〕
ヤスケを拾い上げた猿彦は付け足す。
「ごめ…………ごめんなさい、猿彦」
〔俺の方こそ……いろいろ――悪かった。本当に。んで、今まで支えてくれて……あんがと〕
元重さんは顔をくしゃくしゃにして、首を振ると、顔を覆って泣き崩れた。
(八ノ段:「裏切らない」 了)
次回最終回。1月13日(火)、朝七時に更新です。




