「裏切らない」(5)
しばらく走ると、先を行っていたたづさんが突然立ち止まった。
「うそ……何で」
呆然とする彼女の視線の先を見て、僕は息を飲んだ。しいちゃんの命糸が……ぷつり、と途切れていたのだ。
「命糸が切れてるね」
「それって、帰れないってことですか!?」
何の感慨もなく事実を述べた元雅くんに、僕は絶望の悲鳴をあげる。
僕らはしいちゃんの精神と身体を繋ぐ、命糸を辿ってやってきた。途中で黒翁に隠されてしまったけれど、元雅くんの仕掛けていた霊糸に頼ることで乗り越えた。けれど、その霊糸は元雅くんから、しいちゃんの身体に繋がるもの。元重さんの待つ此岸、しいちゃんの精神と繋がるものは、命糸だけだ。
その命糸が切れた。彼女の命糸は僕らの命綱でもあったのに。
……もう、戻れない。
一体、何故。どうして。刻限切れなのか、それとも――脳裏をかすめる穏やかな面差し。浮かび上がる恐ろしい疑問。
僕は呆然とふわふわと浮く紅の糸の先っぽを見つめて、慌てて首を振ると疑いを打ち消した。違う。元重さんは裏切ったりしない!
「ど、どうしたら……」
足元の闇は鳴動を続けている。崩れ去るまでもう時間はないように思われた。
元雅くんは黙っている。
たづさんも、黙っている。猿彦が何か言った様子もない。
このまま、時空の狭間に取り残されてしまうのだろうか。先ほどまで屠ってきた死霊たちを思い出して僕はぎくりとする。
生殺しは絶対に嫌だ。でも、方法がない。
身体中から熱が足下に吸い込まれていくような、咽がからからに渇いたような恐怖に飲み込まれる。
どうすればいい!?
――――と、
「い、た……いたたたたた」
突然、たづさんが項を押え座り込んだ。
「たづさん? どうしたんですか? 怪我でも――」
「わ、わかんない。突然、首の後ろが痛くなって――ッ!? 何? 猿彦。何て――――?」
憑依をしていないから僕には聞こえないけれど、猿彦が何か言っているらしい。
膝に額を押しつけ内の声に耳を傾けていたたづさんは、やがてバッと勢いよく顔を上げた。
「うん。聞こえる」
「え?」
「――元重さん? 元重さんが、呼んでるのね。そうでしょう、猿彦?」
戸惑う僕の腕を、元雅くんがきつく掴んだ。
「敦盛。吹いて」
「え? え?」
「猿彦は、重兄の気息と繋がってるんだよ」
「そうか」
此岸へと繋がるもの……たった一つだけあるじゃないか。
顔がない猿彦は魂の維持に必要な呼吸すらできない。だから彼は特殊な呪で、元重さんの呼吸を共有している。
「敦盛、再び参ります!」
たづさんの項から伸びる気配に、意識を集中させて、僕は指笛を吹く。
ガラガラと場が崩れていく。足下がぴしり、とひび割れる。
そんな中、ばっと宙に穴が穿たれた。
「開いたッ! 飛び込むわよ!!」
僕らは此岸へと続く最期の空間を駆けた――
* * *
「元重さん!」
見覚えのある板敷の室が見えてくる。心配に顔を曇らせた元重さんが、はっとして腕を伸ばした。
僕もその腕へと手を伸ばす。しっかと彼は僕の――いな、しいちゃんの腕を掴むと、力強く引っぱった。
間一髪。
振り仰げば、がらがらと空中に穿たれた穴の奥で空間が崩れ去っていく。……やがて、それは閉じた。
「みんな、無事ですね」
転げ落ちた僕らを見渡して、元重さんが胸を撫で下ろす。その目尻には涙が浮かんでいた。……僕は一瞬でも彼を疑ってしまったことを内心で詫びる。
「感動の再会は後にしましょ」
たづさんは、猿彦に憑依するまで憑いていた少女の遺体を引きずり、室の端っこまで持って行った。続いて、すぐさま布団に横たわった、しいちゃんの魂の入った少女の枕元に、膝を推し進めた。
彼女の意図をくみ取って、僕はすぐに少女の隣に横たわり憑依を解く。元雅くんはしいちゃんの元へ近づいて、ぎゅ、と妹の手を握った。
「まず、元能くんの魂を、元に戻さなきゃ」
彼女は剣を胸元から引き抜くと、しいちゃんの魂を救い上げる。
「夬夬! そんでもって、塔配!」
ついで、それを本来の身体へと定着。続いて、しいちゃんの身体に残っていた魂を元の身体へと戻してやる。
青白かった二人の少女の肌に、赤みが戻りはじめる。
息を詰めて僕らが見守る中、束の間の沈黙が過ぎ去り――
しいちゃんの瞼が痙攣した。
小さな渇いた唇が戦慄く。やがて。
「………………兄ちゃ」
うっすらと瞼が持ち上がると、ぼんやりと焦点の定まらない赤い瞳が彷徨って元雅くんを探した。
「しいちゃん」
元雅くんが涙目で破顔して、妹の足元に縋り付く。それを満足気にみやって、たづさんが微笑を零した。
「ま。ざっと、こんなもんよ」
それから彼女は大仰に息を吐き、立ち上がった。
「…………たづさん?」
「ん? ちょっと、疲れただけ」
一瞬、壁に手をつき俯いた彼女に僕はぎくりとした。肩を竦めたたづさんの顔は、紙よりも一層白かった。
彼女はふらりふらりと危うい足取りで、蔀を開けると、中庭の方へ姿を消す。
「……たづさん!」
僕は不安に掻き立てられて彼女を追うと、縁側へ飛び出した。
「っ…………」
そして、庭に降り立つこともできずにその場に立ち尽くした。
庭先に立つたづさんの長い髪が、風になぶられるまま揺れていた。
満足気に彼女は天を仰いだ。その口元には誇らしげな、けれど少しだけ寂しそうな微笑が浮かんでいて。
一面の星空から、彼女へ向かって小さな光の雨が降る。淡い光に包まれて、たづさんはそっと目を閉じた。
僕はその姿を見ていられずに、俯きかけた。
……猿彦の胸中を思うと、胸が軋んだ。
魂が消滅してしまえば、たづさんという存在は永遠に消えてしまう。身体を得て生まれ変わることもない。彼女はどこにもいなくなってしまう。
なのに、彼女が笑うから。
彼女は誇らしげにしているから。
僕は、思わず逸らしてしまいそうになる目線を、ぐ、と上げた。歯を食いしばって、彼女の生き様を目に焼き付ける。
どうしてだろう。
寂しくて、辛くてたまらない別れなのに、不思議と涙は出ない。何故か……猿彦も同じ思いなのだろうと、感じた。
やがて、蛍火のように微かな光は夜明けの光に溶け入るようにして消えていった。
そして、そこには……天を仰ぎ立つ、一人の男が、残された。
涙すら流せない、顔なしの男が。




